文明時評

きつね

個人消費とは何か?

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各国の経済で停滞が話題になるたびに口にされるのは「個人消費の増大」である。また、ある国での経済の調子がいいとき、「個人消費が底堅い」などという。一国の経済はそれほど個人消費に大きく左右されるのだろうか?いったい個人消費とは何者だろうか?

日本のように貿易で生きてきた国では、これまでさほど話題に上ることはなかった。だが、1990年代の不況に陥ったころから、アメリカの経済担当者たちによってしばしば口にされるようになって来た。それまでは世界で有数の経済大国といわれながらも個人的な消費はさほど大きくなかったのである。

だが、これからはいつまでも貿易によって得られる利益だけで経済を浮揚するわけにはいかなくなった。貿易では相手国の問題があり、こちらが一方的に貿易黒字を高めても、国際的に顰蹙(ひんしゅく)を買う時代に入ってもうだいぶ時間がたつ。国内の業者はなによりもまず、国内の消費者に買ってもらうことを基本にしなければならないという、ごく当たり前の考えが浮上してきたのである。

だが、普段の単なるお買い物を続けているだけでは「個人消費」とはならないのだ。普通の生活レベルでの消費はたかが知れているし、今後どんどん伸びていく展望もない。そんなことは20世紀初頭のアメリカの経済担当者はすでにわかっていた。チャップリンの映画でもわかりやすく描写されているように、消費者は”不要な”ものをなによりもまず買わなければならないのだ!

「どんどん浪費して新品を買え!」これが国内経済繁栄のための大鉄則なのだ。そのために最初に登場したのは広告業者である。人々に”夢”を与えなければならない。現実の生活の不便に対して、あるものを購入することによって生活の向上が望める見通しを提供するのだ。

その最たるものは、なんといっても自家用車であろう。これまでぎゅうぎゅうづめの公共交通機関に乗っていた庶民たちにとって、プライベートな空間まで約束してくれる”馬なし馬車”はそれこそ進歩の象徴だった。次に広告業者が利用したのは”虚栄”である。これは隣同士を比較させるだけでよかった。ステータス・シンボルを華々しく打ち上げれば人々は素直についてくる。車で言えば、社長用、重役用、中堅用、平行員用と作っておき、1段ずつ上へのレベルアップを目指させるのである。

さらに、デザインの陳腐化も効果的だった。たとえば5年といったサイクルごとに古いデザインを一掃して新しいデザインに変えてしまい、人々に自分たちが流行や進歩に遅れていると思い込ませる。これも人々は見事に引っかかった。あとで振り返ってみれば、何年かごとに同じデザインが繰り返し出てくるのがお決まりなのだが、木を見て森を見ることのできない人々はかんたんにだまされる。

そして広告業者は、ひとつのレベルを設けて、人々をそこに向かわせようとした。たとえば、「家を持つことは男の甲斐性だ」というコピーをばら撒く。家を持たないことは、市民としての資格に欠ける、という風に思い込ませれば成功である。奥さんの叱咤激励がより効果的になるようにも仕組んだ。20世紀は21世紀と違って、もっぱら収入の大部分は男がもたらしたからである。

21世紀になってからはこのタイプの勧誘はあまり効果をもたらさなくなったが、”不安”をネタに人々に購買行動を起こさせることはあいも変わらず行われている。特に大家族が減り、一人暮らしをする都会人が増えてくると、孤独感に漬け込んだ商品の販売が盛んになる。健康問題もそのひとつで、ストレスの多い一人暮らしからくる病気への不安に対してたいそう”効果的”なサプリメントなどを宣伝すると、撒き餌に群がる小魚のようにあっという間に売れてゆくのだった。

消費者には世代交代がある。ところが賢い消費者としての知恵はなかなか伝わらないものだ。なぜなら自分の購買行動における愚行を素直に息子や娘に話したがる親はあまりいないからだ。かくして、おろかで無防備な消費者は大量生産される。

乱暴な計算ながら、現代人は本当に必要なものの総量を1とすると、ほぼ3.5ぐらいを買っていると想定できる。多くは無駄になって捨てられ、効果的な使われ方をされないために、社会全体のレベルで見れば壮大な浪費が行われる。

しかし業者たちはそれでも満足しなかった。長年にわたる規制の積み重ねが自分たちの商売に非常に障害になっていることを強く意識始めたのだ。ここに規制緩和を叫ぶ政治家の登場が歓迎される。彼らはこれまで競争を縛っていた法律類を次々と廃止し始めた。おかげで本当に邪魔な法律類はもちろんのこと、実際はないと困る規制まで取り除かれた。

