文明時評

きつね

民主主義と衆愚

HOME > Think for yourself > 文明時評 > 民主主義と衆愚

2005年2月中旬の報道によると、フランスでは全国で10万人もの高校生がデモをして、教育文化省の提案を取り下げさせたという。日本のセンター試験にあたるバカロレア(baccalauréat)の試験科目を学生の負担軽減ということで減らし、そのかわり学校での普段の成績などを参考にしようと政府が腰を上げた。

これに対し高校生たちは、学校の成績判定では、上級校と下級校とでは不公平が生じ、また教師間の能力によっても学生の公正な成績が判定されないということで、反対の意見を表明し、デモに及んだ。その影響力はすさまじくついには政府の提案は取り下げられた。

このことが日本に伝わってくるのだからもちろん驚くべき事に違いないが、内容の是非はともかくフランスの高校生たちがこれほどもまでに「思考力」や「意見の表明力」を持っていることに驚かされる。日本であれば高校生の「政治的判断力」などは幼稚園児程度であり、インタビューを受けても「チョーわからない」と言われるのが落ちだ。

さらに時期を同じくしてフランスでは大人のデモも行われた。今では世界で最短である週35時間を、国際競争力をつけるために残業をもっと可能にしようという政府の提案に反対したのだ。こちらは政府の提案に押し切られてしまったが、自分たちが獲得した権利を守ろうとする人々の意思表明は、先の高校生と同じく健在である。

もともとフランスは日本と同じく政府中央集権的な力が強い国であるが、バスチーユ牢獄襲撃事件の伝統なのか、自分たちの意見を活発に論じ、自分の意見がまとまったらストライキやデモによってそれをはっきり表明することはいまだに変わらない。

実はこれこそ、「衆愚政治」に陥らないための絶対条件なのだ。民主政治には「自由・平等」が大切だと繰り返し言われているが、この二つを支えるためには、まず第一に「一般の」人々が賢くなければならないし、無関心だったり、盲従するような国民では未来がないのだ。この尺度を「民度」と呼ぶ人もいる。

なるほど政府とその運営にはエリートと呼ばれる人々が必要だろう。だが一方でこれに同レベルで対応できる一般国民がいなければ政府は暴走する。世界のなかには大統領が、軍の力を使ってで自分の息子を大統領にしてしまう国すらある。しかも現代のように変化の激しい時代には人々の側に柔軟な対応機能がなければやっていけない。

振り返って日本を見ると、労働組合もストライキもすべて衰退し、「怒らない」国民性ゆえに、権力や財力を持つ者たちに好きなように牛耳られているのが現状だ。まず自分でものを考えない人々が多すぎる、ものを考えないからもちろん意見の表明ということがない。もともと意見を表明するのに日本語は余り向かない言語だった。人々の語彙はすっかり萎えしぼんでしまったのだ。

なかにはそれは日本の教育制度、受験戦争が原因だなどという人もいる。だがフランスの学生だって勉強に追われている。日本の大学生が遊んでいるのとは雲泥の差である。問題は別のところにあるようだ。改革を妨げ、今あるままで保身に努める根性はどうやら江戸時代から変わらないらしい。あるいは腐敗が当たり前であるアジア的風土が現れているのかもしれない。根本に何千年と続いた文化がある。

これに加えて、アメリカの物質万能もまたすっかり日本に定着してしまった。金儲け主義、効率優先主義、管理主義は知性を嫌い、軽蔑する。彼らの理想とする人間像は反抗したり、異なる見解を唱えたり、ましてや自分で考えたりすることをせず、昼間の労働を忠実に実行し、疲れて家に帰れば、白痴的番組とコマーシャル漬けのテレビをエヘラエヘラ笑いながら見てくれる人々のことである。

その点では日本人はアメリカ一般国民に非常に似てきている。他人志向であることもそうだ。周りと同じものを、周りと同じ生活水準を、そして同じ思想を持とうという傾向がこの両国では顕著に出ている。衆愚政治を危惧し、そんな状態に陥らないようにいろいろ工夫を考えたのは、アメリカ建国当時のワシントンやジェファーソンだったのだが・・・

アメリカではベトナム戦争の時に、反戦運動が盛り上がった時代もあった。その時の学生たちはそろそろ定年を迎える。長い社会の中での生存競争に疲れ、体制を変革しようというエネルギーは完全に失われた。そして彼らの子どもたちは、変革の空気に触れたこともなく、沈滞しただ経済的繁栄だけを追い求める習慣にどっぷり浸かっている。かつてニクソン大統領がいった「Silent Majority 」はいっそう保守的になり、その数を増し民主主義の危機を叫ぶ「先鋭的分子」はますますその数を減らしている。

政府は同時多発テロの発生を管理強化の絶好のチャンスとして以来、「テロ防止」という名目で管理を強め、人々の先鋭化を許さない。60年代のような政治的ルネサンスは再び起こることはあるのだろうか?

2005年2月初稿

HOME > Think for yourself > 文明時評 > 民主主義と衆愚

© Champong

inserted by FC2 system