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その日の新聞やラジオ、インターネットで得た情報についての社会的、政治的コメントを伝える。We comment on the subjects obtained by newspapers, radios and internet.

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  1. 薬の過剰摂取
  2. なぜ少子化が悪いのか
  3. 日本人の賃金は永久に上がらない
  4. 安部 組長 射殺
 

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薬の過剰摂取2023/12/23Overdosing

昔はシンナー遊び、今は咳止め薬。子供たちの現実からの逃避はとどまるところを知らない。日本は麻薬の取り締まりが非常に厳しいので、アメリカ合衆国などと比べるとはるかに常習者が少ない。だが、それは麻薬を求めている者たちが少ないということを意味しない。

銃の規制についてもそうだ。日本は銃をはじめとする武器の使用が飛び切り厳しく管理されているから、世界の標準からすると大変治安のいい国だということになっているが、それは表向きのことである。日本では犯人たちは仕方なく?銃ではなくナイフを代わりに使って自分の犯行を実行に移そうとしている。

国民には、麻薬を思いっきり服用したいと思っている人々が大勢いるし、急速に増加している。また武器を持って大勢を殺したいと思っている人もいるにはいるのだが隠れて見えないだけだ。社会は病んでいるのに、それが犯罪率にはっきり表れている国もあれば、日本のように隠れて見えない国もあるのだ。

最近話題になっているのが、若年層が咳止め薬を買い求めるケースが増えている現象だ。この薬を大量に飲む。それによって疑似的な幻覚状態を引き起こすわけだが、その行動はSNSを通じて急速に模倣されるから、日本中にそれが広がっている。

メディアと行政がこの種の問題に接する時は、まず薬屋が対面で若者に咳止め薬を売るときはチェックを強化することを求める。そしてまた自由に買える環境を変えて、買いにくくする手段を講じることを提案している。なるほどそれは当然の打つ手だと言えそうだ。

だがそこには根本的な問題が問われていない。それはなぜ子供たちが幻覚状態や恍惚状態を求めているかということだ。そこまで踏み込んだメディアも行政も極めてまれだし、そこに足を突っ込むと重大な問題に突き当たることを恐れているようだ。この国では本質的な問題に対峙することは極端に嫌われる。

我々は次から次へと飛び出す社会問題に対して、本質的な部分に目を向ける態度を失いかけているようだ。それはあまりにも解決すべき問題が多すぎ、徒労感だけが先行するためかもしれない。だが、少なくとも問題の核心を手探りでも見つけようとすることが必要だ。

人類と、麻薬など酩酊を誘う薬物との歴史は長い。アメリカの禁酒法の時代の記録を読むと、いかに禁止しようとしても抜け道を見つけられ、酒の管理が骨抜きになってしまったことがよくわかる。また、それまで文明にさらされていなかったアメリカ原住民らに酒の味を覚えさせると、手のつけられない状態にまでアル中が広まってしまうことも聞いている。

これはひとえに自分の生きる現実が楽しいものではなく、どちらかと言えば苦痛に満ちたものだという認識に始まっている。そして酩酊状態に入ることによって、その現実を忘れ、まるでパラダイスに入ったかのような状態に一時的にでもなれるということなのだ。

人間をはじめとして生物が外界という環境と格闘し、そこで生き延びるための活動をおこなうのが最もあるべき姿であるという考え方からすれば、薬物に逃避するのはうしろ向きの姿勢だと考える人も大勢いるが、実際の人類は”できることなら”外界との闘争なしに済ませたいという本性が巣くっているのだろう。

では咳止め薬を多量に飲む子供たちに対してもそのような考えを適用するのはどうだろうか。そのような子供たちが社会全体から見ればごく一部にすぎないからして、彼らは弱く抵抗力がないのだと決めつけるのはやさしい。人間は”個人差”が非常に大きく、一生毎日たばこを飲み続けても何の問題もない人もいれば、ごく微量のたばこの煙でも肺がんを発症する人もいる。

咳止め薬で酩酊したいという子供は、このたばこでいえば後者に属する人々だ。つまり環境にある何かに非常に敏感に反応しているのだと言える。炭坑内に吊り下げられたカゴに入ったカナリアはほんのわずかな空気の異変を感じ取るから、昔から炭鉱夫の働く穴の中に置かれてきた。これで一酸化炭素中毒や炭坑爆発を未然に防止できたことも数多くあった。

