文明時評

きつね

大震災と原発事故

2011年3月11日について

続編:あれから1年 続編:あれから1年半

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そのとき私は宮城県と山形県の県境にあるスキー場のリフト上にいた。午後2時をすぎ、小雪が舞ってきた。と、そのとき突然リフトが停止した。また、初心者がリフトに乗り損ねたのだな、と思ったが、ちょっと様子が違う。一瞬の静寂の後、突然はげしい揺れに襲われる。リフト装置がほんのわずか前に最初の微動を検知していたのだ。リフトの支柱が弓のようにしなり、リフトは空中ブランコのようにはげしく揺れた。40分以上雪上で停止したあと、自家発電が作動して、リフトは動き始め、無事下まで戻ることができた。帰りの車で聞くカーラジオからは大津波警報が出ていた。国道48号線(作並街道)は奇跡的にも陥没や段差などの道路の破損がなく、仙台市内に入る手前まではいつもと同じスピードで山間部を駆け抜けることができた。

2011年3月11日14時46分は歴史上長く記憶されるであろう。それはなんといっても関東大震災を大きく上回る規模で起きたことにある。また、原発事故を併発したことが何よりも重大な結果を引き起こしたといえる。よく「天災は忘れた頃にやってくる」といわれるが、地震予知の技術は何の役にも立たなかった。宮城県沖地震が近い将来起こるという警告は何度も出されてはいたものの、1000年に一度の津波の規模は防災関係者の想像力を遥かに超えたものだった。東北大の先生でその可能性を述べた論文があったけれども、残念ながらその知見が取り入れられることはなかった。

翌々日海岸に行くと、流れのはげしかったところでは家の土台のみが残され、家屋にたまった海水でぬれたままだ。これまで住宅地だったところが一面、更地のように見え、自衛隊の人々が新たな遺体を発見して救急車に運びこんでいた。水田だったところは完全に湖になっており、ところどころから車がひっくり返って浮かんでいる。漁船も内陸1キロ以上のところまで打ち上げられている。

こうして膨大な量の瓦礫が北は八戸市から、南は茨城県北部に至るまで、切り立った海岸を除き内陸4,5キロメートルぐらいまで散乱しているのだ。これは奈良時代に起こったといわれる地震のときは存在しなかった。というのも、当時はこの地域に住んでいる人口はわずかだったし、そもそも”家財道具“などといえるものはほとんど存在せず、たとえあってもすぐに腐ってなくなってしまうものばかりだったからだ。震災から5ヶ月たった今では夏草に覆われてしまってはいるが、まだ片付いていない。浜辺に積み上げられた瓦礫の山は、そのまま人々の生活にいかに多くの品物が必要なのかをあらわしている。車、冷蔵庫、テレビ、洗濯機、など現代人がなしで済ませることのできない所有物は増える一方だ。瓦礫の多さは現代文明の生産物と廃棄物が自然界の相当な空間を占めるまでに至っていることを教えてくれる。

三陸の市町村の中には、これまでも繰り返し津波の被害を受けたところがあり、中には頑丈な堤防を作って備えていたところもあったが、それらの設備も今回はいとも簡単に波に乗り越えられ、破壊されてしまった。人間の所業は年々規模が増し、山々を切り裂いた巨大なダムや大地を分割する運河などを次々と建設しているが、結局のところ、砂場のお城作りと大差ないことを教えてくれる。

過去に人々は自然の猛威に抵抗するだけの方策をやめ、河川敷に巨大な遊水池を作って洪水の水を流し込むなど、逆らわず人間の側で一歩引いて受け流すやり方を学んできた。津波の備えについても同様で、少々の損害があってもそれを最小限に食い止める方策を考える必要があることを学ぶべきだ。今回でも、登り降りは不便でも高台にあえて建ててあった家は被害を免れ、松島のような多島海では小島が水流の抵抗として働き、大波が押し寄せることはなかった。自然と人間の間は戦いではなく、うまく調和して共存を図るという考え方が、防災にも必要なことがいよいよもって明らかになったのである。

津波の被害は甚大だったが、建築物の被害は意外に少なかった。古い建物や欠陥住宅には亀裂などが見られたものの、道路が陥没したりした地域でも一戸建てやマンションの被害はさほど見られない。10階以上のビルではその被害は一層少ない。これはかつての地震のあとで、傷んだ部分を補強したほか、新しい技術で新築したものが多いせいであろう。新幹線が走行中にひとつも脱線することなく無事停止できたことは不幸中の幸いだといえるだろう。地震国日本は、関東大震災や阪神大震災のときの火災やビルの倒壊など、過去の悲惨な被害を教訓に、ちょっとやそっとの揺れには耐えられる技術水準にようやく達したのだ。これは世界の地震国にとっては朗報である。

