文明時評

きつね

競争の欺瞞

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世の中の本質は敗者に対し勝者を作り出すことではない。それはかごに閉じ込められたネズミどもの世界の話だ。これを人間世界に無理やり適用させようというのは自分が勝者になれるという自信を持っている連中である・・・

現代社会における「競争」という言葉がこれほどの影響力を持ったことは今までにない。競争によってお互いが切磋琢磨され、よりすぐれた者が生き残り社会は発展してゆくという考えかたが一般の人々の間にいきわたり、社会制度もそれに合わせなければならないという風潮が支配的になった。

振り返ればダーウィンの進化論において「適者生存」が唱えられ、これがちょうど欧米の工業化社会への出発と時を同じくしたことが今日の競争万能論につながったらしい。新興工業はお互いに競争しあい、品質を高め生産性を高めることによって社会の発展に寄与するという素朴な考えが広まったのである。

これはまた人々の間に、「競争」がまるで自然界のおきてのように思われ、競争をすることによってより優れたものが登場するという期待を抱かせたのだろう。ところが実は自然界で競争が起こるのは、たとえば多数のねずみをかごに閉じ込めて過密情態においたような場合なのである。

彼らはそれまでマイペースでえさを探していたのに、突然競争を始めて早くえさを獲得しようとする。オスたちのメスの奪い合いのように、ごく短い期間ならいいがそれが長引くと、たちまちネズミたちの精神状態に異常をきたす。つまり「いじめ」「虐待」「育児放棄」「暴走」が激増するのだ。まさに人間の作り出した現代の競争社会を髣髴(ほうふつ)とさせるのである。

なるほど能力の優れたものと劣ったものを競争させれば、優れたものが「勝ち組」になり、彼らが社会の実権を握ることによってよりよい社会を作ってゆくという主張は説得力がある。だが、これが21世紀になり「新自由主義」の名のもとに子供の進学から国際競争にまで適用されるようになると、たちまちにその欠点をあらわにした。

社会格差は広がり、使いきれないほどの財産を溜め込んだ富裕層は使い道に困り、新たな投資に向かうから一般の相場は不自然につりあがり、経済の実態に合わない不自然な相場の動きが生じた。進学競争と学校の格差から生じた矛盾はは一方では金儲けに奔走するグループと一生働いても貧困から抜け出すことのできないグループという両極化をうんだ。

本来ならよりよい意味で刺激を与え合いお互いに高めてゆくのが理想とされた「競争」が一方をつぶすだけに奔走するようになったのはなぜだろうか?なるほど改良の余地が多大に残されている自動車工業界などではこの50年間ほど競争がいい意味で機能し、自動車の性能を飛躍的に向上させた。

だが、小手先の戦略しか通用しない流通業界やすでに製品が完成の域に近づき、改良の余地のあまりない業界や、適正な数の競争相手の存在があってはじめて正常に機能するタクシー業界などでは、競争はただ過当化を進めるだけで、多くの脱落者や破滅を生じさせている。

そもそも競争をよいものとしておし進めるのは、自分が勝つ可能性が濃厚だと確信している集団だけだ。自分たちは不利だと自覚している集団は競争には積極的ではないのは当然だ。競争原理の導入は明らかに自分たちが有利だと確信している陣営から仕掛けられた。たとえば19世紀のイギリス、そして20,21世紀のアメリカなど。

彼らは「自由貿易」という名前の競争を持ち出し、これがいかにも公平であるかのように世界中に吹聴して回った。だが実際のところこの2カ国に対して、たとえばアフリカやアジアの貧困層によって生産される農産物や鉱物が打ち勝てるはずがないのは明白だった。だから「自由」の名のもとに後者は次々と徹底的に搾取されたわけである。

だがすでに述べたように競争原理を擁護する人々は進化論における「ジャングルでの競争」が今日の優れた種 species を生み出したという主張に大きくよっているのである。果たして自然界における「競争」は人間社会における競争を正当化することができるのだろうか?

どうやらそうではないらしい。実はこれまではいい加減な自然への認識によって自然界の競争が人間たちにとって都合のよいように解釈されただけであり、大いなる誤解に基づいて競争擁護論が発達したといってもよさそうだ。

というのも最近までの社会生活を営むサルの研究によれば、彼らは別にのべつ幕なしに競争をしているわけではないからである。あるニホンザルの研究によれば、人間によって「餌付け」されたサルたちにはボスがおり、彼が中心になって群れをとりしきる。これは人間の与えるえさをほかの連中にとられないようにするためと、仲間内でえさをめぐってのの争いが起こらないようにするためである。

一方大自然に住むサルたちにはボスはいない。集団で行動するにしてもめいめい勝手にえさを食べるだけである。ちょうど農民たちにかつて「入会権」が存在したようにサルたちには共同の餌場というものがあり、そこでは誰かが所有を一方的に主張するような状況ではないのである。