この子供たちは我々に何を警告しようとしているのだろう?もしかしたら重大な危機がそこにひそんでいることを示すシグナルかもしれない。これこそ我々に課せられた“本質の研究”であろう。わたしの仮説は次のようなものだ。

子供たちからすると、『自分たちは非常につまらない、生きづらい世の中に頼みもしないのに産み落とされた。人々を競争に駆り立て、勝者と敗者に無理やり分け、途方もない格差を作り出し、その格差から脱出することは絶望的に困難な環境に自分たちは置かれている。それで苦しみのない状態に逃避するのが何が悪いのか?』といっているのかもしれない。

もしこの仮説を検証することができて、それが間違っていないとすれば、この世の中を動かしている人々にとっては重大な責任を負わないといけないことになる。また社会のシステムそのものが今の状態では全く持続不能だということになろう。

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なぜ少子化が悪いのか2023/07/27What is wrong with declining birthrate?

岸田首相が「異次元の少子化対策」を打ち出してから日本の人口減少の問題が急に表面化し、多くの懸念が将来の人口動態について考えが述べられている。

現在においてこれほど減ることは、20年ぐらい前から人口の研究者たちによって予測されていたことではあった。政治家たちの重い腰が問題についての議論の開始を遅滞させたのである。

まずほとんどの人々の考えていることは、人口減少が国力の減少、経済力の低下と結びついていると固く信じて疑わないことだ。人口減少を歓迎する考えはほとんど聞かれない。

これは人々の考えの中に明治以来の「富国強兵」の思想が染みついているためではないだろうか。人口が少ないのでは強い軍隊ができない、どんどん戦死してもその補充が追い付かない、といったような考えが明治大正昭和平成令和を通じて変わっていないことが感じられる。

いま日本中を旅すると、人口のもともと少ない地域では小中高の閉校が当たり前になっている。町並みは人影がなく、かつての商店は皆シャッターを下ろしている。人々は交通機関が相次いで廃止されるものだから、自家用車がなければ生活していけないし、そのあおりを食って日常生活の物資を買い求めるための店はますます自宅から遠くになっている。

そのような状況を見ると誰でも国が衰弱していると感じてしまう。でも本当にそうだろうか?明治維新の時、日本の人口は約三千万人だった。だが、江戸時代における移動の自由制限もあって、どこの地域にもまんべんなく人々が住んで、それぞれ独立した国家のように社会生活が成立していた。各藩を回った松尾芭蕉や伊能忠敬は地方の多様性に驚嘆の言葉を述べている。

飢饉のような緊急事態を除いては、自由に自分の住居を決定できない状態は自給自足を高め、それぞれが独自の文化圏を作っていた。それが明治維新を境にして大都市への集中が始まったのである。

ちょっと信じられないようだが、明治時代にはそれぞれの地域に鉄道が敷設され、それぞれの経済が自立して回っていた。掘っ立て小屋のような店があってもそれで商売は成立して、貧しいながらもなんとか食べていくことができたのである。どこの村や町でも独自の祭りがあり、大勢の人々が祭り見物や参加をするために集まり、大いににぎわっていた。

今の過疎地帯と比べるとどうだろう?当時は三千万人しかいなかった。現在は減少が始まっていてもまだ一億二千万人を切ってはいない。それなのにその寂れ方はどうしてなのか?

その答えは誰でも知っている。高齢化だ。高齢者には店を開いたり、祭りを開催したりするエネルギーはない。明治時代から終戦後に至るまで、どこの田舎でも子供にあふれていた。

もうこの衰退の原因は人口減少なんかではなく、少数の大都市への異常集中であることがはっきりしている。世界中にはニュージーランドやフィンランドのように三百万人をちょっと超えたぐらいでもエネルギッシュな国がいくらでもある。ところが日本における東京への、首都圏への人口の偏りは地方を疲弊させ、それでもなお若者を吸い上げる流れは止まらない。

大都市への人口集中は世界中で起こっていることだけれども、日本の場合はそれに加えて人口減少の勢いが最も強いので、地方における社会の崩壊が猛スピードで迫っている。

では政治家たちが主張しているように、たくさんの子供を産めばその問題は解決するのか?少子化対策が仮に成功したとしても、地方で生まれた子供たちは今まで通りに大都市へ流れていくだろう。何しろ地域には就職先がそもそもないのだから。

