文明時評

きつね

ロンドン訪問記

2015年6月

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ロンドンの街

 6月3日から5日間、ロンドンを訪れた。この季節は緑が鮮やかで、ハイドパークやリージェントパークには冬の間の日光不足を取り戻そうという人々であふれていた。

 今回、ガイドブックでおなじみの、おのぼりさんコースに加えて訪れたのは、William Morris Gallery。ロンドン北部の地下鉄線の終点からさらに15分ぐらい歩いたところにあった。

 産業革命のもたらした大量生産による俗悪なデザインの蔓延を嘆き、ヨーロッパ各地を巡って得た中世美術をインスピレーション源にして、あらたなデザインの境地を開拓した過程が、わかりやすく館内に展示されていた。

 植物をモチーフにした壁紙やカーテンなどは、次々と現れては消える現代の先進的なデザインとは異なり、何かほっとさせるようなところがある。

 一方、ラスキンの考えに影響を受けたことや、社会主義運動に熱中したことも様々な資料を展示して説明している。I do not want art for a few, any more than education for a few, or freedom for a few. という彼の文が館内の壁に掲げられていた。

 ロンドンの街を歩いて気になることは、実に監視カメラが多いことだ。その大部分は、例えば2階建バスの上の階のように、その設置が張り紙によって表示されているが、ひそかに部屋の隅から窺っているのも少なくないだろう。

 国民が監視カメラの存在に納得して、民主的に運営されている限りは問題ないだろう。そう信じたい。しかし将来、このシステムを強権的権力者の手に握られた時はどうするのだろう。「(映画の)華氏451度」や「1984年」はたまた「007シリーズ」の作品が英国生まれだというのは偶然だろうか?

 アメリカの諜報機関がヨーロッパの首脳のメールのやり取りを盗聴していたというようなニュースを聞くと、英米の間に何か共通な性質があるような気がするのは考え過ぎだろうか。

 ロンドンの街を歩いてもうひとつ気がつくことは、紀行文によく取り上げられている、I’m sorry. / Excuse me. である。地下鉄がちょっと揺れてよろめき、隣の人を押してしまった時、うっかり同時に受付に向かってしまった時、この言葉を頻繁に聞いたということは、このように声をかけるということが習慣あるいは慣習のようになっていると言われるのは、あながち誇張ではないのだなと気づいた。

 単なる冷やかしで商店の中に入る時でも、Hello は欠かせないし、その短い掛け声だけで人間同士の緊張関係が、一瞬にして解消することはあきらかだ。

 日本の交通機関で、無言で押して通ろうとする人がいるとか、小学校で「あいさつ運動」などがわざわざ繰り広げられていることを思い出すと、“言葉によるコミュニケーション”というものの重要性が、この国ではしっかり認識されていると思われる。

 ロンドンの町、いやイギリスのどこの場所でも、多くののヨーロッパの国々でも気づくことは、公園の動物たちは人間が近づいても、まるで逃げようとはしないことだ。明らかに野生の鳥で、日本なら山奥でしか見かけないような珍しい種類が、ハイドパークのど真ん中にいる。

 こちらが近づいても、こちらをちらと見るだけで、少しも逃げる気配はない。撮影のため、50m、25m そして5mまで近づいてもその鳥は悠然としたままである。というよりは人間に関心がないと言ったらいいのか。

 逃げないのは、いじめる人間がまわりにまったくいないからだ。もし一人でもいれば、それがトラウマになって警戒するようになるだろう。人と動植物との共存というと、なんか理想を掲げているように聞こえるが、ここにその第1歩を示す実例があった。

 公園といえば、市内のどこでも目に入るのは巨木である。具体的には幹が直径60センチ以上。日本では戦争と寺社建築のため、あらかた姿を消してしまったが、樹木がこれほどまでに肥え太るためには、一つには開発による環境変化がきわめて少なく、地方自治体やNGOなどによって計画的に保護されている必要がある。

 National Trust がいい例だが、掛け声だけではだめで、具体的に有効な方法を検討し、効率的に活動を行えるような組織をきちんと作ることによってはじめてその結果が出始めるということを教えてくれるようだ。

 しかし、一方では毎朝のテレビ放送は、またまた地下鉄路線の遅延、故障、事故を伝えている。世界で最初に地下鉄をこしらえたのはいいが、老朽化が最初に現れる運命にある。

 しかも財政支出を抑えなければならないという大きな流れがあるために、若返り工事も思うようにいかないようだ。泊まったホテルの近くを通る Piccadilly Line などはトンネルと同じく車両断面が半円形をしていて、窓際は頭が使えるほど天井が低いのである。

 街を歩くと、有色人種の割合はかなり多いが、パリほどではない。でも郊外の一部に集中して住んでいるようだ。

 北部の地下鉄駅のそばの大衆食堂で昼食をとっていると、よれよれの服を着た黒人のおばあさんが相席して、ウェイトレスに、私が食べているランチの中の豆の煮込みを指さして「あの豆だけくれるか」と頼み、ウェイトレスは少しも嫌な顔をせず、ナイフとフォークを添えて、希望通りのものを持ってきた。

 おばあさんは私に向かって、「あんた、スプーンを貸してくれるか、私の親指は動かないんだよ」というものだから、貸してあげるとおいしそうにすすり始めた。

 この状況から、「シティの金融街は札束が飛んでいるのに、この通り貧しいおばあさんは食べるものにも困っている、だからこの国は格差がどんどん広がっているんだ」と、えらそうに結論づけることはできないけれども、にぎやかな観光地では見られない断面を垣間見た気がする。

おわり

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