暴論

かつてスペインの僧侶ブルーノは、当時の教会に対して「暴論」をはいたために、火あぶりの刑になった。いつの世でも異端は迫害される。だがその中で少なからず先見の明があった例には事欠かないのだ。

貿易は本当に必要か?

Giordano Bruno

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貿易の重要性なんて、シルク・ロードの昔からだれも疑わなかっただろう。人々に外国の産品を運んで互いの文化や生活水準を高めるのに、交易商たちどれほど多くの貢献をしたことか。

だが今日、グローバリゼーションの名のもとに行われている貿易は、もはや必要の領域をはるかに越えていると言わざるを得ないのだ。貿易は有害だ。もっとも、この議論を持ち出せば、明らかに今日の流れの中では暴論となろう。

貿易や交易は、本来、相手にあって自分のところにないものを取り寄せるところから始まった。たまたま自分方にあって相手にないものがあれば、行き帰りにそれぞれの必要とする品物を運んだのだった。

このように過去における貿易の流れは、ないものを補充するという意味で意義があった。南アフリカの金、アジアの香辛料、中近東の石油などは最もわかりやすい例である。

ところが現代社会における貿易の流れは、すっかり形を変えてしまい、価格差が生じるところに、高いところから低いところへと流れる水のような存在になってしまったのだ。

たとえば、靴一足作る技術とその材料からみて、アメリカでも日本でも、中国でもインドでも世界中どこででも作ることが可能だ。それなのに、生産が中国などに集中するのは、価格が材料費、人件費いずれの面から見ても当地では安いからだ。

つまり値段の差が、物資の動きを促進することになっている。それ以外の面では、貿易を動かす要因はどんどんなくなってゆく。かつてニュージーランドは、キウイ・フルーツの本場で、他の国で作ることはあまり考えられなかったが、今では神奈川県の山間部では、立派な実が鈴なりになる。価格も同じくらいになった。だからもはやニュージーランド産は日本の店頭ではあまりお目にかからなくなった。

このように技術的な進歩のおかげで、航空機や造船のような大規模な産業を除いては、どの国でも作ることが可能になってきたのだ。にもかかわらず個々の商社が目指しているのは価格差を利用した利潤の追求である。

このように価格だけに基づいたいびつな体制が現代貿易の特徴なのだ。宮城県といえば、松島の牡蛎が有名だが、何とスーパーに行ってみると、韓国産の牡蛎が並んでいる!ただ価格が宮城県産の3分の2ぐらいだというだけで。

ばかげているとは思わないだろうか?東京のような大消費地で、宮城県産も韓国産も互いに競争し合うのは結構かもしれないが、生産の本場にまで、外国産が入ってくるという事態は、いつまでも続いていいものだろうか?

深夜に国道1号線などの幹線道路を走ると、東京から大阪まで、ほとんどとぎれなくトラックが続いているのがわかる。まるで、500キロの長さの貨物列車が走っているかのようだ。ただ、運転手はその車の台数だけいるわけだ。

このように物資を西へ東へ移送することが、実人件費の点からも燃料費その他の点からも、壮大な無駄なのだということを、はっきり意識している人はいないようだ。東京で食べるイチゴが、栃木県のような近郊のみならず、博多からはるばる鮮度を落としてまで運ばれてくる。

我々の日常生活はますます物資の移送に依存するようになってきてしまって、このサイクルから逃れることができないほどになってしまっているのだ。あまりに依存しすぎて、実は非常事態に対しても大変もろくなってしまっている。

静岡県富士川には、旧国道1号線、1号線バイパス、東名高速道路、東海道本線、東海道新幹線のそれぞれの橋がかかっているわけだが、これが大地震か爆破かによってすべて壊れた場合を想定してみよ。ほとんど日本の破滅である。

話を元に戻して、確かにあるスーパーが仕入れをする場合、博多産の方が、近くの栃木産よりも安く手にはいるというのなら、そのスーパーにとってより大きな利益が約束されるであろう。だがこれを社会全体として見た場合、まったく動かさずに済むものをわざわざ右へ左へとむりに移動させているのである。消費者の気まぐれだけで!

今、燃料費や高速道路代が、まだ人々がその無駄に気づかない範囲内に収まっているから、誰もおかしいと声を上げないのだろう。だが、長期的に見てこれが続くはずがないではないか。

ヨーロッパでは、経済統合への動きが盛んになるにつれ、アルプス山脈の真下を突っ切る自動車トンネルの交通量がウナギ登りに増えている。そして大気汚染は、あのモンブランの清涼な空気まで脅かしているのだ。

もし、ある物品について、世界各地の価格差がほとんどなくなり、均衡に近づいたなら、このキチガイじみた輸送の動きは止まる。だが、その時を待つ前に手を打って、この動きを制限するべきではないだろうか?

各地が、世界中どこでも作れそうな、自前の産品を適正な価格の範囲内で作れるように調整すれば、この無駄な輸送は防ぐことができる。メキシコから持ってこなくとも、カボチャは、埼玉県や茨城県で立派にできるのだ。

結局、関税を復活させることなのだ。ただ、内外差を拡大させるような従来の関税ではなく、内外差を是正されるように工夫された関税を行うべきなのである。関税撤廃によって生じた、自由競争は、単にお互いのつぶし合いと、移送によって消費される資源の無駄遣いを産むだけだ。

自動車もそうだろう。かつて、日本では、多数の自動車会社があり、互いに競争し合うことによって、性能のよい車を作りだしてきた。アジアのある程度の人口を抱えた国では、それぞれ国産車を必ず作るべきなのだ。それがかなわないにしてもせめて、より高度な部品は自国内で作る努力をすべきなのだ。

今のようにハノイやバンコクの町に日本製のオートバイだけが走り回る状態は決してその国のためにならない。バイクぐらい、どんなに貧しい国でも作れるはずなのに、日本から丸ごと輸入している。その国にとっての国辱ものだと思うのだが。

かつてインドでは、国産愛用の意気が強く、アンバッサダーなどという、丸っこい車が国中を走っていた。だが、この10年間の門戸開放によって、外国車が我が物顔で走り回るようになっている。

ある意味では日本は幸運だった。世界が貿易に必死になる以前に、国内産業の大部分を自力で育てる時間的余裕があったのだから。この点で今の開発途上国は、不利な立場に置かれている。自動車など、先進国の技術があまりに進みすぎて、とうてい追いつくことができなくなっているからだ。国民はエンストばかりする車など、見向きもしないだろう。

もはやないものを相手に求めるという形態の貿易は終わった。だが、少しでも各地域が自律的に生活を続けてゆくためには、輸入や移入にできるだけ頼らず、その地域だけの自活経済を作り上げてゆくべきではないだろうか。そこから多様性が生まれ、相手にないものを作り出すアイディアが生まれるかもしれないのだ。生活を輸入品で固めて、物価を安く押さえる、というような安っぽい発想はそろそろ卒業してもいい頃だ。

2001年6月初稿

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