文明時評

きつね

「働かざるもの食うべからず」は本当か?

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いったい誰がこんな言葉を言い出したのだろうか?それは貧しい時代で誰もが食うや食わずの状況だったのだろう。時代と場所によって、厳しい条件は人々にいやおうなく生命をつなぐために食糧を求める行動を起こさせる。だが、これは野生の生物ならどれでもやっていることだ。カモメは苦労して魚を探し出し、ライオンは何度も失敗しながら、シマウマを追う。

だがそのような行動は「働く」とは言わない。単に生命維持のための直接的行動だからだ。さもないと全動物が「働いている」ことになってしまう。「働くもの食うべからず」は社会が制度化され、組織化され、その維持が必要になったときに作り出された言葉なのだ。いわば純粋に文化的な意味合いを含んでいるのだ。

この言葉の裏に潜んでいる狙いは「労働力の確保」だ。それは誰が必要としているのか?それは雇用者である。雇用者はひとつの企業体や経営体を維持するためには、どうしても人を雇わなくてはならない。自分のいうことを聞かせるため、つまり権力を振るうためには、労働者をすっかり自分に依存する状態にしておかなければならない。

よく兼業禁止などという言葉がきかれる。従業員が他の仕事をしていたのではエネルギーや才能がそちらに取られ、自分のほうに奉仕させる分が少なくなるからに他ならない。これは自分たちにとって都合の悪いことだ。これから見てわかるように、人間社会成立後の「働く」というのは、力を持つものたちが、単なる生命維持のための行動を狭く他に代用がきかないように制限したことを意味するのだ。

だから現代の労働者は定時に出勤し、定時に退勤することができても、24時間の残りは明日の労働のために準備をして、休憩をするために使わなければならない。すなわち自分の全生活を雇用者に売り渡さなければならなくなっている。もちろん労働運動のおかげで一部、有給休暇や、残業禁止を勝ち取ったところもあるが、それは大変な努力と連帯によって得たものであり、ちょっと気を緩めるとたちまちのうちにそのような権利は取り返されてしまう危険がある。

奴隷という言葉は、南北戦争の終結とともにこの地球上から消滅したわけでは決してなく、姿を変えてますます現代人の生活の中に入り込もうとしている。そして現代の社会は雇用なしに、つまり引換券である金なしには生きていけないように作られてしまったから、人々は学校を卒業すればいやおうなしに金を得る生活に引き込まれてしまうようになった。「就職」とは自分の自由を他人に引き渡す儀式であるかもしれないのだ。

そのような状況で、「働かざる・・・」という言葉がまことしやかに主張される。働かされているうちに自ら人生を設計したり、興味のあることを追及するという自律的習慣は抹殺される。テレビというのは受動的になった人間にとっては格好の慰みの道具である。その他、現代社会におけるもろもろの「娯楽」を見るとよい。能動性が要求される活動は廃れ、何もしないでいても、じっとしていても、だれかから与えられる楽しみは増える一方だ。

このような動きの裏には、人々を無意識のうちに徹底的に働かせて利益を得ようという暗黙の力が非常に強く働いている。そこから逸脱する人間を少しでも減らすために、特に学校教育を通じて、社会全体の管理を強め、一見自由な社会生活が営めるように見えるようにしておきながら、実は人々は根底から鎖で縛られているが、その状態にはまるで気づかないようにされているのである。

労働形態がまだ単純だったり、焼け跡からの復興の時期には、未来の自分や家族の建設に役立つと思われた時代には、ごく当然だと思われていたが、時がたつにつれて、どんな雇用関係でも、悪意の搾取が絶えず、結局のところどんなに改善策を講じても、それをなくすことは不可能なのであった。反抗するものは徹底的に取り締まられるか、社会から追放される。

この事態を転換するには、まず力関係が逆転する必要がある。つまり現在の慢性的な状態である労働の「買い手市場」から、「売り手市場」に変わること、つまり極端な人手不足を演出することである。だが、テクノロジーの発達はますます、単純作業を必要としなくなり、複雑で熟練の必要な仕事も次第にその網を狭められてきているのが現状だ。

つまり、いまのところ失業の増加を止める手立てはどこにもない。失業者が増えれば増えるほど、雇用者には有利になり、その立場を利用して、正社員を臨時雇いに降格させたり、給与を引き下げたりする。「おまえの代わりがいくらでもいる!」というのは、特に単純労働においてはますます重大な問題となっている。

かくして、貧しいものはますます貧しく、富めるものはますます豊かになってゆく。富が一方に集中し、格差が広がっていくのである。貧しいものは自分に能力がないから、自分に努力が足りないからと思い込まされる。成功するものはしっかり働いたからだ、とまことしやかに言い広められる。これならば「働かざるもの・・・」という”命令”が絶対的であると人々が思わされるのも無理はない。

だが、富も名声も、権力も、人間社会が生み出した幻影に過ぎない。「お図の魔法使い」に出てくる大魔王のように、器用な手品師ならばそんなことは朝飯前だ。一般の人々はそこまで見抜く力を残念ながら持っていない。繰り返しによって洗脳され、消費社会の絶え間ないコマーシャル爆撃によって、商品を買う財力がないのは働きが少ないからなのだと思い込まされるのだ。

だが、こんな理不尽がこれからもまかり通っていいのだろうか。ある人が1億円を持っているために、あなたは1000円しかない。この1億円を分割して一人当たり1万円にすれば、1万人の人々が豊かではないにしてもそれなりの生活を送ることができる。こんな当たり前のことが通用しないのが今の人間社会である。

一国の富をその国民の数で割って平均してみよう。よほどの貧しい国でない限り、過剰な労働をせずに一人ひとりは食べていけるはずなのだ。ではなぜそれができないのか。富めるものが富と権力を集中させ、それを握って離さないからなのだ。彼らから富を吐き出させ、公平に分配しない限り、最低限の生活水準は達成できない。

現代の日本では、富の分配が少しもうまくいかず、逆に富を持つものと持たないものとの間のギャップは深まるばかりだ。国民が愚かで、特に貧しい階層の人々がその実態をきちんと把握しないために、社会が少しも改善の方向に動かない。しかも連帯して団結する力が微弱だときている。この点ではアメリカ国民と大変よく似ているようだ。

人間社会を未来の見える、明るいものにしたいのなら、今の状態を変革する以外に手はないと誰でも思うはずだ。誰でもまず怒りを抱かなければならない。正当な怒りをだ。次に、その怒りを当然の相手に正しく振り向けなければいけない。もしこれを行わなければ、奴隷の時代に終わりはない。

初稿2008年9月

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