文明時評

きつね

仕事の意味

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現代社会では、個人にとっての仕事が、これまでとは大きく変容してきている。かつては伝統と、居住する地域によって個人の仕事が決定されてきた。多くの場合自分の生まれた家の仕事を次ぐのが一般的であった。ところが、19世紀以降社会の流動性が高まると、個人の選択による仕事の種類の決定が行われるようになった。

これは一見選択の自由が広がったように見える。実際多くの人々は、「家業からの自由」ということで、これを歓迎し都会にでる若者たちは、因習的な田舎を捨てて新しい世界に希望を持って飛び込んだのだった。経済が高度に成長している間は、人々は将来の生活が向上することだけを夢見て、その仕事の中身についてあまり深く考えようとしない。

ところがいったん経済成長が落ち着き国際競争の激化によって労働環境が変化してくると、自分の仕事の単調さに気づくものが現れた。将来の設計や、重いローンに追われているときは、仕事のつまらなさに気づくことは少ない。みんな必死であるからだ。ところがいったん自分の生活全体を見直す余裕を持ってみると、多くの現代人は愕然とする。

まず、残業をしない場合でも平均して一日24時間のうち8時間を仕事に費やすわけだが、これは一生のスケールでみても、75年生きるとしてもそのうちの25年間という貴重な時間である。もしそれが単なる繰り返しや単調きわまる仕事だとしても大部分の人々は感覚が鈍磨してしまっていて、たいして気にもせずに生きて定年を迎える人も多い。

だが、人生の「価値」を気にする人々は、この膨大な時間がそれなりに価値があったか、それとも浪費されたかを確かめたくなるだろう。「職業に貴賤はない」などともっともらしくいわれているが、実際のところどんな社会でも仕事によってその人生がどのように送られてきたかを判断され、自らも判断してきたのだ。

もちろんここで、具体的にこの職業は「上級である」一方この職業は「低級である」などと判別することなどできない。どだいそれらは個人のものの見方に左右されるからだ。仕事が現代社会において成立するのは、まず「報酬としての金が支給されること」であろう。これなら誰でもが納得する共通項である。

すなわち人々が職業に就く最大の動機は、金がもらえることにあると言っていい。仕事の価値は、その年収、月収、時給によって決まるといっても過言ではない。そんなことはない、と反論する人々も多かろう。だが、少なくともアメリカ式自由競争の時代では、これしか価値の確実なものはないのだ。

だとすると皮肉にも、マネーゲームが仕事のうちでもっとも純粋に価値のあるものだということになる。証券会社において、投資先の決定を行うことがおそらく現代において最も重要かつ収入が保証される仕事であろう。また、株式の行方を追うことも価値のある仕事だといえよう。

彼らの仕事ぶりと収入の多さが、多くの人々にため息をつかせ、同じ道を歩む人々をどんどん増やしている。一般企業、たとえば製造業においても最大の収益をあげることが第一の目標であり、収益の増大に結びつかないもの、長期的すぎて将来の見通しが立たないものは直ちに捨て去られる。

企業が、その収益増大の最大の障害になっていると思っているらしいのは、「人件費」である。かつては奴隷が仕事をし、最小限の「エサ」を与えておけばよかった時代もあったのだから、企業としては法に触れない限りそれに限りになく近づきたいというのが本音であろう。

ただし優秀な人材がいなければその企業はたちゆかないから仕方なく高給を出していることになる。金がすべての動機になっているのはテレビでのクイズ番組を見ればよく実感できる。司会者が、競争者たちに、「あと・・・万円」とまるで札束で頬をなでるような言い方をして楽しんでいるのがよくわかる。クイズそのものはつまらないこと至極であるのに、それに巨額な償金がつくとなれば参加者たちは真剣にならざるを得ない。

これはかつてからのばくちと実に同じ原理であることがわかる。たかがサイコロ、トランプ、ルーレット、これらから賭金を取り上げたらいったい誰が参加するだろうか?それ自体がつまらないゲームなのに、ばくちの要素が入ったとたん人々は徹夜をしても全財産を投入してもいいと思うくらい真剣になる。

このように今も昔も金はすさまじい力を発揮して人々の行動を駆り立てている。金の持つ魔力はすべての人類に共通である。偉大なる宗教家や哲学者が金と縁を切るようにと何度も勧めてきたのもそのせいである。

こうやってみると、仕事の価値とは何か、という本題には、同様に金の要素を取り除いてみればよい。仕事に夢中になっている人に、「今この仕事の報酬は一銭もないとわかったらどうしますか?」と聞いてみればよい。即座に大部分の人々が「そんなことならあほらしくてやれるか!」といって職場を去っていくだろう。そしてわれわれにもそれがどんな種類の仕事か容易に察しがつく。

中には仕事場を去らない人々がいる。その理由は、「自分の自由な時間」を作ることのできない人々である。なにもしなくてもよいという状態は、恐怖と焦燥のどん底にいるようなもので、そのような精神的苦痛に投げ込まれるよりはあくせくしている方がよいと考える。

これは国民性によって大いに違いがあるらしい。日本人はまさにこのタイプで過労死するまで働くというのは、この強迫的な状態が大いに関係している。この場合は仕事の価値が云々という問題ではなく、単に自分に与えられた人生という長い時間に耐えられないというだけのことだ。

最後に残ったごく少数の人々は、報酬がなくとも、別に時間的な強迫観念にさらされているわけでなくても、黙々と仕事を続けるであろう。なぜならば彼らはその仕事の持つ行為そのものに魅せられているからだ。もちろん飢え死にしないだけの金銭的報酬は必要だ。だがいったん経済的問題が解決したならば、無報酬でも仕事は続けられる。

もちろん常人は、金銭的報酬と精神的安定と仕事そのものの魅力の3つがバランスよく混ぜ合わされて働いている。しかしそのような常人は非常に少なくなった。なぜなら現代社会がそのような生活を許さないからだ。

新自由主義は、世界の主役に金儲けだけに向かう企業を据えた。この傾向を今までの人類の歴史に照らしてみると明らかに「退歩」なのだが、この恐ろしい怒濤のような流れはもはや止めることが非常に難しくなっている。

常に馬車馬のように働いていなければならないほどの低収入にある人、高給ではあるが常に失敗と左遷の不安にさらされて睡眠薬を片時も手放すことのできない人々、消費を限度以上に行わせようという洗脳によって常にローンを返済するために働く人々が多数派になりつつある。

国際レベルの経済戦争の激化は、このように個人レベルの生活をめちゃくちゃにしている。仕事は何か、なにが価値のある行為かをいうことを考える余裕など全く与えることなく、人々は再び奴隷に戻ってゆく。ひょっとしたもっと不幸な奴隷に。

初稿2007年5月

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