文明時評

きつね

反自然の行き着くところ

野生世界に学ぶ

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人間がそれまでの動物の生き方をやめて、独自の方向へ進みだしたのは百万年前か、二百万年前になろう。その最大の特徴は言語、道具の使用、特に火の利用にあったといわれている。これはそれまでの自然界に溶け込んで生きることからの決別であった。

ここから人間は自分のための独自の”環境”を作っていくことになる。それまでは、ただひたすら自然の恵みや脅威にされるがままだったのだが、それをやめて自分たちのための人工環境を作り始めたのだ。これは今の農業での”温室”にあたる。温室の中ではひどい寒暖の差もなければ、天敵に襲われる心配もない。つまり自然淘汰からの”免責”が可能になったのだ。

これが爆発的に人間をほかの動物に対して優位な位置につけることになったが、ひとたび始めた道を戻ることはもはやできなくなった。それでも18世紀ぐらいまでは、かなりの部分を自然に左右されていたから、たとえば平均寿命にしても40歳前後におさえられ、人口の爆発的増加はまだ起こっていなかった。

それでも人工化への道が着々と進んでいたことは、いくつかの例によって明らかである。口をあければ固いものを砕くことのできない弱々しい歯、スピードの出ない足、シッポのない背骨、火によってやわらかく調理しなければならないほどの弱い消化能力、などきりがない。

だが、産業革命以降の文明の発達は、それまでの変化がほとんど見えなくなるほどの急激な変化を人々の生活に与えた。人体の働きを補強する機械類のおかげで、もはや長距離を歩く必要もなくなり、重い荷物も担がなくともよくなり、医学の発達で、淘汰されるはずの命が永らえるようになった。

21世紀になり、環境のあらゆる面がこうした完璧に人工化された。夏の暑い日に自動車が通り過ぎていくのを見てみるがよい。ほとんど100%が窓を閉め切って室内の涼しい空気の中で運転している。動物との決別の日に始まった”カプセル化”はこのように文字通りの形で実現したのだ。

およそこのように、自然の意図するところとはまったく正反対の方向に進んできたのが、人類全体のとった道だった。戻ることができないこの道はどこへつながっていくのだろうか?それに誰も確乎とした答えを用意することはできないだろうが、そろそろ終着点に近づいてきたような兆候は見えている。また、生物としての人間が人工化によって保護されるあまり、衰弱化の傾向をみせてきた。

ここで人間や家畜とは違い、人工化への道を選ばなかったグループ、つまり”野生生物”と比較してみよう。野生生物は人間との決別以来、その基本的な方向は少しも変わっていない。相変わらず自然淘汰の掟の中で暮らしており、人間の開発による迫害さえなければ、その変化はほとんど見られない。というのも生物が大きくその性質を変えたのは、巨大な環境変化のときだけだったからである。人間と野生生物との違いは次の3つに集約される。

一つは野生世界にはデブが存在しないこと。というよりはデブが生じたとたん誰かの餌食になるか、病死するのが常だからだ。たとえエサに恵まれた環境になって、個体数が一時的に劇的な増加を示したとしても、それを始末する天敵がすぐ現れる、あるいは病気が蔓延する、あるいはレミングのように集団自殺をするシステムにスイッチが入る。

これに対して、人間世界では歯止めが利かなかった。豊富な食料が直ちに肥満に結びつく。つまり自己コントロールがはたらかないために、いくらでも食べるという方向にいくことが多いのだ。しかも優秀な医者たちがいる。この場合の医者とは”修理屋”であって、自己責任に基づく病気の治療が仕事である。治療による回復の可能性が大きいので、食べ過ぎの悪習は少しも改まらない。観光地にたむろする肥満しきった猫たちも同様である。こうして、体重100キロを肥える醜悪な肉体が、地球の資源を食いつぶしながら、歩き回り、火葬の時には大量の燃料を消費することになる。

ふたつ目には野生世界には年寄りが存在しないこと。アフリカゾウの群れには非常に年取った”長老”をよく見かけるという。だが、そのことが話題になるほど老齢の個体数は自然界には少ない。きわめて頑丈で、長年の生活にも少しも衰弱を示さない特殊な個体だけをたまに見かけるだけである。これらもデブと同様、直ちに自然界では処分される。

