文明時評

きつね

悲しき価値観

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人間は、特に日本人はその人の職業によってその人の価値を判断しようとする。困ったものだ。ほかに判断の基準がないからという言い逃れもあるが、そもそも人間の価値はその人間の24時間のうち仕事、生活に必要なこと、生きるのに必要なことをすべて差し引いて残った本当の自由時間の中に求めることができるものなのだ。

そうやってみると、世間の基準がいかにいい加減なものかよくわかる。医者、弁護士、大学教授は社会的地位が高いから立派な人間だ、とは誰も明言しないだろうが実は心の中でみなそう思っている。もしそうでなければ母親たちが自分の愚かな子供をそれらの職業に駆り立てたりするものか。

そしていったんそのような職業につくと、相対的に高い収入を地位を保証されるから、本人たちは自分たちが価値がある人間だというお墨付きをもらったと錯覚する。しかし彼らの私生活がばれてしまったときにわかるように、そのほとんどは人間的に問題があるのだ。職業はそれを覆い隠すための仮面に過ぎない。人々の中にはそのことを初めから知っていてシニカルになっている人もいるが、大多数はそんなはずはない、おぼろげに思っているようだ。

ついでに思いついたことだが、仮面というのは、”若さ”とか”美しさ”にもあてはまる。若者は美少女に必死で恋をするが、彼らも年老い、相手は糖尿病もちで醜く太り、いったいこの相手はなんだったんだろうと思い悩む。いや、思い悩むどころか老齢で感覚が鈍磨して何も感じなくなるかもしれない。人間はこのとおり短期的にしかものを見ることができない、哀れな生き物なのである。

いい例が食品偽装である。これだけたくさんの偽装事件が暴かれたので、さすがに現在ではほとんどの人々は疑い深くなっているが、それまでは食品を作る人はたいていは正直でまともな人々ばかりだ、人が死んでも平気などという者はさすがにいないだろう、と素朴に信じていたのだ。だがこれらは単なる認識不足であり、「人間の歴史」の勉強が徹底的に不足している。したがってこれと同じ流れが社会的地位の高い人々に対する暗黙の憧れや尊敬にもあるのだ。物事の行く末を正しく予想し、本質を見通すということはなんとむずかしいことだろう。

子供たちも、いつも親に反抗することが大好きなくせに、不思議とそのような世間の風潮に従順である。彼らが名門の学校を目指すのは自分を高めるためでは決してない。高い収入と地位という現世のエサがほしいだけなのだが、”努力”とか”目標”などというこぎれいなことばによって、それがいかにも誇るべきもののように思い込んでいる。いわば若者の老成化であるが、これは韓国や中国にも共通することのようだ。

もちろん社会的地位の高い職業の人間がすべて問題ありなどというつもりはない。ごく少数だが立派な人間もいるのだ。ただ間違わないでほしいことは、これらの職業に立派な人間が固まって存在しているのではなく、社会のさまざまな職業に”ばらけて”存在しているということだ。

つまり、職業と立派な人間の存在との間にはなんら因果関係がないといっていい。いや、もしかして職業と非道な人間の存在との間にはあるのかもしれない。たとえば「権力は腐敗する」とか「金持ちはすべて悪人」とか「人を見たら泥棒と思え」という格言らしきものはそのことを暗示している。

もし人が自分でものを考える習慣がついていれば、自分が仕事で能力を発揮してバリバリやったために高収入を得ても、それは自分が優れた人間だと思ったりすることはない。また逆に不況に陥って仕事を首になったり、収入が減ったからといってそれは単純に物質的に苦しくなるというだけで、その人間の価値にはなんら関係ないことだとわかっているはずだ。

この点、2008年になって始まった世界的大不況は、単に生活の破壊だけでなく、つまらない考えにとらわれている”勤勉”な人々の価値観を粉々にしているという点で実に痛快である。これまでファンドで大もうけをした人間が自分を反省するチャンスを与えられたのだから、天に感謝しなければならない。

逆境は人間を謙遜にするのだ。イエスがいっていたとおり、悪いことをするくらいならその手を切り落としたほうがよいのである。健康と富を満喫できた人間よりも、最大の不幸に見舞われた人間のほうが人生を正しく捉えることができる。ブッダは環境が恵まれていたにもかかわらず、あえて出家してあのような考えに到達したから偉大なのだ。

残念ながら今の日本にはそんな考えを持つ人はごく少数だ。この国は人と同じ考えを持ち、世間に流されて生きることが最大の徳だと考えられているからだ。情けないことこの上ないが、これは江戸時代以来の伝統だから、維新だの敗戦だのによって簡単に変わるものではない。しかも、大部分の若い母親はものを考えないことを身上としているくらいだから、その環境のもとで過ごす子供たちに目覚めるチャンスは極めて少ないのが現状だ。

なお、ではクズと立派な人間を区切るものはなんだろうと疑問を持つ人もいるかもしれない。そしてその回答を要求するだろう。だがそのような要求をすること自体、その人のお里が知れてしまっている。自分で回答を出すべき問題なのだ。そのような人は今までどおり伝統に盲従して暮らすのがよい。

2009年4月初稿

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