文明時評

きつね

ネパール訪問記

2014年3月

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なぜ貧しいのか

ある大学による飲料水に含まれるヒ素の調査と観光を兼ねて、2014年2月から3月にかけての23日間、ネパールを訪問した。国連によって、ここは後発開発途上国とされている。つまり、世界でも指折りの最貧国の一つというわけだ。だが、内戦、自然災害、飢餓のいずれにも悩まされているわけではない

むしろ、数年前の王制廃止によって、少なくとも形の上では民主主義が根付いたようだし、低地のモンスーン気候のおかげもあって、食料自給率は100%である。ヒマラヤ山脈や世界遺産のヒンディや仏教の寺院など、恵まれた観光資源があり、観光客は日本や欧米から多数訪れている。

だが、首都カトマンズへ行ってみると、盆地は終日汚染された排気ガスに覆われ、道路にセンターラインはほとんどなく、機能している信号機は全市で4,5台だけである。1日24時間のうち、3分の1はいわゆる全国規模の“計画停電”であって、冷蔵庫からは生ぬるいビールが出てくることになる。水道の蛇口をひねると、黄色い水が出てくる。インフラがずっと未整備のままであり、鉄道もなく、幹線道路も穴ぼこがひどく、常に修理中というありさまだ。

以前訪れたエジプト、トルコ、インド北部などと比較してみても、明らかにその歩みは遅い。各国とも、ここ数年の間に、長足の進歩を遂げた。それなのにネパールが著しく立ち遅れているのはなぜなのだろうか。

ある意見によれば、ネパール人の男は非常に怠け者であるという。確かに農村では、女だけが一生懸命働き、男たちは、双六やチェスの類をみんなでガヤガヤ言いながら打ち興じている。これはアフリカの部落でもよく聞いた話であるが、都市化の進む状況では、もはや通用しない。

ただ、カトマンズから中央部のブトワルの町に向かう街道のドライブ・インの壁に貼ってあった、ビル・ゲイツの「貧しい生まれならあなたの責任ではないが、貧しく死んだとすればそれはあなたの責任だ」という標語を見たとき、欧米風の資本主義の精神がまだまだ浸透していないことを強く感じる。

しかし、「几帳面さ」「時間を守る」「約束を守る」という基本的な生活態度の欠如をうんぬんしたところで、単に先進国の優位性を強調するだけに終わってしまう恐れがある。このほかに、開発途上国に限らず世界中で問題になっているのは、「格差」と「腐敗」であろう。

国土が広く、大地主が威張っているところはたいてい格差が大きいが、ジニ係数で見る限り、ネパールは中国より少し高く、隣のインドよりはるかに高い。農業生産の盛んな中央部のタライ平原では、大部分が小作農だということを聞いて、これが農村の貧困の原因ではないかと思われる。実際、当地で飲料水についてのアンケートを行った時、農家の奥の奥までお邪魔させてもらったが、粗末なベッド、家具のまるでない部屋、痩せた家畜が目についた。

「腐敗」の典型的な例は、川の真ん中に橋の基礎を作ったまま、橋梁をかけることなく放置された工事現場に見られる。工事の資金がどこかに消えてしまったのか。本来は川の対岸の住民と建設費用を折半しようということだったのに、途中でけんかが起きて、建設が再開されることなく現在に至るという事例もあった。

ネパールの田舎を歩いていると、家畜が至る所に放し飼いにされ、稲藁の大きな山が作られていたりして、まるで昭和30年代前半の日本に戻ったような錯覚を覚えるが、では60年前のネパールはいったいどんなのだったのかといえば、今とまるで変化がなかったのだといっても過言ではあるまい。

しかも、ここでもインドと同じくカースト制度がまだ根強く残っており、さすがに特殊な職業カーストは現代化とともに消滅しつつあるが、山岳から多くの民族がコメ作りにあこがれて、平原に下りてきたこともあって、住民の間の階層関係は非常に込み入っている。

だから住民の間に組織化が進まず、国際協力機構(JICA)の仕事の中に、技術協力のみならず、農村で青年会や婦人会を創設する任務さえもあるのだ。強固な住民組織ができて初めて、大きなプロジェクトの導入が可能になるのだが、このように社会システムづくりの最も初歩的な段階でさえもまだできていないのだ。

貧困は、出稼ぎを盛んにする。海外労働の送金が、国家の収入の大部分を占めているのだ。カトマンズ空港はこれから出かけるネパール人で混んでいる。特に、2022年にワールドカップが開催されるカタールには、大勢が働いているが、法制的なシステムがきちんとできていないこともあり、パスポートを取り上げられたうえでの奴隷労働のうわさが絶えない。

