一般書・ベスト(1) |
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PAGE 1 太平洋ひとりぼっち 緑色革命 ネコと魚の出会い どくとるマンボウ航海記 パパラギ 何でも見てやろう 裸のサル ハーレムの熱い日々 福岡正信(しょうしん)著 春秋社 本文の目次
解説 この本が出版され、各国語(英語名; One-straw Revolution )に翻訳されるようになったのは、福岡氏が、数少ない「ユニーク」な日本人だからにほかならない。そしてその哲学の発想は禅の思想に似たところがあり、雨が多く、草深い日本の風土が生み出した、いかにも日本的な人物であるとも言えるのだ。しかもその人気は日本国内より、海外で大きい。日本の集団主義では大きすぎてはまらないのだ。小沢征爾、オノヨーコ、中松義郎、みなそうだ。 著者は自然農法を提唱する人だ。土を耕さないとか、肥料を使わないとか、種を粘土団子にしてばらまくとか、剪定をしないで自然に枝を伸ばさせるとか、技術面ではいろいろおもしろいことが書いてあるが、もっとも感銘深いのはとれた作物は人間だけで独占せず、鳥に喰わせる分も残しておこうという、この農法の精神なのだ。この考えでは、除草剤とか農薬の発想がでるわけがないではないか! タイトルの「わら」とは米を作ったあとにできたわらを次の年の生育のために、収穫後にばらまいて、再び土に戻すことを示す。まさに「循環」プラス「太陽の恵み」を象徴したのがこのわらなのだ。 「無」の精神については釈迦もキリストも同じことを言っている。欲を持たず、短い人生を流れるままに豊かに生きて行けばいい、というごく簡単な原理なのだ。福岡氏はそれを実に悠々とやってのけている。この点ではインドの「聖者」と共通するところがあり、自然の中で逆らわずに生きてゆくというのは何も努力がいらないことなのだ。 「なるべく何もしないでも作物が育つようにと心がけていたら、自然農法が生まれたという。もっともこれを編み出すために、本人は実験のために何でもしたらしいが。西洋人は彼のことを Do Nothing の男と呼んでいる。それでふと思い出したのは、ドリトル先生( Dr.Dolittle )のことだった。どちらも何もしない。自然になすがままだ。実によく似ている。 自然農法が生まれたのは著者の優れた感性だけではない。日本という、植物が育つには理想的な環境があったこともいえよう。高温多雨、常に草取りをしなければ、一面雑草だらけになるほど緑に恵まれた自然は世界中探してもそうざらにあるものではない。 熱帯林の土壌は以外にやせているが、我がニッポンの広葉樹林では、年がたてばたつほど、山が肥えてゆく。何もしなくても、植物同士の競争を適当に配慮すれば実に豊かな生産が見込める環境なのだ。 でも、その考えは、アラビアやアフリカの砂漠地帯でも受け入れられるようになった。本書のアメリカの旅にもあるけれども、巨大化したアメリカの農業を救う道は自然農法以外にないことに気づいた人々もいるのだ。少数派ではあるが。 この21世紀を導くのはグローバルな経済や消費主義や生産開発至上主義では決してない。それらはすでに滅びの道をまっしぐらに進んでいるだけだ。どういう発想が人類を救うのかは自明のことである。ただ、福岡氏はかなり悲観的であるが。 1999年7月作成 Hugh Lofting 著 井伏鱒二訳 岩波書店 本シリーズの構成