そしてますます深刻になる人手不足を解消するために子供の数を増やそうという考えも、そもそも今、人手が足りなくて仕事が続けられない企業にとっては到底間に合わない。仮に人口が増えて人手不足が解消したとしてもすぐ近い将来にAIがどんな仕事も引き受けてくれる世界が待っているのだから、逆に人が余って大幅な人員整理をしなければならないことになる。

次に、政治家が提唱する出生数増加のための対策は果たして効果があるのだろうか?その対策というのは人口増加がみられるフランスなどのやり方に見習って、手厚い経済的援助の増強が中心である。子供が生まれた時の補助から始まって、大学の授業料免除に至る経済的不安を取り除くことが少子化をくいとめるのに有効だと信じているようだ。

しかし経済的に安心できれば子供は増えるのか?確かに子供を熱望している夫婦には朗報だろう。ここで思い出したいのは戦後のベビーブームである。1945年、復員した夫たちが妻と生活を始めた途端、突然出生数が爆発的に増えた。多くの人々が餓死の危険にさらされ、配給の食物でさえ十分に食べられず、住居はトタン屋根のバラックだった時代にである。

これを見てわかるのは出生数の増加は経済的安心以外の何か大事な要因が働いているのではないかということだ。終戦直後には著しく失われた人命を補充しようという力が働いた。自分たちの産んだ子供の教育環境、生育環境がいかに不透明であっても、産めよ増やせよという自然からの命令を人々は無意識のうちに聞いていたのである。

ひとたび日本が高度成長時代に入ると、生活は安定し向上したが、すでにそのころころから終戦直後のころの急激な人口増加は収まっていた。そしてゆっくりとした少子化が始まったのである。

自然界では生態系の底辺に位置する、死亡率の飛び切り高いイワシ、サンマ、ニシンの類は途方もない数の卵を産み、その種族を維持している。万が一彼らが少子化の道をたどったら、あっという間にこの地球から姿を消してしまうであろう。一方では生態系の頂点に立つ、ライオンや猛禽の類は誰でも知っている通り、生まれる子供の数は少ない。これがもし大量に子供を産んだら、そのエサになる生き物たちはたちまちいなくなってしまう。

人類はさらにその上に立つ生物であるから、数を少なく生むのが当然であり、それをしなければ地球環境がダメになってしまう。となると現代において人口を増やさないようにという自然の力が働いているのは当然のことだ。その無言の圧力はあらゆる方面に働いている。

最近、「子供がうるさい」という人々が増えた。公園や保育園で歓声を上げる子供たちの声が我慢できないという。そういうクレームをだすのは多くが高齢者であるが、子供を忌避する傾向は最近までなかった。少なくとも表向きは。

働き続けてもらうため勤務先から避妊を求められたというニュースがあった。これはマタハラどころではなく、完璧な人権侵害であるが、ここまで社会の風潮は反子ども化しているのである。

女性は「ついにあなたは家事労働から解放され、社会参加ができるようになった」とおだてられ、それまでは”奴隷労働”は男性のみだったのが、自分たちも付け加えられたことに少しも気づかず、労働も育児も同時にできるはずだ信じてやってきたが、毎日の生活はヘトヘトになって過ぎてゆく。託児所ができる場解決する問題ではない。そして女性労働者の大部分は非正規である。搾取構造は70年前と比べるとはるかに露骨になっている。

最近「セックスレス」という言葉をよく聞く。夫婦になっても心理的依存関係だけで、肉体的交渉がない状態が増えているという。かつてのように性欲だけがエネルギーのはけ口となる時代は去り、ある程度の裕福さを達成できた時にはほかにいろいろなことにエネルギーを注ぎ込む傾向が増えてきたことを示している。かつては夏の海岸の松林で繰り広げられた汗まみれの性交シーンは冷めた目で見られるようになった。これも人口を増やさないようにという自然の力の現れである。

さらに政治家たちが、そして経済評論家たちがまるで忘れていることがある。それは世界の人口が80億を超えているという事態だ。このことに何の反応も示さないとすれば、未来の人類社会などまるで関心がないということになろう。それとも技術的進歩によって人口過剰の問題は解決できると信じているのだろうか?