人間世界ではもともと30年、40年と長寿だった上に、人工環境の下でそれまでの2倍の生存が可能になった。しかし、宇宙船地球号に乗せる定員は決まっており、それを超えることは、破滅を意味する。生命における老齢化と死のシステムは世代交代を円滑に進めるために絶対に必要なのである。しかも若い個体による、環境への新しい順応のことも考えると、高齢者の増加は、将来における人類全体の知的、精神的、肉体的質を著しく低下させる恐れがある。

高齢化社会とは、満員電車に乗る人はいても、誰も降りない状況、または真夏の暑い日に、生ゴミを部屋の中に溜め込んで、悪習を我慢しながらそれと同居する状況に似ている。だが人間の場合にはヒューマニズムというものがあって、それをやめることは許されない。野生世界ではそれが許される。

三つ目には野生世界には格差が存在しない。なるほど木の実の豊富な谷のタヌキのほうが、木の実の乏しい谷のタヌキよりも裕福であるに違いない。しかし、その格差がどんどん拡大して、裕福なほうがますます裕福に、乏しいほうがますます乏しくなるという過大な格差は生じない。ある限度を超えると一方が消滅、絶滅してしまい、そのとたんに格差はなくなる。また、野生世界には”棲み分け””ニッチ”というありがたいシステムがある。これは土地の広さが許す限り、ほかの生物が目をつけていない部分に自分の生活の根拠を移すことだ。たとえばコアラのように。

どうしても個体同士、異種間同士で対立が生じることがある。ここで”競争”というシステムがはたらく。競争は基本的に対立を解消するために存在するのであって、競争が終了した暁には、安定した関係が生まれる。その過程で、ある生物は新しい住処を発見したり、からだのある部分を発達させて(翼とか長い爪とかヒレとか)有利な生活道具を獲得したりする。

これに対して人間ではどうだろう。太古以来、持てる者はさらに多くの資源を獲得しようとしてきた。そしてそれは社会の中で、持たざるものから取り上げて、あるいは入手を制限することによって、実現してきた。人間における競争とは対立解消のためではなく、格差を恒久的に保ち、”支配・被支配”の関係を作り出すために利用されているのである。

資本主義社会では絶えず”自由競争”という題目が唱えられているが、これほど見事な欺瞞はない。この結果生じるのが”大企業”であるが、これほど非競争的なものはないわけだ。大企業の存在のおかげで、同じ力を持つもの同士の競争が阻害され、停滞してしまう。雇用を求めるものは中小企業を敬遠し、大企業に群がる。その理由は”安定しているから”、つまり競争から免れているからだ。

このように人間社会での自由競争は、切磋琢磨していい物を作ったり提供するという本来の目的ではなく、格差を増大するだけの”自己利益(別名:ひとりじめ)”というきわめて反自然的なものを生み出してしまっているのである。言うまでもなくそれを少しでも防止しようと、歴代の社会は規制をかけたり、巨額の法人税をかけたりしてきたが、それが効果的だったという話は聞かない。

このように、人間社会と野生世界を比較すると、人間が人工世界を作り出すことによって、どのような変化を遂げたかがよくわかる。そしてこれらはどう見ても将来に明るい光を投げかける特徴ではなく、ますます極端に人工化を推し進めれば、人類という種そのものが取り返しのつかない袋小路に陥ってしまうかもしれない。

野生世界が変化しない。というよりは言い換えると、「持続可能」な世界なのである。生命誕生以来、営々と続いてきたこの壮大なシステムは、太陽が消滅しない限り、今後も持続され続ける可能性が高い。なにか問題が生じてもその場で解決されているのである。

だが一方で人間社会の方式は、石油資源が尽きるというような短期的な展望ばかりでなく、生命力というような長期的な問題についても持続する可能性が薄い。ある問題が解決されても、目を上げると、すでにさらに解決すべき問題が倍に増えて待っている状態なのである。

昔から「自然に帰れ」と叫ぶ人々が数多くいたが、何億年もの間この地球上で、途中途切れることなく生命を育んできたこの野生世界に学ぶべきことは、数多くあるのではないのか。いや、今学ばなければ、到底人類はかつての恐竜と同じになってしまうのではないか。

2010年8月初稿

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