今ようやく復興への動きが本格化している。近所の傷んだ建物がやっと覆いが掛けられ、本格的修理が始まった。担当業者が地震の翌日から大量の修理に奔走し、予約がいっぱいでようやく8月になって順番がまわってきたのである。修理と新たな建築は一時的には経済を潤わせる。だが、被災地域はずっと前から人口減少に悩み、沿岸部での漁獲高は捕りすぎで減少し、高齢者の増加に伴い、将来のプランを立てることができないでいた。震災がなくても地域の将来は危ぶまれていたのである。だから復興は従来型の経済成長によるものを考えても無理がある。かつてのようにハコモノをやたらつくっても効果があるとは思えない。インフラをもとに戻すことは必要でも、少ない人口なら新しい機能的な街づくりをおこない、独自の生産物や技術を生かせる、今までとは違ったタイプの地域作りを行う必要がある。この大地震は、これまでの社会作りを再考する機会ともなっているのである。

今年も庭にあるブルーベリーの実はたわわになっている。だが、その中にセシウムが含まれている心配をするなんて、1960年代の欧米による一連の核実験以来である。あのときは、雨にあたると放射能のせいで禿げるなどといわれたものだが、各地の放射線の値はきちんと調べられていたのだろうか?今回の原発事故は、地震津波の自然災害だけだと思っていた人々にとって晴天の霹靂だった。天災に人災が加わったのである。被爆国である日本が、66年後に、再び放射能汚染を受けるとは誰が予想したであろうか。だが、明確に予測していた人々はいた。しかしそれらは徹底的に無視されてきただけである。こちらは30年以上にわたる原子力政策と、その背景となった社会と深いつながりを持つだけに、問題はきわめて深刻である。つまり、起こるべくして起こったものなのだ。

根本にはそれまでの高度経済成長からの自信から生じた「金を払えば何をしてもいい」という風潮が蔓延し、原発候補地には札束が飛びかい、手っ取り早い利益を求めて安全対策はどんどん後ろ手に回ったことは、今になって次々と明らかになっている。当時その流れは誰もとめることができなかった。一方、人々は「原子力は難しくてわからない」という。これは原子力政策を進める側にとっては都合のいい状況だ。“安全”の言葉を連呼すれば、素朴な人々は信じるようになるからだ。

現代人は、先端技術を知っている人と知らない人との格差が大きすぎる。車、携帯電話、テレビ、そして原子力などの基本的な動作原理だけでも知っているようであれば、批判的な目も育つが、まったくの暗闇の中におかれていては、何の判断も行うことができない。民主主義は無知の下では機能しない。人々はせめて中学校の理科の時間に居眠りしないでちゃんと聞いておくべきだったのだ。投資などの詐欺事件では、だましたほうが悪いのか、だまされたほうが悪いのか、が話題になるが、重大な社会政策の遂行に関しても、今回の事故ではじめてこのようなことを真剣に考える機会がやっと訪れたといえる。

さて、原子炉の破損から、5ヶ月、途方もない被害を地域にもたらし、いまだに事故の解決には至っていないが、これが「幸運な事故だった」という人がいたら、誰もが目をむくだろう。「とんでもない、こんなひどい事故は前代未聞だ」とほとんどの人が思うに違いない。だが、メルトダウンによる原子炉の損傷がひび割れ程度ではなくほんとうに“割れて”しまっていたら、東日本の住民は海外移住を余儀なくされていただろう。薄皮饅頭のような、あの原子炉は何基もあるのだから。核燃料が露出することにでもなれば、誰一人としてそこに近づくことはできない。チェルノブイリの場合のように空からコンクリートを降らせて山を作るのか?まさに悪夢の現実化が紙一重で起こるところだったのだ。歴史には「もしも」は禁物だというけれども、破滅の一歩手前だったことは記憶に残しておきたい。

カーレースで激突した車が粉々になっても、レーサーが生きていたのと同じ程度に奇跡的な幸運に恵まれたのが今回の事故である。今、経済発展途上国では発電量の不足に悩み、原子力発電がその救世主だとして次々と建設計画が進んでいる。だが、これらの国々では、たとえば鉄道の脱線や衝突事故がしばしば起こるような、隙だらけな技術状況にあり、精密で決して誤りの許されない機械操作の必要な原発を、無事故で運転が可能なのか首をかしげる人々も多いだろう。これらの国々の政策担当者はこの日本の例をしっかりと教訓として受け取ってもらいたいものだ。イタリアのようにすでに原発廃止を国民投票で決めたところもあるようだ。人類の未来に禍根を残すようなことはしないでおく知恵が今ほど求められているときはない。