この地球が許容できる人間の数は20億である(諸説あり)。これを越えると誰でも知っているように気候変動が起こり、今現在進行中の他の生物の大量絶滅が始まる。1914年、第一次世界大戦の始まった年には20億であった。それが今はその4倍を超えている。これを現実としてとらえることの困難な人は、20人で1台のタクシーに乗ってみるがいい。

せんだって私は友人3人とともにタクシーに乗った。運転手を合わせて5人であるが、それが法制上ぎりぎりの定員である。目的地に着くまで、荷物もあったので、身動き一つできなかった。そのタクシーにあと16人が「乗せてくれ!」と飛び込んでくることを想像してほしい!終戦直後の混乱期にはそんなことがあっただろうが。

この80億という壮絶な事態に、人々が何の危機感を抱かないのは、一つにマスメディアが強調しないことがあり、また急にそれを減らすことはかなわないからに他ならない。ある学者は陸地をすべて農地にすれば問題なく人類を養うことができると言っている。まさに狂気である。

80億が20億になれば、今の消費の実態のままでもエネルギー消費や二酸化炭素の排出を四分の一に減らせる。だからと言って垂れ流しや浪費を奨励しているわけではないが、人間が一人生活するには一定のエネルギーが必要で、汚染物を排出するのは避けられないのだから、EVやら太陽光発電やらを考えなくとも、新たな原発を建設しなくともエネルギー問題に対処できる。

さてその先の問題は80億から20億へどうやって減らせばよいかである。100年かかったのでは人類の絶滅が先に来てしまう。すでに22世紀は存在しないと断言する人もいる。

20億に減らす方法として、「核戦争」、「伝染病」、「強制自殺」、「奨励自殺」、「虐殺」、「餓死」、「断種」、「間引き」などを望む人はいないだろう(大部分の権力者たちを除いて!!!)だが好むと好まざるにかかわらず、それが現実になる可能性もある。「他の惑星への移住」ができるに越したことはないが…誰が希望するのか、それとも強制されるのか?

だからこそ自然の力による少子化は今述べたすべての方法と比較して痛みの最も少ない方法であり、人類が22世紀を越えて生き延びたいのなら必ず実行しなければならないのだ。自然の力に逆らわず、人類がゆっくりとした人口減少(すでに世界各地でその兆候は出ているが)に入れば、最も悲惨な状況(熱波による大量死や、大洪水や山崩れによる大量死)を避けることができるかもしれない。

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減りゆく人口を補うのは外国からの移民である。ご存知の通り日本は難民、移民に対して少しも友好的ではない。人々はアメリカ合衆国の人種差別を非難するが、日本はそもそも自分の国の中に外国人を入れて住まわせようとしない。日本人は全くコスモポリタンでない。完全に引きこもりの田舎者なのだ。

コップの水に砂糖を投入すると、数分後には溶けてどの部分にも均一に砂糖が存在するようになる。人間はすべて現在のエチオピアのある所から世界中に広まった。それを国境などという愚かなシステムによって移動を妨げるべきではないのだ。

根室半島の納沙布岬に立つと、択捉(えとろふ)島あたりからやってきたカモメたちが餌をあさっている。そしてこちらをじっと見つめている。国境によって自らの自由を明け渡している人類をあざ笑っているようだ。

すべての世界中の移民は自分の行きたいところに行けるようにすべきだ。それにより少子化によって行き詰まる国は消滅する。パリの街角のように、(現実には差別や格差はなくなっていないが)世界中のあらゆる人々が闊歩しているような状況を日本にも作らなければならない。つまらない偏狭な国粋主義や民族主義など捨てて。誰が言ったにせよ「人類は皆兄弟」なのである。

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日本人の賃金は永久に上がらない2023/04/17There will be no pay raise in Japan

毎年春になると春闘が行われる。各労働組合はそれぞれの要求額を掲げて交渉に臨む。多くはそれで合意が行われ、賃上げは予定通りに妥結することになる。

日本の労働組合は欧米と違って産業別組合は極めてまれで、ほとんどが企業別に組合が組織されている。このため”共通目標”があっても、実際には個別にそれぞれの組合が自分たちの雇い主と交渉をすることになる。

労働者が会社に就職すると、ほとんどが自動的に組合加盟となるところでは、初めから組合費が徴収され、労働者たちの手の届かないところで“幹部”が会社の上層部と交渉をする。

