文明時評

きつね

イスタンブール訪問記

2013年10月

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2013年10月2日から7日までイスタンブールを訪問した。あいにく夏から秋への変わり目の頃で、当地では秋雨のような日が続いた。それでもトプカプ宮殿、アヤソフィア、ブルーモスクの3つをはじめとして、この街をできるだけ知ろうと精力的に歩き回った。庄野真代の1978年の曲「飛んでイスタンブール」では、歌詞に“砂漠”のことばがあったが、ここは黒海と地中海に挟まれた温帯で、どこを見回しても日本と同じく緑したたる山や丘が続いている。

街を歩くと、若者と子供が多い。少子高齢化の逆の多子低齢化がすすんでいる。特にこの街には地方からの流入が激しく、人口も1千3百万を超えて、周辺に広がっている。雑踏での乳母車につまずきそうだ。黒海と地中海の中海である、マルマラ海をつなぐボスポラス海峡を境に、西のヨーロッパ側、東のアジア側はともに緩やかな丘陵地帯で、その斜面に、日本でいえば「団地」のように住宅が広がっている。家々はヨーロッパに似て色や形がそろっている。海峡沿いは、古代から発展したヨーロッパ側では旧市街も新市街もビルが密集しており、いわゆる下町を形作っているが、スラム街はないようだ。ただ、帝国時代からの古い石畳の道がそのまま残り、それがくねくねと網の目のように広がっているので、車の運転は、常に一方通行と渋滞を覚悟しなければならない。

郊外には、国内か外国による資本の巨大スーパーやモールがたくさんあるが、市街地にはまだコンビニとよべるものはない。昔ながらの商店と、観光客に人気のグランドバザールやエジプシャン・バザールなど、中東でよく見られる市場が、生活の中に根を下ろしている。朝の通勤時間帯になると、メトロや路面電車、そして海峡を渡ってくる連絡船から大勢のサラリーマンが吐き出される。道路工事や鉄道工事が至る所で行われ、まさに経済成長の真っただ中だといえよう。物乞いはほとんどまったくと言っていいほど見かけない。あるいは厳しく取り締まられているのかもしれないが。しかし、児童労働は大目に見られている。アイスクリーム屋にもバザールの店員にも彼らの姿は目につくし、夜の飲み屋街では午前零時近くになるのに、小学生ぐらいの子供が物売りとして、テラスで飲食する人々を相手に商売をしているのだ。ジニ係数を調べると、日本よりやや高いが、極端な格差は減りつつあるようだ。街には、ジュース売りや靴磨きなども数多く見受けられ、職につけない人々の受け皿となっている。

トルコは、ムスタフア・ケマル、のちのアタチュルク大統領のおかげで議会制民主主義を確立しているし、社会体制としては世俗主義をとっている。だが、まるで国教であるかのようにイスラム教が非常に深く人々の生活に入り込んでいることがわかる。街を数百メートル歩けば、すぐにモスクのドームとミナーレ(尖塔)が目につく。時間になれば、拡声マイクで、周りの人々にお祈りを勧める放送が流れる。水族館に行っても「祈祷室」がちゃんともうけられている。エジプトに見られるような、目しか見えない黒づくめでベールを着た女性はさすがに少ないが、スカーフの着用は珍しくない。もっとも、まったく普通のヨーロッパ風の身なりをした女性が大部分になってきている。イスラム教以外にも様々な教会がある。圧倒的な数のモスクに交じって、アルメリア教会、ユダヤ人のシナゴーグ、ギリシャ正教会、カトリック教会、そしてなんといってもコンスタンチノープル世界総主教座がある。この街にはいかに多くの宗教を奉じる人がいて、宗教的雰囲気がいかに濃厚かわかり、宗教に対する表面的な関心しかない日本から来ると、無宗教者は罰当たりとみられるのではないかという気がするほどだ。このように、宗教的雰囲気が社会のすみずみまで浸透しているために、経済成長が年々進んできた場合、旧共産主義国に見られるような極端な拝金主義の歯止めになるかもしれない。

この国は何と6つもの国と国境を接している。また、トルコ領である黒海の南岸に立てば、対岸はロシアとルーマニアの浜辺だ。イスタンブールだってギリシャやブルガリアとの国境の町エディルネまでわずか100キロ、バスで2時間半だ。周辺のそれぞれの国は、みな使用言語が違う。歴史をさかのぼれば、アナトリア半島には最初はギリシャ人の植民都市があったのだし、幾多の帝国の盛衰を経て、今のトルコ民族が東方からこの半島に移ってきたのもだいぶ後のことだ。このような歴史的背景から、周りの国々との外交関係は、日本人の想像を超えて複雑極まりない。新市街の中心、タクスィム広場の真ん中には、義勇兵らを描いたらしい共和国のモニュメントがあり、日曜日にそこを訪れたところ、政府関係者が花をささげ、少年少女が国歌を歌っていた。単純な一民族一国家ではないだけに、国家の一体感を保つために必要なのだと思う