ではなぜ餌付けをするサルにボスが生じたか?人間がえさを決まった量やるようになり、そのえさを求めてサルたちが殺到したからだ。えさの量は無限ではなく、場所も限られているから、当然サルたちの間に軋轢(あつれき)が生じるのである。自然界ではえさが少ないと別の場所を探してさまようということもありうるが、人間の作った餌場に関してはしっかりと環境が「条件化」されているのである。

条件化とは別名「家畜化」といってもいいだろう。人間は自分自身と牛や馬、犬や猫など一部の動物(そして植物では野菜や果物も!)を自然界から切り離し、一定の条件で「飼育」することを学んだ。これが今日の発展につながったのであるが、一方では厳しく生存条件が制限されているため、たとえ腹いっぱい食べることができる環境だとしても、そこから外部に逃れたり新しい生活方法を開拓することはできない。家畜の地位から追われることは飢えるというリスクを冒すことになる。

こうやってみると競争とは、家畜化された生物の間で生じる「特殊現象」なのかもしれないのだ。自然界では過当競争によって自分たちの生き方が行き詰ると、新たな生き方を試みる。これは相手を蹴落として勝者になるということではなく、まだほかの誰も試みたことのない生活方法に賭けるのである。生物界のニッチ (ecological) niche とはこのことによって生じた新天地のことである。オーストラリアに住むコアラは、ユーカリの木の上に自分たちが末永く生きることのできる「新大陸」を発見したのだ。

おそらく100万年以上に及ぶ人類の歴史の中でも、エスキモーやモンゴルの遊牧民たちは新たなニッチの開拓者であろう。彼らはほかの民族にはまねのできない独自の生活方法を身につけ、無用な競争を避けて自分たちの世界を築いてきたし、もし西洋文明に触れることさえなければ、これからも持続的な生存を可能にしていったことだろう。

このような観点からすると、「適者生存」とか「弱肉強食」といった言葉がいかに浅薄な時代思潮によってゆがめられ、本来の学問的な意味からかけ離れてしまったかを痛感させられる。これらはごく一部である勝者の繁栄を正当化させるだけで、持続的な全体の発展の視点は見られない。

これに対し、自然界の掟(おきて)は、実は競争によって他者の存在を消し去ること(それは自然災害や環境の大変動のときだけ)ではなく、「多様化」によって生きるチャンスを無限に増やしてゆく方向に向かっているようなのだ。「画一化」は特定の変動に弱い。さまざまなタイプが生まれれば、その中にはある種の変動に強いものも現れる可能性がある。

もっとも人間社会では、競争がよくないという考えが一部の人々に「多様化」の考え抜きで広まり、一時は小学校の運動会でのかけっこを廃止するなどという事態まで現れた。「さかあがり」競争や「大声叫び競争」「ナイフで鉛筆を削る競争」など、どんな変わった子供でも参加の機会が増えるように種類を増やせばいいだけなのに、単なる「悪平等」に陥るということは、そういう人々に哲学が何もないことの現れである。

ところで人間社会はいったいどんな方向に進んでいるのか?実は競争によって明らかに「画一化」への流れが加速している。同一の規格化された試験で学生を合格させたり不合格にしたりするシステムは競争によって生じるマイナスの点のほうが多いのではないか?産業界では時たま優れたニッチの出現によって大きく進歩する業界もあるけれども、過当競争にさらされた業界ではそんなゆとりも生まれることなく、多様性が生まれるどころか、低賃金、過労、不安定な就労というお決まりのコースをたどっている。

国際貿易の場面では、たとえば農産物の場合、古くから各地に残る珍しい品種は次々と「非効率」だとして姿を消し、輸送が便利で鮮度を失いにくて大多数の消費者の好みに合った味という観点からだけの選別が進み、畑からとれたものでさえまるで加工品のようになってゆく。消費者の選択の幅は狭まり、なお悪いことには少数の「勝者である」商社の手に握られてしまう。

しかも勝者がついに決定的に有利な段階に進むと競争は衰え、最終的には寡占化、独占化に至る。競争する前の状態に逆戻りだ。社会システムの中にはこれを防止するために法律で規制されているところもあるが、この流れによって、多様性はもちろんのこと、将来における製品の品質の向上すらもあまり望めなくなる。

勝者というのはスポーツの場合でもわかるように誰でもその地位を維持したい。新たな競争者が出現してほしくない。だから当然のこと「保守化」するのである。競争は善だといっていたのにここで競争の停止というパラドックスが起こる。競争には持続性がなく未来への発展もないのである。太古以来、自然界がこれを採用しなかったのも当然だ。

2007年11月初稿

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