だが、長年同じ形態をとり幹部たちはいつの間にか役員として取り込まれるか、少なくとも高給をとれる地位につく。それは会社が彼らを手なずけているからだ。幹部たちは会社の意向に背いたりはしない。

あらかじめ昇給の限度額を知らされており、いわゆる“要求額”はその範囲内になることに決まっている。従って突き詰めた話し合いはなく、ましてや労使の対立が表面化するわけもなく、何事もなく春闘は終了する。

企業は「人件費」を取り除くべきコストとみなしている。これは今も昔も変わらない。それに反抗する労働者は昔は簡単に除去されるか、投獄されるか、悪くすれば殺された。

現代ではそのようなあからさまな事件はあまり聞かれなくなっている。もちろん、産業別組合を作ろうとすれば、会社は容赦しない。だが、なれ合いの労使関係なら、うやむやのうちに賃金は低く抑えられたままになる。不満はあるが、くすぶるだけだ。

このようなわけで、日本は先進諸国の中でこの10年をとってみると最も賃金の引き上げ率が低い。アメリカ合衆国もフランス、ドイツ、イギリスも決して好景気というわけではないが、それでも日本を上回る賃上げを勝ち取っている。

日本は景気のどん底で、倒産が相次いでいるのであろうか?いや、そうではない。経済成長はほとんどないけれども別に経済崩壊の瀬戸際にあるわけでもない。会社の内部留保は年々増えるばかりだ。

なぜこのように日本の賃金は低く抑えられたままなのか?それは日本の労働者がストライキをしないからだ。労働者たちはストライキをすることは”違法な反社会的行為”だと信じている、いや信じさせられている。ただ、政府が賃上げ勧告を企業にしてくれるのを指をくわえて待っているだけだ。

ウクライナでの戦争やコロナによる経済の鈍化は世界中にインフレと生活苦をもたらした。イギリスでもフランスでもストライキはいたるところで起こっている。給料を渡す側が賃上げを渋るのであれば、ストライキで対抗するのが当然である。

だからこそ西欧ではそれなりに賃上げが行われた。いわゆる力関係であり、労働者が仕事を拒否すれば雇用側は譲歩せざるを得ない。また、これらの国々では労使闘争の長い歴史がある。組合には交渉のベテランがいる。

これに対して日本ではどうだろうか。なんといっても同調圧力が強すぎてストライキをすることが真っ先に自分たちの企業を陥れるというふうに洗脳されている。つまり労働者自身の頭の中にストライキは罪悪だと内面化されているのだ。

「働かざるもの食うべからず」「女も社会に進出して共稼ぎしよう」「24時間頑張れますか?」というような標語は模範的な考えとして、すっかり労働者の頭にしみついており、それが企業側にとって誠に都合のいい考えであることに労働者たちは気づかない。

さらに、日本の労働者にはストライキを行う気力も、そして最も大切な団結力、連帯感がまるで欠けていることが特徴的である。大正時代を振り返ってみると各地でストライキが頻発して、警察や軍隊による弾圧で多くの人々が死傷した。それでも戦時体制に入るまではかなり辛抱強く、「蟹工船」にもあるように各地で続いた。

戦後もGHQのもとで奇跡的にも「労働三法」が成立して、一時的にストライキは増加した。しかし冷戦の開始と高度成長期のもたらす自然の賃上げがあって、ストライキは先細りになった。

しかも公務員はストライキをしていけないなどの足かせが次々とくわえられていく。国鉄はそれでも盛んにストライキを行う時期があったが、“民営化”の名前で私企業化すると、それは労働運動のベテランを永久に労働界から追放する絶好のチャンスとなった。

現在、大企業は業種にもよるが比較的賃金の上がり方は良い方だ。というのもグローバル化により、外国人の高給取りを手に入れるためには日本人の社員を低いままにしておくわけにもいかないし、自分たちの会社のイメージが”安月給でこき使われる”では困るからだ。

だが、日本の労働者の大半は中小企業に依存している。政府は中小企業に対するきめ細かい援助を行わない。大部分の中小企業は大企業の下請けで、搾り取られるだけ搾り取られている。そのため中小企業には「昇給するゆとりがまったくない」という言い訳が成り立つわけだ。

だが、それを真に受けていたのでは決して給料が上がることはない。ただ、企業別組合のままでは強硬なストライキを決行すると間違いなくつぶれる。ここでは業種別での組合の結成が何よりも求められ、大企業からの下請けにおける圧力をはねのけない限り、賃上げの可能性はないのだ。