ことわざに「災い転じて福となす」というのがある。どんなにひどい災害で犠牲者が出ても人間が存在する限り“人生は続く Life goes on. ”のだから、今回の災厄をすべて貴重な経験とし、世代から世代へと伝えていかなければなるまい。

2011年8月初稿

あれから一年

夏草がひと夏の間に繁茂すると、すべてを覆い隠してしまう。仙台駅から東へ約5キロにある名取川の河口付近では、裏返しになった自動車など、ガレキの撤去がすすみ、その周辺の水田も、かつて家が建っていた跡地も、秋から冬になって枯れ草に覆われた光景を眺めると、3月11日の津波のあとを思い浮かべるのがむずかしくなるほど、平穏な田園風景となっていた。

仙台市の市街地も表向きは活気を取り戻し、1年前には、スーパーやガソリンスタンドの前に長蛇の列ができていたことなど遠い昔のようだ。瓦屋根が崩れ落ちた家々も、倒れたブロック塀もほぼ修理が終わり、または新築され、ふつうの町並みに戻っている。

しかし、ところどころに瓦屋根の上に青シートをかぶせ、風で飛ばないように石をおいている家がかなり目立つ。誰でも、なぜ1年もたつのに修理に取り掛かってもらわないのだろうといぶかしく思うだろう。

その第1の原因は、職人不足にあったのだ。東北地方は全国水準と比較して、かなり賃金が低いため、ほかの地域から仕事を求めて集まってこないのだ。このため修理や再建のために必要な人員は取り合いになり、いつまでたっても作業が開始されないのだ。

さらに、石巻や気仙沼の臨海部にいくと、どうだろう。もぎとられた屋根、一階部分がなくなっている家屋が、つい昨日のことのようにくずれおち、放置されている部分が目につく。特に雨が降って地盤沈下のはげしいところでは、再び水がたまり泥沼化しているところもある。

1年という時間は、人々の懸命な努力によって表向きはかつての姿を取り戻したように思われる。しかしいったん細部に目を注ぐと、“復興”は遅々としてすすんでいないことがわかる。地元のマスコミは連日、次から次へと生じる問題点を報道しているが、それでもごく一部をカバーしているに過ぎない。

知人の中には、沿岸で家を完全に流された人もいるが、単なる物的損害にとどまらず、精神的ショックと喪失感から、その人の、かつては強壮そのものだったおじいさんは、胃ろうによる栄養補給を受ける生活になってしまった。このような2次的、3次的被害に立ち入ると、とらえきれないほどの規模になってしまうのだ。

人間は知らず知らずの間に地域に根を張って生きているという。本来の根無し草ならいざ知らず、老齢に達している人々は特に周りの親族、友人との関係、見慣れた風景と代えがたい絆を作って暮らしている。仮設住宅への入居、あるいは遠くの地域への避難を余儀なくされるということは、たとえ物質的に不自由がないとしても目に見えない精神的なダメージが次々と起きてくる。種々の問題が1年たって次々と浮上してきた。その“目に見えない部分”こそ、これから目を注いでいかなければならないのである。

幅広く深くまで浸透する被害に対して自治体のできることには限度がある。切れ切れになったコミュニティーを再び結びつけるためには、単なるインフラ整備だけではまったく不十分であることが明らかになった。震災まもなく、ガレキ撤去や食料配布のボランティアは大活躍したが、これからは精神的ケアの専門的知識を持ったボランティアが必要とされる段階に入っている。

同じく大規模な被害に見舞われた、ハイチでもインドネシアでも大地震のあとの復興は急がれているだろうが、ここ日本ではたとえ経済力が豊かにあっても十分ではない実態がこの1年の間に明らかになった。

一つに少子化と高齢化の問題がある。東北地方では大都市を除く他の地方と同様、人口減少と産業の衰退に以前から悩んでいた。多数の“限界集落”が存在し、たとえ災害がなかったとしても、消滅の道をたどるしかないと思われていた。今回の震災の沿岸部ではそのような状況で、どのように復興を成し遂げるかが最大の課題である。

ハイチやインドネシアでは若者が圧倒的に多く、老人の数は少ない。これからたどる復興の道は、日本とは大きく異なると思われる。ある老夫婦は70代後半だが、子供たちは都会に出ており、今回家を流され高台に新築することを考えても、ただちに完成してもすぐに80代を迎え、住み続けられるのは10年以内、しかも病気になればその家を出なければならないかもしれない。