解説 ドリトル先生物語は児童文学の傑作です。と私は今までそう思っていました。確かに小学生高学年の頃、この物語のおもしろさはロビンソン・クルーソーやトム・ソーヤーとは違った魅力を持っていました。 動物語をしゃべれる医者という設定のこの物語は、ドリトル先生とそれを取り巻く動物たちの大冒険が描かれています。ところが、最近、「生命のよろこび」(高田宏著・新潮選書)という本を見つけ、この物語が単なる楽しい物語でないことを知りました。 ドリトルとはDo littleと書き、一見「ほとんど何もしない、ヤブ医者」ともとれますが、どうしてどうして、とても面倒見のよいお医者さんなのです。 さらに文春新書から「ドリトル先生の英国」(南條竹則著)というのも出ています。これは文中に出てきた、日本人にはなじみのない英国の風物を中心に解説した、いかにもファンが書いた本です。 また、エディ・マーフィー主演の映画化は、「アフリカ行き」をもとにしているものの舞台が現代になってしまい、妻も子供もいるので、原作から離れすぎていますが、レックス・ハリスン主演のミュージカルは、「ドリトル先生航海記」をたたき台に作ってありましたが、若い女性が加わっています。 小学校で飼われているウサギが虐殺されるような殺伐としたこの世の中で、金儲けのためならブルドーザーで山を丸裸にしても一向に平気な神経の跋扈するこの「自由主義経済」の中で、見失われているものを再び見つけだすのにこの本は大変助けになることがわかったからです。 もう書かれてから、80年以上にもなるのに、ますますこの本の価値が高まってくるのは、一つに、自然を大切にする気持ちがあふれているからでしょう。彼はまさに元祖「環境保護主義者」だし、元祖「緑の党」でもあります。そしてその根本にあるのは、ブッダもキリストも唱えていたが後世の人々がすっかり忘れてしまっている「無欲」です。 ゼニ儲けにあくせくする人間を作りたくなかったら、子供たちのこの本の中の先生の言葉、「金なんかくよくよするな、どこかからまわり回ってくるものだ」というくだりを読ませたい。頭が2個ある不思議な動物「オシツオサレツ」をサーカスの見せ物にするとき、金儲けそっちのけで、この動物の気持ちを大切にする先生のやり方を見てほしい。 キツネ狩りを妨害するエピソードでは、まさにちょっと過激と言われている、現代の環境保護団体のやり方の原形だと思ってしまいます。また、アフリカのジャングルの中で、ひげ剃りを無くしてしまったドリトル先生は、ガラスのかけらを使ってひげを剃って臨機応変ぶりを示します。。(あんまりまねをしない方がいいでしょうが) シリーズの中では、浮島や巨大カタツムリが登場する「航海記」がなんといっても白眉ですが、動物語を学び、サルたちの疫病を治しにゆく「アフリカ行き」も見逃すことができません。全12冊はだいたい時間の流れに沿って書かれています。「緑のカナリア」と「楽しい家」だけが全体の流れとは別の話や短編を含んでいます。 航海記からあとのシリーズではトミー・スタビンズという名の少年が助手になってナレーターをつとめます。登場する動物たちは、ドリトル先生と一緒に暮らしている家族についてはどの物語にも必ず出てきます。 作者のヒュー・ロフティングという人は第1時世界大戦中に軍馬の悲惨な状況からこの話を思いついたそうですが、単なる動物愛護の話にとどまらず、ドリトル先生の持つひょうひょうとした性格と、シンプルなライフスタイルががなんと言ってもこの話の魅力なのではないでしょうか。 なお、日本語訳の担当者は元々作家である井伏鱒二氏によるものです。そのため、文章の流れが日本語としてすばらしく、少しも翻訳っぽいところがありません。先ほどの2つ頭の動物は、原文では pushmi pullyu ( push me pull you 原題「わたしを押せ、あなたを引っ張れ」?)といいますが、これを「オシツオサレツ」などと、うっかりすると昔からあるような気がしてしまいます。 なお、英語の原文も読みやすく、英語学習者には最適の教材です。まず翻訳をいったん全部読み、内容を覚えたあとで、原書を読むと辞書を引く手間がぐっと減り、効果が倍増します。また、あなたに小学生4年から中学1年ぐらいの子供がいれば、ぜひ読ませましょう。 1999年8月作成 梅棹忠夫著 岩波新書722 本文の目次
