文明時評

きつね

監視カメラの時代

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監視カメラの時代

新宿にカメラが設置されて犯罪率が大いに減ったと好評だ。どうやら21世紀のニッポンは治安が悪化しているらしい。しかしこれは本当なのか?統計によれば、戦後最悪の年は、戦争直後の年、1945年であって、確かにこのときは食糧不足、軍人の復員、失業の増大、戦争を引き起こした者への恨み、戦争孤児の激増によって犯罪、特に凶悪犯罪がとてつもなく多かったことは想像できる。あまりに多くて、まだ体制が整っていなかった警察にまったく報告されていなかった事件も無数にあっただろう。

だが現在に至る60数年間の間に日本の犯罪件数は減少の一途をたどり、ご存知のように世界の水準から見ても並外れて低く、もう底に近づいている。しかし人間社会というものから犯罪が皆無になることはありえないから、底を打つことはありえず、何度かバウンドすることがあっても低空飛行を続けていくことになる。ということは昨今の別に日本社会は治安が悪化しているとはいえない。それどころかこの20年の間に殺人件数が半減して狂喜しているニューヨークと比べても極端に低いのだ。

それでも治安が悪化しているというのは、単なるマスコミのヒステリックな扇動に過ぎない。マスコミが大挙して一般の人々を洗脳しようとしているとまでは言わないが、何か治安を維持する体制に”慣らす”あるいは”抵抗力をなくす”意図が働いているのではないかと思えてならない。そしてその思惑通りだか知らないが、たいていの人々に聞くと近頃は治安が悪化していると、判で押したように答える。

このような雰囲気が社会に増えてくると、たとえば外国人を排斥するのにもよい口実になり、すべては”より健全で安全な社会”のためにはさまざまな手を打つことが必要だと人々は思い込まされる。監視カメラを公共の場に設置することも、目立たぬように少しずつ増やしていくことで、人々の抵抗感をなくし受け入れやすくするための力がはたらいているといえる。

しかし監視カメラの設置によって”安全”になった社会とは何か、ミツバチや蟻の社会に似ており、到底人間社会的ではない。昆虫たちはその行動を強固な本能によって縛られており、彼らの間に反乱が起こることはない。監視カメラは本能と同じくらい強力な拘束力を人間社会に課す。これは一種の恐怖政治であり、それこそオーウェルの描いた未来社会に酷似している。

皮肉なことにブラッド・ベリのオーウェル的な作品、「華氏451度」の舞台である(と思われる)イギリスでは、時を同じくしてこの監視カメラが大流行。率先して英国がこのような実験を行ってくれているようだ。科学の発達が、犯罪をなくすことができるほどに技術力を高めることはすでに予想されていたが、実際に21世紀の初頭にもうすでに実現可能になると、それを迎える人間社会もきちんとした準備が必要ではないのだろうか。

従来、仮に犯罪が増えたとして、その場合には警察官の増員によってそれを防止することができよう。そして犯罪が減ったときにはその人員を次第に減らしていくことができる。ところが監視カメラのような機器の場合、いったん設置したあと、犯罪が劇的に減ったからといってわざわざ撤去するだろうか?それどころかみんなが忘れたころに悪賢い行政者がこれを一般人民の監視の道具に使い、そこから脅迫や強制、地位剥奪、職業剥奪の権力を握ることは、過去の歴史が大いに証明している。

華氏451度の話のように、いったんそのような事態になったら、もとの自由な世界に戻ることは不可能に近い。個人は将棋の駒のように使い捨てられる。団結しようにももはやその機会を奪われている。われわれは決して権力を信頼していはいけない。すでに無数の賢者たちが言っているように「権力は本質的に悪」なのだから。そして日本人の場合にはそれがますます大きく当てはまる。その集団主義と、自己思考の欠如が特徴的であるために、戦時中のような管理体制が、いったん科学技術によって高性能化されると、もう完全に身動きならぬ事態に陥ると思われるからである。

2010年1月初稿

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