人々はやたらたくさんの選択肢を突きつけられて消費をするようになったのである。価格が下がり始めた。いったん下がったら、再び上がった商品に人々は見向きもしない。結果として、安値競争だけ激化させ、安全のコストをケチることになる。無責任な政治家は商人からの献金でほくそ笑んでいるばかりだ。

個人消費はまったくルールのない世界へと突入した。政治家は民営化をすることが効率化とサービスの向上に結びつくと信じて疑わなかったが、実質的には無政府状態へと落ち込んでいったのである。不正と虚偽が横行し始めた。業者同士の競争が必要以上に行われ、コストの削減だけが至上命令とされたために、安全や品質がおろそかになっている。

たとえば、運送業界、タクシー業界、携帯電話業界、電力、郵便、鉄道などなど。これらの業界にどうして民営化と競争原理が必要なのか?彼らの間の競争といえば値段を下げることだけではないか。異なる携帯電話間の通話は、スムーズではないし、余計な中継設備を経由しなければならない。

たとえば、ソフトバンクでは夜中の一定時間は同じ会社の電話間であれば無料である。それでもモトがとれるわけだ。もし全国統一の携帯電話会社があれば、日本国民全員が一日の一定時間の間は通話が無料になるはずだ。無駄な広告をうつ必要もなくなる。それは実現不可能なことではない。

豪雨の中、”安い”タクシーが目の前の道を通りかかるのを待てというのか?過疎地帯でどんどん人口が減っているのに、競争している数だけの運送会社や郵便事業の事務所をたくさん維持するのか?電力や鉄道は地域による格差が大きすぎて競争のしようがない。

逆説的に聞こえるが、値下げをしてはいけないのだ。行き過ぎた価格競争とは、労働者の生活を奪い、製品の品質を下げるだけだ。人々の間に安ければいいという考えが定着すると、品質の面でどんどん下がってゆく。労働者の給料にしわ寄せがいき、労働者は他の企業との競争のためだから我慢しろといわれる。値下げ競争ではなく、新しい価値の付加、品質の向上面で競争すべきなのに。

これが経済繁栄を目指すための「個人消費」の実態である。一国の経済全体が自転車操業になっているから、浪費なしに成長はありえないどころか、たちまち倒れてしまう。消費の究極点がどこにあるのか誰でも知っているはずであるが、誰もが知らないふりをして日々消費にいそしんでいる。

ここまで来ても「開発」ということばが大手を振って歩いている。消費のためには、熱帯雨林の伐採が止まることは決してない。本来、人間の使う用地は「枠」にはめて無制限に増やさせることをしないならば、持続の希望もあるが、たとえば<ボルネオ島の開発>といった場合、島全体が畑と工場用地になるまで人間の侵食は終わることがない。これが最終的には地球規模で続くのである。

消費を拡大するための努力は、安さを求めて海外から物資を輸入する方向に向かった。「自由貿易」の美名のもとに行われているのは単に為替差額が存在するために安いだけの製品を海外から持ち込むことだけである。本来、貿易とは自国では決して生産できないものを手に入れるための手段であったが、現在では自国でも相手国でも可能であるが、相手国のほうが単に価格が安いというだけで製品を持ち込んでいる。

それも、相手国の人間が現金収入に飢えていて、自分たちの肝心の基本的素材の生産を無視してでも、輸出に向かうように仕向けるのが狙いである。このような惨状に心を痛め、フェア・トレード( fair trade )を実行に移そうとしている人々もいるが、とても全体の流れに対抗できるものではないだろう。

もちろん、いずれは為替差額は解消する。ある製品を日本で作ってもインドネシアで作ってもほぼ同じコストになる日はいずれ来る。そうなれば誰も輸送費をかけて持ち込む業者はいなくなるが、それまで地球は持たないのだ。

驚くべきことに、毎日の食事の内容にしても自分たちで作ることを怠り、このような労働力の安い国々に手間のかかる料理を作らせ(例;ロールキャベツ、餃子、焼き鳥)これを輸入して食べている連中が数多くいるということだ。

本来、国産の食品の価格が高くも安くもなく、素材だけで食事をして、手の込んだものを作る暇のない忙しい人は加工品を買うのではなくときおり外で食べる、ぐらいの生活にとどめておけばよかったものを、安さと利便さに負けて「個人消費」に励んだがために、加工食品に依存する、きわめていびつな食生活構造が出来上がってしまった。

われわれが消費をしなければ、人類の経済が持たないというならそれも仕方がない。少なくとも今後は子供を作ることはやめようではないか。なぜなら21世紀の半ばまでに、われわれは熱死か飢死をするかのどちらかになるのだろうから。

2008年2月初稿

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