文明時評

きつね

愛は死んだか

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映画「恋におちて Falling in love で、主人公の妻が、何気なく「愛は死んだ」と口にする。現代社会では、豊かさが人々の愛を奪い物質的豊かさに頼る生活がすっかり本格化してしまった。カネがあれば、愛は必要がなくなった。

愛はただ思っているだけだと死ぬ。料理を作るとか、手編みのセーターとか具体的な意志表示になるものがあれば生き続ける。だが、お金ですべてを任せ、プレゼントは単なる品物選びに出したとき、喜ぶのは売りまくる商人たちだけである。

愛は貧しさや苦難がなければ生まれないものなのか。イエスやブッダやマホメットの生まれた時代には貧しさや苦難がそれほど多すぎるほどあった。そこに助け合い、慈しみあう事態が生まれたわけだが、いったんものが豊かになり表向きの生活が楽になると、どこの国の人間も例外なく家族や隣人関係が希薄になりそれぞれが孤立化してからに閉じこもる傾向が生まれる。

又、かつては人間にはとうてい乗り越えられそうもない悲劇、事故、不安に対して宗教というものが大きな位置を占め、人々の精神の安定をつかさどっていたが、これも近代になって急激に衰退し、もはや宗教的な慰めを必要としない人々が多数を占めるに至った。

このことは小説、映画など、現代文明を描く作品には必ず現れてくることだが、これはどうも例外なく起こることらしい。なぜ生活が豊かになると、金が生活の中心になると愛が冷えるのか?それもどの人間にも起こるのか?

もしそうだとすると、愛という感情は、苦難の時に生き延びるための進化的産物であって「助け合い」から人間という種の繁栄や絶滅の防止という機能をおわされてきたのだろうか。たしかに世界中から貧困が姿を消し、物質的最低限の水準が確保されるようになったとき、慈善団体は「失職」する。

実際にはそんな状態はあり得ないとしても、ある限定された地域ではそれが実現し(いわゆる先進国、先進地域で)これが、人間たちの関係の冷却というかたちで現れているのだろうか。

もしそうだとすると真の人間存在は、苦難や苦痛なくしては価値がないともいえる。一般に人々は達成すべき目標を持って、それがかなわないときに自らを鼓舞する事の他にお互いに相互協力しあってきたものである。いったんその動きをやめたとき、人間に残された価値というものは知識や経済的豊かさの他にどこを探しても見つからない。

ということはそもそも人間存在の出発点がわれわれが今実現しようとしている高度な物質社会を決して目指していなかったのではないかという観点に立つ他はない。文明が起こり、人々はこれまで協力しあって「豊かな社会」を目指してきたが、これが必然的に愛の消滅を意味するものであれば、それにはまったく存立の価値がないということであり、すでに行き詰まりに達し、現代文明社会の終焉としかいいようがない。

つまり今のように右肩上がり出より豊かさを求める社会はすでに終着駅が見えているのである。人類はその終着点に着いたときどうするのか?選択肢は二つしかない。滅亡か、永続的に維持できる社会の創成かどちらかである。

今まで数多くの宗教家や哲学者や作家や映画監督が、現代社会の行き詰まりを描き、ある時はそれを乗り越えるヒントを出してきた。だがまだ明確な形では出てきていない。しかもたとえ出てきたとしても繁栄に酔いしれる現代人には見向きもされることはないだろう。

船が暗礁にぶつかる前に大きく舵を切り安全な航海へ進むには明るく照らす灯台の光が必要だが、残念ながらその光は見えてこない。と言うよりは見えないのがわれわれに定められた運命なのかもしれない。つまりは映画「猿の惑星」にあるように、新たな出直しが必要なのかもしれない。

2005年5月初稿

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