文明時評

きつね

若い世代はどうなる

HOME > Think for yourself > 文明時評 > 若い世代

今私は英語の家庭教師をして、何人かの生徒を担当している。60歳代以上の人で、15歳から18歳ぐらいの諸君と接する機会を持つ人はあまりいないだろうから、何か参考になるようなことを少し述べてみたい。

ここで話題にしたいのは、教育界で長年言われているような、学生や生徒の“学力低下”の問題ではなく、もっと遠い将来にインパクトをもたらしそうな点についてである。英語の教材を生徒とともに読むときにしばしば出会う、たとえ日本語に直すことができてもその意味が生徒には理解できないような場合に、そんなことに気がついた。

例えば「イタリアの首都はどこ?」と聞いて、中学生では、その大多数が答えられない。ただ彼らの名誉のために言っておくが、私の担当する生徒たちは、ほとんどが学校の成績では中間レベルか、ややその下ぐらいであり、決して最下位に属するわけではない。

このことをきっかけにして、生徒たちにいろいろと地理上の質問をしてみた。そこで判明したのは、日本地理、世界地理について一般にきわめて関心が薄いということだった。また、学校の地理の教科書に太文字でのっているような事柄については、一応覚えていても、さらにそれを越えて関心が広がることがほとんどないことに気付いた。マスコミで「若者が内向きになっている」とよくいわれていることだ。

これは昔から言われているような、学校で教わる知識は実際に何の役に立たないというようなことではなく、生徒自らが立ち上がって、自分の外にある世界をのぞいてみようという意欲が起こらないことに起因することがわかる。「井戸の中の蛙」という言葉があるが、生徒たちの場合、井戸の中をはい回ることすら大儀なのではないかと思いたくなる節がある。昔のフォーソングの歌詞「知らない世界を見てみたい」は、今ならどう受け止められるだろうか?

印象に残る質問を受けたのは、beggar を「乞食」と訳した時だった。「コジキとはなんですか?」と聞かれた時のショックは何とも表現しがたい。放送禁止用語となって、日本語の語彙から消滅してしまったのか(軽犯罪法の条文にはあるが…)?彼らが知らないのは、日本に乞食が存在しないからなのか。テレビでそのことが話題になったことが一度もないからなのか。海外取材の番組で、貧しい開発途上国について報道しても、日本人のプロデューサーは、乞食の存在を視聴者から隠すからなのか?

いろいろと理由が考えられるが、生徒たちの置かれている環境が、いわば無菌室みたいなものだからなのか。もともと日本では悲惨な事件や死体、などをひた隠す傾向が強いこともあり、日本の過去の歴史に、そして外国には当然乞食が存在することが意識の中に上ることはないのだ。その狭められた地平の中で育つと、世の中は平和境そのものであるという知覚を持つことになるのかもしれない。

Raft を「筏」と訳した時も質問を受けた。これは女子高校生の場合であったが、語彙の不足は、関心がないことはもちろんのこと、やはり実体験の場がないこととも大いに関係があるだろう。‘スキー離れ’など、アウトドア・スポーツからの若い人の離脱が話題になる中、自ら積極的に体を動かして、自然の世界を知るというような機会がなくなっていることの表れである。

「見るスポーツ」と「やるスポーツ」の間の断絶もはなはだしい。実際、高校生の場合、運動部に入っている一部の生徒と、入っていない大多数の生徒との間の、一日における運動量の差は極端に大きく、後者の場合には、しばしば話題に上る「生活不活発病」に早くもなってしまっているのではないかとさえ思いたくなる。

上記のような事例を数多く見聞きすることによって、若い諸君がこれから成長して大人になり、日本社会の一員を成すようになる時、これまでとはまったく違った問題が表れてくるのではないかと思い始めた。特に非常に気になることは、彼らの極端な、実生活における「経験不足」である。

野生動物だと、若い個体が、大人になるまでに様々な体験(狩り、逃走、食物の探索など)をして、親に劣らないくらいたくましく育つ。人間社会でも、ついこの間まではそうだったのだが、日本社会が成熟し、これからの成長の余地があらゆる面で狭まってきた時点で、その必要がなくなったというか、狭い世界に閉じこもっていても一向に差し支えないか、親が保護してくれる環境に生きることになってしまったらしい。鳥にたとえていえば、いちいち飛ばなくとも餌が手に入るから、巣立ちや飛行なんていう面倒なことはやめてしまえということか?

確かに、いつの時代でも若者と年寄りとの間の断絶は大きい。聞くところによると、奈良時代の寺社建築現場に残されてあった落書きにも、当時の親子の断絶がしっかり書いてあったらしい。子が親の生き方を批判し、それを乗り越えて新しい生き方を模索するのであれば、新たな未来の世界が見えてくる。だが、今回の場合は断絶とは違い、生きる世界の“委縮”とでもいえそうな状況なのではないかと思う。

世界の委縮は、文化の継承においても重大な変化をもたらすことになる。残すに値すると判断されたものが次世代に受け継がれたものを文化と呼ぶならば、残念ながら、継承される量は減少の一途をたどっている。それは、重要文化財とか人間国宝の伝統芸能のような面だけにとどまらず、生活そのものを活性化させるようなもの、例えば祭りとか地域連帯といったものの衰弱にもあらわれている。

ただ、「昔の若者はしっかりした展望を持っていた」などと書くと、年寄りの繰り言が始まったといわれかねない。「かわいい子には旅をさせよ」という。「獅子の子落とし」ともいう。このような故事ことわざが昔から言われてきているということは、親の子供に対する過保護の害を先人もよく知っていたということであろうが、日本社会の若者に対する過保護は先例がなく、夢だけがたくさんあった時代に逆戻りするわけにもいかず、また開発途上国に若者を送り込むのは一つの案だが、本人がそんなところ行くのは嫌だと拒絶されるのがオチだろうから、残念ながら今のところ何の解決策も見当たらないのだ。(おわり)

2013年7月初稿

HOME > Think for yourself > 文明時評 > 若い世代

© Champong

inserted by FC2 system