文明時評

きつね

ロシア訪問記

2014年9月

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トルストイの家博物館を経て

モスクワの中心部、クレムリン(城壁)からモスクワ川を南へ2キロほどさかのぼると、左岸から「レフ・トルストイ通り」がはじまっている。通り沿いの閑静な住宅を西へ進むと、左手の塀越しに茶色で2階建ての家が見えてきた。朝一番に行ったのだが、すでに開館時間になっても切符売り場には人影がない。実は放送局のドキュメンタリー制作班が来て館内の撮影を始めていたのだ。

1時間ほど待たされて館内に入ると、靴を履いたままで歩けるほど巨大なスリッパを出され、これで見学することになる。1階にはトルストイの娘や召使いの部屋などが忠実に復元されて展示されている。炊事道具や工具なども当時の使われたままになっている。「復活」などの執筆を行った黒い大きな机もあった。当時の暮らしぶりもよくわかるし、娘が父の仕事を手伝っていたらしい。他の小さな博物館と違い、ロシア語のみならず、英語でも(一部)説明されている。

2階にあがると、その中のある部屋の前で専門家がカメラを前にして、当時の家族の暮らしぶりを説明しているところだった。解説が終了すると、カメラマンは廊下を静かに歩き、各部屋をゆっくり移動しているような写し方で撮影をして、その場を立ち去った。近い将来これが国内のテレビで放映されることになる。

当時、多くの文化人がこの家を訪れて議論に花が咲いたのだろうか。外に出てみると、庭は家の内部に劣らず魅力的である。2千坪はあろうか林がまばらに生えて明るい、長方形の土地に縦横に散歩道がつけられている。一周すると、ところどころに鳥の巣箱が据え付けられている。外部からの物音は何も聞こえない。中でも素敵なのは、庭の中央にある、3メートルほどの小山である。下の方かららせん状の小道が付けられていて、頂上にはベンチが置かれている。ここは、静寂の中で一日中思索をするには理想の場所だ。ここを訪れたのはモスクワ到着第1日目のことだ。

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9月に、モスクワとサンクトペテルブルク の2都市を訪れた。ようやくウクライナでの休戦が成立したばかりであり、国境付近の情勢は不安定な中で、プーチン政権下における国内の暮らしはどんなものかを見てみたかった。またウクライナ情勢がどのように影を落とし国際間でのロシアの人気低下をもたらしているかも知りたい。

しかも日本国内のメディアによる近隣諸国に対する好感度の調査をすると、中ロ韓にたいする日本国民のいだくイメージは甚だよくない。しかしマスコミやネットを通してしか、相手国の様子を知らないのに、どうして安易に好き嫌いが出るのか?これらはすべて誰かによって作り上げられているだけではないかと感じた。好き嫌いは実際に自分で行って、その国に“潜入”してみなければわからないものだ。

到着してみると、EUによる経済制裁下にもかかわらず、「トルストイの家」をはじめとして、どの観光地もヨーロッパ人と中国人でいっぱいだ。とくにクレムリンやエルミタージュ美術館は団体客で押すな押すなの盛況である。夏が終わったばかりだということもあり、コンビニの棚は採れたばかりのスイカや根菜類がならび、物資不足の状況にはなっていない。週末のモスクワ川沿いの散歩道にあふれる自転車やローラースケートの群れなど、他のヨーロッパ諸国と変わらない姿が見受けられた。

1991年のソ連解体後、長らく国内の混乱が伝えられていたが、20年以上を経て、安定と秩序を取り戻したと言えよう。実際、真夜中はともかく昼間であれば、この2都市の治安は改善されていることが実感できる。夜でも地下鉄の通路で大道芸人が演奏を披露し、子供連れや恋人たちが行き来している姿が何よりの証拠だろう。

だが一方で、旧ソ連時代にアメリカと対立していた強国への郷愁がまだ人々の間に残っているようだ。スナックやバーには「CCCP (USSR)」印を添えた看板を数多く見たし、モスクワ郊外にある「宇宙飛行士記念博物館」に行ってみると、ガガーリンをはじめとする過去の業績をたたえる展示でいっぱいで、宇宙開発の偉業を若い世代に伝えるのに非常に力を入れていることがわかる。

しかし、カナダと同程度の経済規模なのに、核兵器をもち、強力な軍隊を維持し、宇宙開発を続けなければならない、今度は新たに編入されたクリミア半島の面倒も見なければならない、となると経済全体に大きな無理がかかってくることは間違いない。全般的に高速道路、高速鉄道の整備などが遅れがちで、高層ビルもなかなか増えないのもそこに原因があるようだ。

ロシアはユニークな建築物の宝庫である。土地にゆとりがあるので、この2都市では広々とした公園や広場作られ、そこにこれまでソ連のもとでは抑圧されてきたギリシャ正教会の建物がきれいに復元、再建されている。またソ連以前のロマノフ王朝によって作られた数々の宮殿や離宮を見逃すことはできない。しかし一方では、この国の近代の歴史の中にあった複雑な社会情勢が見え隠れする。

サンクトペテルブルクでは、水中翼船で30分ほどフィンランド湾を西に進むと、ペテルゴーフという離宮を訪れた。ここの高台に建つ宮殿の金箔の豪華さ、下の公園の噴水の大きさやその数の多さに観光客が驚嘆する。

しかしそれを見ていると、ベルサイユ宮殿とフランス革命の関係を思い起こしてしまう。宮殿の豪華さは、庶民にとっては究極の格差の誇示であり、そこから革命が起きるのも無理もない。同様なことがペテルゴーフの離宮とロシア革命との間にも見てとれる。

なお、サンクトペテルブルクからフィンランド湾をフェリーで200キロ西へ進むとヘルシンキに着いてしまう。人口500万余りの小国フィンランドは、国民所得の高さでは世界トップグループである。ロシアとフィンランド、この2国がとった異なる道とはどのようなものだったのか?

それにしても、この国ほど英語の通じないところはめずらしい。空港や外国人の泊まるホテルを除くと、英語を安心して話せる人、英語が併記されている表示板を見つけるのはたいへんだ。旧ソ連圏ではどこへ行っても一応、ロシア語で用が足せるということもあって、英語の必要性をあまり感じないのだろう。多くの外国人観光客の訪れるモスクワ川のクルーズで、お金を払う段になっても船頭さんが数字すら英語でうまく言えないので、筆談になってしまった。それでも、地下鉄のつり革広告で、英語学校の生徒募集を結構見かけたから変化の兆候が見られる。

一般に小国の国民は、外国語を操るのが得意だといわれる。だが逆に、ロシアはEU諸国と地続きでありながら、奥座敷で面積が広大であるがために、閉鎖性を生んでしまっているのかもしれない。1789年発のフランス革命の思想より、1812年のナポレオン軍のほうが先にモスクワに到着してしまったという人もいるほどだ。それもあってロシア国民の多くは、為政者がコントロールしやすい、ロシア語によるメディアにのみ接し、他言語による報道に触れる機会が少ないことが昔も今も、情報の多様性を阻害しているのではないだろうか。

だが、時代は変わりつつある。給料が上がり物質的に恵まれた生活を目指す、単なる経済成長至上主義的な生活から、もっと幅広いものの見方や価値を求めるゆとりが出てくれば、外国語の勉強とともに、国際関係、特にEU諸国との相互関係の重要性を理解するにつれて、偏狭なナショナリズムにからめ捕られることなく、より広い視野での行動が可能になろう。そのときやっと、トルストイの考え方が広く理解されるようになるのだろう。

おわり

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