悲観的な見方になってしまうが、新自由主義のもたらす際限のない競争は労働者たちの賃金を最小限に切り詰め、労働時間を最大限に伸ばす方向しか可能性にない。日本の労働者たちは、将来自分たちが低賃金で過労で死ぬ前に何をすべきかもっとまともに考えるべきなのだ。

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安部 組長 射殺  2022/07/12A Group Leader Shot Dead

元総理大臣が暴漢によって射殺された。この事件ですぐに思い出されたのが戦後の十数年にわたる西日本での激しい暴力団同士の抗争による組長射殺である。現在では警察の取り締まりが徹底したおかげでそのような事件は激減したが、政治家たちとマフィアとの間の類似点がよく表れていて興味深い。

政治家の暗殺事件は昔から極めて多かった。ローマ帝国のシーザーがブルータスにより刺殺されたのは多くの小説や演劇の題材となった。初代総理大臣伊藤博文はハルビン駅で撃たれた。戦後の社会党委員長の浅沼稲次郎は壇上で刺殺された。韓国の朴大統領はまず夫人が殺され、そのあとで自身も殺された。アメリカ合衆国ではリンカーン大統領とケネディ大統領の事件が有名である。

ヒットラーは42回も暗殺を企てられたが、いずれも失敗した。フランスのドゴール大統領の暗殺は未遂に終わったが、「ジャッカルの日」という小説で国際的にあまりにも有名になった。イスラエルのラビン首相、インドのインデラガンジー首相もその長男のラジーブも暗殺された。

現代では徹底的な警備体制が完ぺきに近いといえるが、それでもどこかにちょっとした気のゆるみがあるものである。一般人と違い、国民の前に身をさらすためにその動向が丸見えになってしまうことが暗殺の最大の誘因であるといえるが、人間社会における権力者の傲慢で場違いな振る舞いが、最終的に不幸な結果を生むことになる。つまり、起こるべくして起こったのだ。 さらに実際の下手人のことよりも、暗殺されたことによる社会への短期的長期的インパクトに注目する必要がある。それが歴史の進む方向を変える場合もあるのだ。

歴史を学んでいる限り、「賢明なる君主」などというものは存在しないことがわかる。その治世の間、誰でも散々ひどい目にあって二度とこんな目にはあうまいと思う。リーダーは小集団の場合、危機を救い敵の攻撃から守ってきた。そのリーダーが国家規模で大きな統率力を持ち合わせている場合には、同然のことながら部下たちの従属を引き起こす。したがって暗殺の持つ社会的機能は単なる“犯罪”だけとはいいがたい。大きな社会的転換、場合によっては混乱を、そして場合によっては戦争の中止や社会的進歩さえももたらすこともあるのだ。

リーダーの存在は人類社会にだけあるのではない。群れを作る動物、例えばオオカミやその子孫である「そり引き犬」の場合、群れからリーダーを取り除くと、たちまち“部下”たちの行動は支離滅裂となる(NHK歴史探偵「タロジロ物語」より)。これはリーダーと部下との間には、大きな能力の差があることを表している。部下たちは非常事態に対処することができないし、こと集団内の統率に関してはまったくの“ぼんくら”なのだ。

「動物行動学」の成果は、最近の電子機器や撮影機材の発達でどんどん驚くべき事実、思いもかけぬ真相が明らかになっているが、その成果を人間の歴史に当てはめてみると、人類の呪われた本性が明らかになってくる。例えば戦争では必ず起こる「虐殺」であるが、これは自然発生的に起きているのだろうか?

普段の生活の中で虐殺の性質をむき出しにする個人は少ない。だが戦闘の状況下では、リーダーのひと言が火付け役になって、たちまち野火のように広がっていき、ちょうど山火事のように、いったん発生するとそれをだれも止めようがなくなる。リーダーを含めて誰もコントロールできなくなる。つまりそり引き犬と同じ状態が現出する。

