文明時評

きつね

恐慌のおかげ!!

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いよいよ恐慌と呼べる事態が2009年の初めになってはっきりしてきた。だがいまだに各国の政治家たちは「景気刺激策」とか「借金を軽減する方策」などに議論を集中していて、この恐慌の本質に迫った分析をまったくおざなりにしたまま、行き先の見えない航海をしている。

いったいにおいて政治家や経済人たちは、「夢をもう一度」と願ってこれまでの経済的繁栄が再び戻ってくることを本気で夢見ているのだろうか?トヨタは自分の作った車が再び大量に集中豪雨のようにアメリカや中国に輸出することができると本気で信じているのだろうか?

これらの夢は時代錯誤もはなはだしい。今回の恐慌により、ひとつの時代は完全に終わったのである。どんなにがんばってもかつてのような大量ボーナスとか豪華な旅行は再現されることはない。そもそも消費による繁栄という図式が今回崩壊したのであるから、単なる昔語りに過ぎなくなったのである。

これまで消費を促され、必要のないものをほしがるように洗脳されてきた人々にとってはこれは耐え難い体験に違いない。だが、現実世界はそれを許すことができなくなった。これまで当たり前にできたことが明日からはできなくなったのである。そのような形で希望を失った人々の間には自殺者が続出するかもしれない。

これまでの経済体制が、環境にとっても有害であるどころか地球の存続そのものを不可能にすることは誰の目にもすでに明らかになっていた。だが自動車会社はガソリンを大量に消費するSUVやら多気筒のエンジンを知らぬ存ぜずのふりをして生産を作り続けてきたのであるから、当然その罰が落ちるのは時間の問題であった。

それにしても一般の人々はなんと自分でものを考えない人が多いのだろう。消費を貯蓄に優先させる風潮は第2次世界大戦後に始まり、20世紀の終わりごろに最高潮を迎えたが、”便利さ””豊かさ”という魔術は実に簡単に人々のライフスタイルを変えてしまう。そして軽々しくもその流れに流されてしまうのである。

失業に直面し、家族を支える収入を失った多くの人々がこれまでの経済行動を後悔しているだろうか。いや、後悔はしていまい。今はひたすら自分を雇ってきた会社とそれを支えてきた経済体制へののろいの言葉を投げかけているところだろう。人々にはまず将来の不安感が回りに立ち込め、それを払拭するまではまともな経済活動に入ることは到底できそうもない。

しかしこの絶望的な状況だからこそ、これまで軽蔑の目で見られてきた理想主義的なライフスタイルの復権のときなのだ。それは「清貧」であり、「節約・倹約」であり、節度のある生活、独り占めのない生活、公共への奉仕などである。これらの価値観はずっと今まで鳴りを潜めていたし、リーマン・ブラザースの一味によって常に無視されてきたものだ。

わたしの提唱する”60億分の1運動(もうすぐ70億になるのだが)”も、そのうちのひとつだ。地球の資源や利益になるものをたとえ大雑把に分配したとしても、60億に分ければ、豪邸やらスーパーカーを所有することがいかにばかげたことであり、独り占めの極致であることは論を待たない。これからは”意識的生活水準の低下”が必要とされる時代なのだ。

環境汚染の程度から見ても、もうこれ以上の浪費はできないときになっており、こういうときに恐慌が訪れてくれたのはすばらしい幸運だったともいえる。今まではいらないものをさもいるかのように宣伝され、金がないなら貸すといわれ、それにのせられて販売が上昇することによって経済が成り立っていた。

すでにある住宅ではなく、荒野をブルドーザーで切り崩して新しい宅地を作ることを”開発”と称して不動産会社は破壊の上に利益を重ねてきた。つまり需要が生まれたのでなく、無理やり”捏造”してきたのである。だから当然のことながらこれは持続的なシステムではなく、滅びのときは時間の問題であった。

これらのことが、法律や政治権力のためではなく、恐慌のような外的要因によって、もはやできなくなるということはなんとすばらしいことだろう。今回の恐慌こそいわゆる”神の手””神風”ではないのか?長い目で見た、人類のための救世主になりうるのだ。

収入がどんどん上がっている人に、「もう収入を増やすのはやめなさい」と忠告することは恐慌前では狂人扱いされるのが落ちだったが、これからはそうではない。堂々とこれからの正しい道として忠告することができるのだ。「贅沢は敵だ!」というのも”やかまし親父”のもはや押し付けではなくなる。

だから、人々の収入を少しずつ削って、解雇を防ぎ、失業者の増加を抑える”ワークシェアリング”もいよいよ実現の機会を得たのだ。すでにドイツ、フランス、オランダでは実行に移され始めている。日本も労働者の解雇にのみ奔走し、人材の保全のことを考える余裕もない経営者が一刻も早く姿を消してくれるといいのだが。

恐慌の落ち込みは二度と以前の水準には回復しない。ありうるのは縮小した経済での縮小した生活による経済の継続である。自家用車を代表とする”自分本位”の所有物は姿を消し、土地の売買に見られたような投機的動きはなくなり、公共輸送機関に見られるように「おおやけ」文化の復権がこれからの展望である。

もし今回の恐慌が起こらず、経済繁栄がとめどなくこれから50年ぐらい続いていた場合を創造してみよう。実に身の毛がよだつ状況が浮かんでくる。インド、中国、ブラジルなどがアメリカに劣らぬ物質的繁栄を享受するようになり、都市には無数の貧困者が群がり、何よりも大規模な汚染や気候変動が現実のものになっているだろう。

今回の恐慌に感謝しよう。おかげでこれからの少なくとも半世紀は貧しいながらも希望の光が見えてきた。実に皮肉なことであるが。ただし半世紀が限度である。これまでの歴史を振り返ると、節約の時代が続くと必ず庶民に不満感が募り、贅沢な生活を望む声が高まるという(元禄、化政時代など)。人間は”欲”にとらわれた動物なのだ。しかしそのころはわたしはこの世にはいない。

2009年3月初稿

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