解説 いわゆる、論文の書き方、本の読み方、本を読んで自分のものとする方法、などは江戸時代の寺子屋以来の精神主義のせいか、あまり紹介されることはありませんでした。学者になるには修行を積むのが一番であり、勉強の「技術」などというものはない、という考えの人も多くいたようです。しかし、短い人生で、ただ何となく本を読み、自分の考えを特にもつでもなく、漫然と時間を過ごすことに耐えられない人は、この本を読むときっと大きな刺激を受けると思います。 私たちは普段の生活のなかで、気の利いたことを言ったり、すてきなアイディアがふっと断片的に頭の中を通り過ぎたりすることがありますが、多くはそのまま忘却の彼方に消え去ってしまうことが多いようです。梅棹氏は、常に発見のメモ帳を、そしてあとでまとめやすいように、カードを使ってアイディアを捕まえておく方法を具体化しました。これが第1章から第5章に至る話です。 ここで、「思いつき・ひらめき」を保存するという考え方は、最初から順序立てて体系的に知識の体系を作るのとは違い、ゲリラ的、ジャズ的、即興的なのです。それによってできたアイディアは、しばしば体系的なものよりも魅力的で、本質をついていることも多い。だから、知的活動に興味を持つ人が、その頭脳にひらめいたものを記録として取っておくことを実践すれば、きっとこの世は素晴らしいアイディアで満ちあふれるのではないでしょうか。 第6章の読書方法は、この本の白眉であり、本文の言葉を借りると、読書とは、「(自分の意見でないものを)言わないために読む」のです。本はその著者の創造の産物です。私たちは自分になかったものをそこから取り入れるほかに、知的活動をしている人は、自分の言説が他人の引用や二番煎じにならないために読んでおく必要があることをいっています。確かに特に文科系の論文では、参考文献と称して、やたらに引用をしているわけですが、梅棹氏はそれは自分の創造部分が少ないことを誇示しているようなものだ、ああ恥ずかしい!といっていますが、なるほどその通りではないでしょうか? 人に自分の論文を読んでもらうのに梅棹氏は、ひらがなタイプライターを薦めています。今はワープロとパソコンができたおかげで、この提案は完全に実現しましたが、30年前にもうこのレベルの考えをしていたわけですから、技術の進歩は梅棹氏の考えよりかなり後れていたといえましょう。 最後に原稿や文章の書き方を述べたあとで、梅棹氏は、このようなノウハウをまとめて大学でたとえば「情報科」を作ってみたらと提案しています。まさにこれも時代を先取りしたもので、その教授内容が「一定のレベル」に達しているかどうかはともかく、今至る所の大学に情報科があるではありませんか! 1999年9月作成 畠山重篤著 北斗出版 本文の目次
解説 著者の畠山氏は宮城県気仙沼市の東北、唐桑半島の付け根にある、舞根(もうね)という場所で牡蠣の養殖業を営んでいる。そこは二本の小川がそそぎ込む波静かな入り江だが、そのまわりのリアス式海岸、対岸にある大島(おおしま)との間にある大島瀬戸は魚の宝庫であった。その少年時代の思い出から書き始めたのが本書である。 多くの自然保護の啓蒙書と違い、この文章を読んでいると、著者が子供の頃から接してきた、自然の豊かさのすばらしさが直接に伝わってくる。そのような珍しい本だ。アメリカでいうと、レイチェル・カーソンの「The Sea Around Us われらを取り巻く海」が思い浮かぶだろうか。 畠山氏のことは小学館の雁屋哲、花咲アキラ両氏によるまんが、「美味しんぼ」(第46巻第2話「牡蠣の旬」で紹介されているのでご存じの方もあろう。ストーリーでは、牡蠣の旬が春であることを確かめに、山岡の一行が東北の海へ出かける。宮城県気仙沼は大きな湾になっていて、そこに大川をはじめとしていくつかの河川が流れ込んでいる。牡蠣の善し悪しは、河が上流から運んでくる栄養分を含んだ水で決まるのだ。 陸と海の境で育つすべての生物は川の運ぶ有機物で生きている。有機物のもとは森林だ。特に落葉樹から生じる無数のミネラルその他の物質が、海洋生物の欠かせない栄養になるのだ。だから、豊かな森林を誇っていた日本では昔、決して誇張でなく、「海が魚で白く波立つ」ほど沿岸の生物が豊かだったのだ。 