街を歩いてみると、宮殿、アヤソフィア、ブルーモスクの3つがある旧市街は何と言ってもヨーロッパ人観光客がたくさん来ている。特にドイツ人が多いのは、ドイツへの出稼ぎが多いせいだろうか。彼らにすれば、中東の中で、十字軍の痕跡、キリスト教の美術工芸を見ることのできる場所として興味があるのではないか。それに比べると、日本人観光客はわずかしかいない。私も訪れてみたアジア側にある「ユスキュダル」という古代から存在する街が、江利チエミの1954年の曲、「ウスクダラ」のことだと気づく人はいるだろうか。私も含めて、高校の世界史の時間には西欧の歴史ばかり勉強して、小アジア周辺についてはごく大雑把にしかやらなかったことが一つの原因ではないだろうか。出発前にもっと詳しく確認しておくことが悔やまれる。しかも、この辺りでは侵略、進軍、占領、国家建設、衰退、滅亡が著しく入り組んでいて、トルコ1国の歴史としてとらえることが難しい。

ホテルのフロントでは、どこでもほとんど問題なく英語が通じる。商人も、大規模でも露店であっても、“数字”に関しては問題ない。一方、駅、博物館、美術館ではトルコ語と英語の二か国語表記が徹底している。トルコ語に堪能な外国人はそう多くないだけに、これは大変ありがたい。そもそもトルコ建国の時に、アラビア文字を廃してラテン文字にしたことがヨーロッパ化に大きく貢献した。南部を中東諸国に囲まれているから、アラビア語伝来の言葉が非常に多いが、それ以外の国からの外来語もやたら多い。たとえば、現地の「・・・高校」の表札は「・・・リセ」と書いてあったが、これはフランス語からの直輸入だ(トルコ語辞書では普通名詞扱い)。「高校」のような日常的な単語を自前の国語で作らないのは珍しい。トルコは今、EUに加盟申請をしていて、トルコの東部については判らないが、イスタンブールなど西部の地域については相当西欧化が進んでいる。それもスペイン、イタリア、ギリシャといった南欧的な雰囲気が強い。

人々は陽気で、人懐っこく、食べ物もとてもおいしかった。中東といえば、串に刺した焼肉、ケバブが有名で私も好物だが、昼晩と続くと、さすがに「ちょっと・・・」と思えてきた。彼らは生まれてから死ぬまでケバブを食べ続けているのだが…。それで、ボスポラス海峡でとれる新鮮な海の幸、日本のスズキやイワシに似た魚の料理もフライやグラタンになっているのを食べてみた。これはいける。ヨーグルトは期待していたのだが、日本とは使っている乳酸菌の種類が違うらしく、また原料の牛乳の乳脂肪率も違うらしく、さほどうまいとは思わなかった。

今回初めてトルコ人とカタコトながらトルコ語を話した。いつものことながら、挨拶だけでも自国語を話す外国人が現われると、現地人は驚き呆れ、それまでと態度を変える。こちらの動詞活用の間違いを指摘してくれたりした。駅で小銭ばかりで紙幣がなくて困っていると、どこからかあらわれた人が親切にも商店に連れて行って両替をしてくれたりもした。通りですれ違う際に「コンチワ」だか「Hello 」だか「From Japan?」などいろいろだが、日本人ということで、なんども挨拶を受けた。親日的な人が多いみたいだ。

トルコは今、政治の季節らしい。制度改革に関する政府の巨大ポスターが貼ってあったり、タクスィム広場では、今のところは平穏ながら、公園の隅にはいつでも出動できるように機動隊が待機していたりしている。この町一番での繁華街で、若者たちのデモ行進にもぶつかったし(何を要求に掲げているかわからなかったが)、国鉄の駅前では労働者たちがストライキをしていた。それも無理もないことだろう。トルコは今まで訪れたインドやエジプトと同じく、開発途上国だ。急速な経済成長を遂げるうち、今までの社会システムではどうしても合わないところが出てくるものだ。それを調整するための変革というのはどうしても必要になる。ちょうど日本の昭和30年代後半に似ているようだ。つまり、東京オリンピック前夜ということになるのだが、正直なところ、帰国してみると、オリンピックはイスタンブールにすればよかったのに、と思う。 おわ

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