しかし一戸建てを希望する人が多く、自治体はその願いをかなえなければならない。コンパクトな集合建て住宅を一箇所にまとめて建設して、過疎地にありがちな遠距離を自家用車で買い物に行かなければならない不便を極力避けることができればいいのだが、それには強力なリーダーシップが必要とされる。

鉄道復旧についても同じことがいえる。今回の津波の教訓から、海岸近くの路線は高台を通るべきだという意見が多数を占める地域が多い。このため、新たな土地の取得が必要になる。また過疎地域の場合、JR側はこれまでの鉄路をやめてBRT(Bus Rapid Transit)に切り替えれば、早期の路線復活と効率的な運用が可能になるというが、地元の意見はあくまでも鉄路でなければならないという意識が強い。このような場合にも、過疎の実態を冷静に見つめ、何十年も先を見通せる強力な調整役が求められている。

少子高齢化に加えて、さらに考えていかなければならないのは、全国規模の協力体制である。ガレキの処理をめぐって放射能汚染を恐れるあまり、自分たちの住む地域へのガレキの搬入を拒否する動きが衰える兆候がない。関東大震災では、低次元のデマが乱れ飛び、悲惨な結末を生んだことは歴史が示している。今回の地震でも同じようなことが起こらないように、極力警戒する必要がある。

これまでも火葬場とか、ごみ焼却場の建設に反対する動きは数多く見られたが、今回の場合は、どこの地域でも遭遇するかもしれない自然災害であり、自分たちもいつかは被害者になるかもしれないという可能性を考慮に入れた上での行動に踏み切るべきである。放射能についての正しい知識を人々に提供し、“地元エゴ”を克服させる方向に持っていけるような人材が求められているのだ。

地域経済を再びあたためなければならない。震災直後に全国に広がった自粛ムードはようやく1年目にして消滅しかかっているが、実際の観光客数は、岩手、宮城、福島いずれの県でもまだ低迷し、大きく上昇する傾向はまだ現れていない。地域の経済と活性化を引き起こすには、まず多くの観光客に来てもらわなければならない。

さらに、青森のリンゴなど、食糧輸入大国というイメージとは裏腹に、かなり以前から香港などに輸出をしていたが、せっかくその量が増えようとした矢先、震災が起きてしまった。なによりも買手の側に放射能への漠然とした恐怖があって、これを元に戻すのは容易なことではない。辛抱強く一歩ずつ、海外にも新たな販路を開拓していく必要がある。

震災後1年たったといっても、このように問題は山積し、復興はやっとスタートラインに向かって歩き始めたばかりである。原子炉を廃炉にするのに40年以上という気の遠くなるような時間を要するものはもちろんのこと、ギリシャに発した世界的な経済不安定の状態が及ぼす影響も考慮に入れて、国全体が直面するであろう、より大きな問題の中に震災の復興もきちんと組み入れていかなければならない時がきている。

2012/03/11

あれから一年半

「なし崩し」という言葉がある。今、原発の業界でもくろんでいることは、まさにこれだ。大飯原発が再稼動されたあとは、次々と各地の原発を動かし、震災前と同じ状態に持っていくこと。ちょうど「戦後」という言葉が、高度成長と共に消滅したように、「震災後」という言葉は、再稼動と共に消滅しようとしている。被災地ではまだ復旧は遅々としているが、日本人は忘れっぽい。いったん節電の必要がなくなり、快適な生活が戻ると約束されると、またたくまに原子力への不安は霧散していくことだろう。原発反対の意見を持った人々は再び少数派へと転落する可能性が濃厚になった。

政治は妥協の産物だ。野田総理大臣が再稼動の決定をした背景には、産業界からの原子力を再びエネルギー政策の中心に戻せ(たとえ安全が確認されなくとも・・・)という大合唱があったに違いない。「チェルノブイリ」でも「スリーマイル」でも過去に同じような経過があった。そして今回は、この二つよりもずっと迅速に決定が行われた。本格的な安全対策が何も決まらず、福島の原子炉の内部がどのように壊れているか、まるで分かっておらず、日本中の原発で生み出される死の灰の捨て場も決まっていない状態で、いつのまにか日本中で原子力発電所がフル運転をしていても、日本国民の大部分は文句を言わないだろう。

毎日絶えず流される広告のおかげで、人々の物欲は途方もなく肥大し、それを満足させるためには、原発を稼動させなければならないことは明白になった。トルストイはもちろんのこと、ブッダもイエスも、その他無数の賢人が常に警告してきた、「行き過ぎた物欲」がすっかりこの”先進国“に定着した今、残念ながら社会を後戻りさせることはできないようだ。「われわれはもはやロウソクに頼った暮らしを続けることができない」と政権幹部がうそぶくような国なのである。経済が、常に生命・健康より優先される国なのである。

