文明時評

きつね

投資から貯蓄へ

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小泉総理大臣の政権担当時代あたりから、「貯蓄から投資へ」というキャッチフレーズが巷(ちまた)に流れはじめ、流行語のようになった。証券会社の中には、「小学生のための投資教室」まで開講するところがあった。2008年10月、今こうやって金融危機に陥っている全世界を見るとき、近視眼的で欲だらけのものの見方がいかに安易に社会の主流になってしまうか、また新たな例を付け加えることになってしまったのに気づく。

かつての日本人は、ドイツ人と並んで、物を買おうというときはまず貯金を始めた。そしてがんばってその金がたまるまで一生懸命働き、一定の金額がたまった時点でやっと望みのものを手にすることができるようになった。貯金は銀行や郵便局を通じて安定した資金として企業の成長のために使われたのだ。

それがいつのことからだろうか。アメリカ流の消費生活スタイルが流入してきたのは。はじめのうちは電化製品のように庶民にはなかなか手に入らないもののためにローンが組まれた。「月賦(げっぷ)」という名前がいつしか広く使われるようになり、「借金」という言葉には尻込みしていた人々も少しずつ、このような支払い方法に抵抗を覚えなくなってきたのだ。

人々の抵抗が消えてきたところで、経済界は「持ち家ブーム」というものを始めた。「借家住まいではうだつがあがりません」「一戸建ての家を建てるようでなければ男の甲斐性がない」などと、まことしやかに宣伝され、人々はお人好しにもそれを信じ込み、これを実行に移し始めた。

経済界の人々は、それまでの貯金してから買い求めるという考えを時代遅れで、古臭いものという雰囲気を作り上げるのに成功した。まず金を借り、それによって欲しい商品をいち早く手元に渡すことが、さらにそれ以上の物欲を刺激するには最適だとみたのだ。

中でも住宅は最大の儲けの源である。何しろいったんローンを組んだら10年から30年にわたる長期に金を払い続けてくれるばかりか、その利子を加えた総額は、1時払いに比べて約2倍にもなるからだ。しかも車や電化製品と違って、住宅には個人の道楽的な要素があまりなく、家族全員が協力して返済に取り組んでくれる。

業界が次に仕組んだのが、利子の多さを見えなくする工夫である。「リボルビング」などの発明は、たとえば毎月1万円づつの返済でよいと宣伝され、何かとても楽に高額商品を手に入れることができると思い込まされる。しかもそのような返済に手をつけるような種類の人々は、いちいち支払い総額や、利子の仕組みをきちんと調べて確認するようなことが決してないことは市場調査で確認済みである。

やがて人々の所得が向上し、いよいよ「投資」への準備段階が整えられたのである。このように歴史的にみてくると、業界は人々に消費を促すとき、従来の広告作戦のほかに、借金をすることによって、物欲が速やかに充足される仕組みをいろいろ工夫して、すこしずつ欲望のレベルを上げてきたのがよくわかる。

このやり方は、アメリカの商人たちの工夫ではあるが、これが全世界に普及してしまったのである。もはや”堅実な”日本人やドイツ人は絶滅危惧種になってしまった。そしていよいよ、人々に「投資」に目を向かせるチャンスが訪れたのである。

もともと投資とは、これから発展しようとしているが資金がなくて実行に移すことができないでいる会社に金を貸し付け、もしその業績が上向けばその利益の一部を還元してもらえることを期待するものである。この方法によって、20世紀には数多くの重要な企業が誕生した。

企業が大発展すれば還元は大きくなり、倒産すれば投資した金はゼロになる。このバクチ性はプロの投資家にとっては、数多くの経験や調査によっていくらか弱めることができるが、それでも多くの取引は危険性を伴っている。

金融業界は、所得を増した中堅以上の階層のふところに目をつけたのは、投資資金をもっと潤沢に市場にいきわたらせるためである。リスクを隠蔽し、投資による利益面だけを一方的に強調したために、これまでそのようなことに未経験だった人々はすぐに飛びついた。

同時に日本では長引いた不況のために、ほとんどゼロ金利といわれるほどに利子が下がっている。どんなにたくさんの貯金をしていても、ほとんど利子収入が望めない状況では、投資で多くの利益が見込めるときいて、そちらにギラギラした目がいくのも無理はない。

プロでない人々のために、特に勧められたのが「投資信託」である。これは会社の選定と資金の運用は証券会社などにお任せする仕組みであるから、投資者は自分がどの会社に関係しているのかわからないか、たとえわかったとしても直接の影響力を行使することはできない。つまり「相手の顔」がまるで見えない投資なのである。

この段階に至ると、特定の会社を育てようとか、応援しようというかつての社会的意義は完全に失われ、純粋にマネーゲームの世界となる。現実世界から遊離した行動は、無法地帯に入り込む。金融工学と称するペテンがいつの間にか入り込んできたときも人々の多くは、プロも含めてまるで気づかなかった。

2008年10月に急激に悪化した金融危機は、このようにマネーゲームに至る破綻の道から学び取るための教訓を得る、絶好の機会だ。今後金融が崩壊するにせよ、回復するにせよ、アメリカの新自由主義者を中心にした経済政策は、ようやく告別式を迎えることができたのである。

これからも経済は成長するか現状維持にとどまるかはともかく、金融は経済の血液であるから、常に社会に循環させておかなければならない。だが今回の教訓によってわかったことは、欲の皮を突っ張らせて消費を不自然に吊り上げさせたり、無理な資金調達を図ってまで経済繁栄を呼び起こすことは、必ず破綻への道につながるということだ。

世界の開発途上国のほとんどは、先進国による投資を期待している。なるほど巨額な投資はその国を急激に豊かにすることがあろう。だがその利益は再び投資した側にほとんど持っていかれてしまうことを忘れてはいけない。外国投資によって地元の零細な産業が潤うことはまれである。

それどころか今回のような金融危機が突然訪れたりすれば、投資家たちの気まぐれで一夜のうちにその資金を引き上げてしまうかもしれないのだ。そのような場合にはゴーストタウンや建てかけのビルだけが残骸となってさらされることになる。いまをときめく中東のドバイも近々その惨めな姿をさらすことになるかもしれない。

かつて日本やイギリスは、その民間産業の中に、自力による地道な資本の蓄積があった。つまりゆっくりとした「貯金」が長期にわたって続いていたのだ。それが今でも続いている。おかげで災害や、戦災、不況のたびに何とか立ち直ることができた。バングラデッシュをはじめとする貧しい国々でも、マイクロ・クレジットのような方式で、少しずつ小規模な産業が芽生え、次第にその資金の蓄積を増している。

この方法は華々しい繁栄はないにしても、安定して着実な成長を期待できる。極端な貧富の差が生じることもあまりない。「ものづくり」を中心とした中小企業をまず活気付け、急がず少しずつその利潤を社会に還元していく方法こそ、”持続的”経済を維持していくのに一番の方法ではないだろうか。

2008年10月初稿

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