現在、過度の伐採と、広葉樹の代わりに杉ばかりを全面的に植えた戦後の林野行政のせいで、沿岸の生き物はめっきり減ってしまい、それどころか、稚魚を育てる場所であるはずの、海底の海草類が姿を消す「磯焼け」が全国各地の沿岸で見られるようになってしまった。 もはやこのままでは日本の漁業は、いや世界どこでもそうなのだが、未来はない。海が富み栄えるためには、森が豊かに茂っていなければならないのだ。ここから畠山氏の「森は海の恋人」運動が始まる。 大川の上流には室根山という山が岩手県側にある。大川の水が豊かになるためには、室根山周辺の山林が豊かな雑木林になっていなければならない。ここに、毎年漁民たちが室根山に登って植林をする運動が始まった。この小さな運動が日本中すべての川の上流で行われなければならないのだ。 なお、「牡蠣の森を慕う会」では畠山氏の「リアスの海辺から」と「カキじいさんのつぶやき」が掲載されている。1999年10月作成2010年11月15日追加 先生=川島四郎 生徒=サトウサンペイ 朝日文庫 本文の目次
解説 この本は命にかかわる書だ、といっても大げさではあるまい。人々は「忙しい」せいだからか知らないが、食事に関心を失いつつあり、「腹を満たせば」それでよく、「安い」なら多少まずくても構わないという風潮がひろまっている。また一方では金や時間にゆとりがある人々が「うまい店」を追いかけ、グルメ趣味にふけっている。どちらも危険な徴候なのだ。 今、日本人、特に若者たちの食生活が危機に瀕している。ハンバーガーに清涼飲料水、コンビニ弁当にお菓子が夕食となる人々。世界一の長寿国に何が起こっているのだろうか。この10年ぐらいのうちに、人々は「忙しさ」「宣伝・流行」「ダイエット」「旬の無視」の名の下に、自分の健康の元であるはずの食生活を恐ろしいほど粗末にしている。 何しろ小学生の身体を検査すると、すでに中年以降に見られるはずの成人病の兆候が現れ、コレステロール値がアメリカ人のそれを上回っているというのだから恐ろしい。食事に傾けるべきお金が無いというのではない。そのくせ世界でも有数のビタミン剤、強壮剤消費国でもある。まずなんと言ってもライフスタイルのくずれが特徴的だといえよう。 今80,90才の人々は、日本の伝統的な食事を食べざるを得なかった。今は何を食べても自由である。しかも、人々は自分の食べるものに対して驚くほど「無知」なのである。多くの栄養学者たちが警鐘を鳴らしている。ただ、まだ西洋人中心の食事方法から卒業していない専門家も多い。一刻も早く正しい食事内容を知らせなければ、数十年後には、日本は病人だらけになる(すでになっているという人もいるが)。 日本人の腸の長さは牧畜民族より遙かに長いのである。長い間の食生活の違いが、違った消化器系統を作り上げている。日本人は野菜を中心とした「和食」を食べてきたのである。風土が作り上げた、それぞれの国民にあった食べ方、それが、川島先生の持論である。先生のおすすめメニューは、上にある長文の目次で十分、わかるだろう。 川島先生の授業は漫画家のサトウサンペイが聞き役になって進められるから、読者も実にわかりやすい。もちろん食べ物のマンガ付きだ。さまざまなエピソードを読んでいると、食品が実に「多様」であり、自然の恵みは本来はいかに素晴らしいものであるかに気づかされる。それを画一化、単純化して何がいいのか。 新聞の夕刊に、川島先生の弟子である、岸田袈裟氏のことが載っていた。アフリカから帰ってきたばかりの彼女は日本の野菜の味のなさにがっくりきたという。今、手をこまねいているときではない。「衣」も「住」も犠牲にしても「食」を、個人的にも、生産者のほうも、流通業者も、本来のものに戻さなければならない。 この本には続編、続々編もある。残念ながら、川島先生はマラリアのために亡くなられたが、この3部作によって誰もが食生活をまともにしてもらいたいものだ。 残念ながら、続編、続々編は絶版となり、その代わり、「栄養学の ABC」(Asahi Original)という形で出ている。1999年11月作成2010年11月追加 鎌田慧(さとし) * 講談社文庫 本文の目次