残念ながら、人類はその歴史の中で繰り返し起こった数々の悲劇を記憶していない。というよりは強制的に忘却させられている。このため、世代が交代すると平和が続いた後の退屈しのぎもあって、若い世代が自ら望んで戦場に出かけていくことになるのだ。昔から言われているような「戦場に駆り出される」という表現は正確ではない。それは戦況が悪化して人々の間に厭戦気分が蔓延してからの話で、戦争の発端ではみんなが敵をやっつけることに熱意を燃やしている。 田中角栄も「戦争を体験した我々がいなくなった後の日本が暴走するのではないか?」と言っていた。

人間の場合、社会構造が複雑なだけにリーダーが”強権的”だとどうなるだろうか?強権的なリーダーの元では、部下たちが気に入ってもらおうと互いに熾烈な競争を繰り返す。これは当のリーダーにとっては大変都合のいい事態であるが、誰も全体のことではなく、自分とリーダーとの利益になる関係だけに執着するため、組織全体が近視眼的になり、硬直していく。トップに目をつけてもらい、競争相手を打ち負かすには、それまでの方法ではだめで、もっと劇的な展開を生じさせなければならない。かくして組織内の動きは先鋭化して極端な方向へ向かっていく。

そのような最中にリーダーが突然死去した場合はどうなるだろうか?副リーダーがいればうまく収まると考えられるだろうが、トップのリーダーは副リーダーが有能であることを好まない。なぜならば自分と近いレベルの能力を持っていると、早晩副リーダーに乗っ取られてしまうリスクが増大するからだ。だから副リーダーに選ばれる者はトップのリーダーと比べるとかなり見劣りする。

そのような状況でトップがこの世を去ると何が起こるだろうか?それはアレクサンダー大王やジンギスカンの死去を見ればよく分かる。たちまちのうちに組織は瓦解するのである。それまで熾烈な競争を行い、トップの元でかろうじてつながっていた者同士が、たちまち敵同士となり、それまでトップが持っていた統率力が誰にもないまま、小さな集団に分かれて争いを開始するのである。このパターンはアレクサンダーの王国でも九州の暴力団でも同じ様相を見せる。なぜな両者の違いは規模の違いにすぎないからである。

プーチン、習近平、金正恩、いずれも同じ運命が彼らの国には待ち受けている。さて、こうなると今回の元総理大臣の死去はどのような結果を生み出すだろうか?戦後最長の長期政権を担当してきただけに、強権的な手法で与党内を治めてきた。しかも総理大臣をやめた後も、引き続き背後で強力な影響力を行使してきた。このため党内の幹部たちは表向きに協調しているように見えながら、統率力もないままに、互いに陰湿な権力闘争に走るのは確実である。

しかしそれは暗い将来をうかがわせるシナリオだろうか?いや、決してそんなことはない。長期政権による腐敗、そして国民の隅々にまで浸透した”忖度”を一掃するチャンスでもある。政治の硬直化を解決する千載一遇の機会だ。 これまで遅滞していた、元総理の犯罪や、犯罪へのかかわりの調査がずっとスムーズに行える可能性がある。もうブレーキをかける人は少ない。

残念ながら日本国民にはそり引き犬にも劣るぼんくらが多い。言い換えれば極端なお人よしだ。さらにマスクの着用率を見てわかる通り「同調圧力」が異常に作用する。すでに死者に対して勲章を授与したり、メディアによる美談がたくさんばらまかれている。日本の経済的援助を期待する外国の高官たちが"外交辞令“を連発するのは当然としても、すでにこの世を去り影響力がなくなったはずの人物をこれ以上持ち上げるのは今後のオープンな社会を築き上げるのには重大な障害となる。

また、これでもはや忖度する必要がないのだから、警察や検察は、これまでうやむやにされてきた数々の事件を一気に、そして公明正大に解決してもらいたいものだ。田中角栄のロッキード事件は”首相の犯罪”として騒がれたが、数多くの妨害にもかかわらず本人の存命中に判決を下すことができた。今回は捜査の邪魔をするものがないのだから一刻も早く解決を目指してもらいたい。

暗殺を実行した犯人についてはともかく、好ましくない権力をふるった一人の人間がこの世から姿を消したのだから、実に喜ばしい。残った政界”実力”者たちが、身を削る競争を行い、勢力をそがれ、よりオープンで前向きの社会が出来上がっていくことを期待する。間違っても国葬などにはしないでほしいものだ。吉田茂が国葬になったが、あまりにレベルが違いすぎる。でも多分周りの取り巻きはやろうとするだろう。日本はそういう国なのだ。誰も反対しない。

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