カトマンズ盆地のヒマラヤ山脈の眺めで有名な町、ナガルコットで出会ったガイドは英語と日本語が堪能だったが、やはり彼も海外で働くことを希望していた。だが、香港、ムンバイ、ドバイ、いずれにも過酷な労働と低賃金であることを理由に首を横に振り、日本でぜひ働きたいという。日本はネパール人にとって憧れの地であるが、入国に関しての制限が多すぎる。

極端から極端へ

ネパールを訪れたことは、極端な国から極端な国への移動でもあった。学校給食に含まれている普通の食品を食べただけで命の危険にさらされるアレルギーが蔓延する国から、十分に浄化されていない薄黄色の水を平気で飲む子供たちの国へ。あらゆる抗菌グッズが身の回りにあふれて“清潔”この上ない国から、鶏が生ごみの中でエサをついばんでいる国へ。生活習慣病にかかっていても特効薬があるために症状が回復し、長生きできてしまう国から、主にタンパク質の不足のために50歳を過ぎると70過ぎのように年老いてしまう国へ。お座敷犬がソファの上で一生過ごす国から、気をつけていないと舗道にゴロゴロ寝ている野犬につまずいてしまう国へ。老齢で寝たきりになっても優れた介護で90過ぎまで生きる国から、飲料水にヒ素が混じっていたために中毒にかかっても放置されている国へ。

このようにあまりに大きな落差が存在する。しかも同じ21世紀の中で同時進行しているのである。両極端というのは現実世界では決して好ましくないものだ。より良い生き方はおそらくその中間にあるのだろうが。

援助活動について

今回、ネパール中部のヒ素が地下水に含まれているといわれる農村地帯で、住民アンケートを行った。ネパール語の通訳を介してのアンケートに、人々は驚くほど純朴で協力的であり、個人情報は話せないなどという人はもちろん皆無である。しかし調査のあとに希望を聞くと、「あなた方はたびたび調査に来るが、そのあと何をしてくれるのか、状況がよくなったという話は少しも聞かない」という不満を頻繁に聞いた。この地域はほかの調査機関も過去に何回も訪れているのだが、住民は単に調べられただけで、調査結果の伝達さえも行われていなかったのだ。

今回、バスで4時間もほとんど未舗装の道路を揺られてたどり着いたのは、中部の山奥で援助活動をしている、ある日本人ボランティアの20周年記念集会に代理出席をするためであった。ネパールの現状は日本でも広く知られており、その人の後援組織が、日本各地からツアーを組んでこの集会に参加してきていた。地元の名士たちが感謝の演説をし、そのあとネパール側と日本側の有志がステージの上で歌や踊りを披露していた。

ここでひとつ気になったのは、日本語を巧みにしゃべるネパール人は結構いるのだが、ネパール語を操る日本人は、そのボランティアの人を除いてほとんど皆無だということだ。せっかく大枚をはたいてここまでやってきたのだから、せめて”ナマステー”以外の挨拶言葉や、興味津々で寄ってくる地元の子供たちに「名前はなんていうの?」とか「学校はどこ?」くらいの初歩的なネパール語は覚えてきてもよさそうだと思う。だからせっかくやってきても、ネパール人とはほとんどコミュニケーションを持つことなく帰国することになる。

ある援助団体を立ち上げた人が私に「あなたはここまで列車でやってきたの?」と聞いたのにはあきれた。ネパールには国内の諸都市をつなぐ鉄道路線はないのである!その国に援助をするからには、当地の言語、文化、習慣、そしてできればちょっとした歴史ぐらい興味を持ってもよさそうではないか。現地に日本のおかげで立派な施設ができたのは事実だが、「金さえやればそれでいいんだ」では少しさびしい。

カトマンズの近郊都市、パタンの街でタンカ(仏教の掛軸)を習っている若い日本人女性はJICAから派遣されて地元の婦人会創設に携わっているという。立派な橋や道路の建設も大切だが、このような地道な活動こそ本当の意味での援助になり、現地の人の自立心を損なわない方法ではないかと思う。

横浜の外人墓地には、日本の成長を助けてくれた外国人たちが少なからず眠っている。でも彼らは物量的な援助をしてくれたわけではない。札幌農学校のクラーク先生のような感化によって生徒を育てた人が多い。自然発生的な独立心が芽生えた時、開発途上国は単なる経済成長だけでなく、真の意味で成長を始めたといえる。世界には経済成長だけは優等生だが、腐敗や依存心だけは昔と変わらない国々がたくさんある。ネパールにはそうなってもらいたくないし、何人か知り合った人々の中には、もっと将来を見つめていくような雰囲気を持った人もいた。かれらに希望を託そう。

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