解説 ルポライターの鎌田氏がトヨタの工場に季節工として1972年に6ヶ月間働いた記録。もう今では古典にもなっている。フランス語訳もされた。(フランスはストライキの盛んな国である)ベルトコンベヤーによる大量生産が最高潮に達した頃の話で、いわゆる経済学の教科書に出てくる「単純労働」の繰り返しが抽象的な文字でなく、実際にへとへとに疲れて寮の万年布団に倒れ込むすさまじさを描いている。 これから社会に出て、企業に入り、利潤がすべてである資本によってこき使われる予定の青少年諸君にとっては必読の書である。特に現代における自由競争の激化した社会での労働環境との違いを比較しておくことは大切なことだ。日本の労働組合の組織率は非常に低くなっているが、それがいかに企業の思うつぼとなり、自分たちの首を絞めるかも改めて知らされることになるだろう。 一労働者として実際に働いてみて、日本の労働者の実態の一面が明らかになった。ベルトコンベヤーの速度を少しずつ上げてゆき、人員を減らし一人あたりの労働密度を極限にまで上げていく。いったん工場に入ったら息をつく暇もなく無駄なく労働に重視させるそのシステムは非人間性の極みである。 企業は、ここでは人間は機械に対する奴隷であり、疲れを知らないベルトを回すモーターは人間が疲労困憊しようが回り続ける。読者は、特にこのような労働を目の当たりにする機械がおそらく一生ないであろう読者にとってはこれは必読書である。 労働者はまた、労働組合があっても救われない。給与はぎりぎりまで低く保たれまさに「生かさず死なさず」のラインに置かれ、いずれは会社の幹部になる裏約束をもらった男たちが組合の幹部となって組合員の「福祉」のために取り組むのだ。 労働中の災害は、本人の不注意とされ、これがおおっぴらにされることもない。重大事故も工場の中で秘密にされ、トヨタ病院に行っても入院させてもらえず翌日から出勤することを迫られる。人間の命より、機械の効率とコスト削減が優先されるのがこの世界の鉄則である。 季節工は期間満了が来れば終わりだし比較的報酬はよいが、本工は、長期にわたるローンやさまざまな「得点」に縛られ容易に抜け出ることはできない。いわばぬるま湯の中でゆでられるのに似ている。ほかにも工員にはさまざまな「身分制」があって、それぞれ昇進の見込みや何らかの手当などによって会社に依存が深まるようにシステムが作られている。 さて、ロボット化が進んだ現代ではこの30年以上前の話はもはや解決したのだろうか?いやそうではない。重労働は海外に移転した工場で引き続き行われ、日本人よりきつい仕事に耐えられる人々が従順に労働に従っている。ロボット化した工場では、担当者の創造性の余地が広まったわけではない。 チャップリンが「モダン・タイムス」の中で描いたように、すべての大量生産される工業製品を作る工場では楽しい職場、将来が展望できる職場などなくなっている。日本の最も巨大な企業であるトヨタの進んだ道はもちろんほかの会社も追従する。 団結権、争議権、交渉権を奪われ無力か、無気力化した労働者たちにとっては今後も職場のつらさは変わらないどころか悪化する一方だろう。囲い込まれ、リストラの不安にさいなまされている21世紀の労働者は30年前と比べてその過酷さは何も変わっていない。 21世紀の自動車工場も依然として「絶望工場」である。以前よりもいっそう職制の分化が進み、同一労働の不平等処遇、つまり本雇いとパートに代表される差別がますますひどくなっているのだ。本書で述べられている技能の細分化はますますひどくなり、熟練工は絶滅の危機に瀕している。 目先の利益を追い求める企業により、かつては世界の誇りだった日本の手先の器用さによる技術は次々と死に絶え、ロボットと監視員だけがいる生産の場が増えてゆくのだ。 2004年9月作成 |