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今ふたたび、津波に襲われた宮城県の海岸地帯を歩いてみよう。そこに見えるのは、はるか遠くまで続くガレキの山である。かつては緑したたる松林だったところが、無残にもつぶされ、瓦礫の集積場と処理場になっている。大部分が木材であるためか、先日から降り続いた雨のため、まわりにかび臭い匂いが漂う。日本各地でのこのガレキ処理の引き受けには、随分すったもんだがあった。自分の町にガレキが運び込まれるのを拒否するデモもあった。結局のところ、自らが被害者になってみないと問題の深刻さが理解できないことをはっきり示す結果となった。他人の痛みは、自分で感じることは非常にむずかしい。

一方、津波が日本の中では比較的人口密度の低い地帯を襲ったにもかかわらず、これほどのガレキが発生したことは、日本人の物質生活の一面を改めて知らされることになった。千年前の貞観の地震では、枯れ枝が堆積したぐらいに過ぎなかったであろうが、今回は「3種の神器」などともてはやされて、次々と買い込み、しまいにはそれなしでは生きていけないほどになった“所有物”がガレキとして大空の下に醜い姿をさらけ出している。この津波が首都圏など、人口密度のきわめて高い場所を襲ったときにガレキの量は、到底想像もつかない。人々の暮らしは、これからもますます「モノ」を買い込んでゆく方向に進むだろうが、いったん肥大化した物欲には何の歯止めもかかる兆しはない。

ガレキの中で、特に厄介なのは、車両である。東北では、過疎化と少子化の進行のため、だいぶ前から公共交通機関が著しく衰退し、田んぼの真ん中に巨大スーパーができ中小の商店が閉鎖に追い込まれ、人々の暮らしには自動車が不可欠のものとなり、この2トン前後の巨大な金属とプラスチックの塊を買わざるを得ない。自動車を所有してもらえることは、自動車会社にとっては朗報であろう。また、自動車販売が進まなければ地域の雇用にも影響を及ぼすことから、この非効率な交通手段に完全に依存する生活様式ができあがってしまっている。一方、今回の津波で流された線路については、とりあえず旧路線上を行くBRT のような手段が考えられているが、鉄道会社としては、すべてが赤字路線であることからして、この震災を機に思い切って廃線にしてしまいたいのが本音であろう。地域経済は、これまでも少子高齢化と過疎化によって、ゆっくりと縮小してきたのだが、震災はこれを一気に加速する結果となっている。

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世界の大災害の歴史を振り返ってみると、中にはそれをきっかけにして新しい構想の下にすぐれた社会システムの再構築を試みる場合もある。単なる’経済的‘復興にとどまらず、災害を教訓に、本質的な改革の出発点に利用する場合には、為政者たちの創造的な展望が必要とされるが、今の日本ではそれが満たされる状況にあるだろうか?「海岸に住んでいると危ないから、高台に移転する」、「波が防潮堤を乗り越えてきたから、もっとかさ上げをする」、「原子炉冷却で電源喪失が起こったから、今度はもう少し長持ちするようにする」「(きっと慎重にやると約束するから)原子炉の再稼動しよう」など、どう考えても従来の思考の延長でしかない発想で事業が行われているが、このままで大丈夫なのだろうか?

あえて原子力全廃を決めたドイツでは、それに代わるシステムを着々とすすめている。この決定は、大変な冒険であるといえるが、その変化の過程でちゃんとビジネスチャンスも生まれている。ところが日本ではこのような根本的といえる変革は、大多数の人々が支持する可能性は薄く、というよりは真剣な議論として取り上げられることはなく、どちらかというと過激な意見を持った少数派の掲げる意見、とみなされる。大江健三郎氏が原子炉再稼動反対のアピールをしても、マスコミは無視するか、ごく小さく取り上げるだけだ。ちょっとしたことなのだが、江戸時代以来、日本社会の中に温存されてきた“後進性”が顕著に現れてしまうようだ。

ある意味で、この地震とそれに伴う原発事故は、思考停止を救う大きなチャンスだったのだ。というのもこの災害が起こらなければ、東京電力による原子炉の管理はチェックが入らないまま放置され、原子力についての国民的議論が起こることもなく、将来のあるとき死者が大量に出る大事故を招いたかもしれないからだ。まさに自分で体験しないと、その重要性が会得できない、この社会の状況を暴露している。今、このチャンスをちゃんと生かすことができるか、国民自身に、そして世界中の人々から、真剣に問われているのだ。

2013/09

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