暴論

かつてスペインの僧侶ブルーノは、当時の教会に対して「暴論」をはいたために、火あぶりの刑になった。いつの世でも異端は迫害される。だがその中で少なからず先見の明があった例には事欠かないのだ。

オリンピックなんかやめてしまえ

Giordano Bruno

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かつて古代ギリシャでは競技会を開き運動能力を競い合った。それから何千年もたった20世紀、これを復活させようとしたのは、スポーツの持つ人間性をたたえるためだった。

したがって最初のうちはアマチュアに出場を限定していたのも、純粋にスポーツを楽しむことを主眼においていたからである。それがいつしか金メダルをとることが国家の威厳の発揚の場になってしまった。特に第2次世界大戦後、冷戦による東西対立の中ではスポーツ面での優位が軍事や経済に劣らず重視された。

結局のところ本当の意味でアマチュアが尊重されたのはごく最初の大会の時期だけで、ヒットラーの宣伝に利用され、その後社会主義国でのスポーツ選手は「国家公務員」となり、資本主義国ではスポーツの練習に時間を割くことのできる富裕層に限られるようになってしまった。

ベルリンの壁が崩れてからはプロ選手の参入が認められるようになったが、これが現代のオリンピックの原形をなしている。それでも「白い恋人たち」のような映画を見るとまだまだ選手たちの服装も地味で人体の動きのすばらしさを撮影する魅力を発揮していたといってよい。

それがいつのことだろうか。選手たちは広告塔になった。なるほど富裕層でなくとも才能さえあればスポンサーがついて彼らは練習に専念するだけの時間と金をふんだんに与えられる。だが一方では援助してくれる企業の広報マンになり果ててしまった。

商業主義が全世界を毒しているが、スポーツの世界ほどそれが露わになっているところはないだろう。そしてサッカーや野球での想像を絶する契約金や報酬の額は、貧しい生まれから脱出する唯一の方法として世界中の運動を得意とする若者の憧れの的となっている。

21世紀に入り新自由主義とグローバル化の波はこれらを一気に不自然で拝金主義への流れをもたらした。もはや選手たちの頭にあることは金メダルによる栄誉を手に入れることよりもそれによって保証される裕福な生活である。

金儲けがすべての世の中にあっては、スポーツも投資の一つとなった。企業が選手を養成するのは自分の売る製品の売り上げを増すためであり、開催国や放送局は、放映権のために巨額の金を動かす。知名度を増すことを望む企業は大会にスポンサー企業として名乗りを上げ、会場の至る所に自分たちのロゴマークを張り付ける。

開催都市はオリンピックによって必ず利潤を生むように全体を企画する。また地下鉄や競技場の建設によって業者が潤い彼らとの癒着によって市の当局者たちも大いに収入を増やす。多くの場合競技場は開催後はさほど利用されず維持費だけがお荷物になるのだが。

選手たちの個人的生活はすっかり犠牲にされ小さい頃からの特訓だけを受けた生活は人格をゆがめ、世間知らずの守銭奴を多く作り出した。彼らには筋肉増強剤の服用がどんな結果をもたらすかも、それが自分の人生にとってどんな意味を持つかを判定する哲学もない。多くはスポンサーの繰り人形である。

特にこれらは水泳、陸上などの花形競技に著しい。そしてオリンピックは、ますますナショナリズムを高揚させるための道具ともなっている。「ニッポン勝った、ニッポン勝った」と絶叫するスポーツアナウンサーのヒステリックな声を聞くがいい。そこでは人間の肉体の限界を破ったことへの畏怖はまったく姿を消し、小学校の運動会なみの勝ち負けだけにだけ関心が集まる。

現代社会はどこも貧富の差が激しくなっていることが指摘されているが、スポーツの世界では運動をする人間としない人間の間の格差があまりに著しく開いてしまってきている。超人的な運動能力を誇る選手が小さい頃から養成される一方で、一日中ほとんどカロリーを消費しない生活を送りテレビで観戦することが唯一の楽しみである人々がどんどん増えている。

スーパーマンとメタボリックの両方が社会の中に厳然と存在し、日常生活にスポーツを取り入れてそれを生活の一部として愉しむという方向には決して進んでいない。アメリカでの肥満者の数は銃の所持や犯罪者の増加と並び今や社会の存立を脅かしている。

オリンピックでの活躍はかつてはその種目の注目度を集め、新たにそれを始める人々を増やす原因になったものだ。だが今は違う。人々はまったく自分とは関係のない世界のできごととしてテレビの画面を見つめている。選手と一般人との間の能力の乖離(かいり)が進みすぎ、お互いの行き来がまったく不可能になりつつある。

古代ローマでは「パンと見せ物」を大衆にあてがっておけば世の中が安泰だと言われていたようだが、現代では文明国では同じことが地球規模で行われている。中国に代表される開発途上国はオリンピックを開催したことで世界の重要なメンバーとして認められることを目指している。自国の金メダル数が、国民を統一させ一体感を持たせるのに利用されているのだ。

大企業が次々と参入し巨大化があまりに進んだためもはやその流れをコントロールすることがもはや不可能になった。それでも開催国として名乗りをあげる都市が後を絶たない。商業的な利用のみに進む方向はこれからも止まることはないだろう。

そもそもいったいどうして一つの都市であらゆる種目を集中してやる必要があるのか?テニスのウインブルドンや、サッカーのワールドカップのようにそれぞれの種目を別々の場所でやったほうが、それぞれの地域が注目を浴びて巨大企業の入り込む余地は少なくなる。地方都市で分散してやることにより開催都市への設備の極端な集中を避けることもできる。

オリンピックは人類の祭典だというが、多国籍企業や金融シンジケートと同じくあまりの巨大化、複雑化は弊害のみが大きく、その度合いももはや許容できないレベルに達していると言えよう。

2007年10月初稿

そうこうしているうちに、東京は2016年のオリンピックとし候補に落選した。まことに喜ばしいことだ。世界には決定したリオ・ジャネイロのように若者の数が多く、これから経済成長をめざしているいる国がうごめいているから、まずそれらの国々が開催したいと思うのは当然だろう。

これらの国々は、あの北京大会のときのように、上で述べたようなオリンピックの弊害に気をとめることもなく、勢いだけで社会の他の部分を犠牲にしてまでもオリンピックの実現を図るだろう。

2009年10月追加

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