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素材だけの食生活

キャベツ

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現在の日本における食生活といえば、従来の和食に、西欧風の食事が加わり、さらにアメリカ式の冷凍、ファースト、加工中心の食事が入りまじった、人間の胃袋にとってははなはだ迷惑な状況となっている。

元来、肉食人間、穀物人間における腸の長さがそれぞれ違っているように、長い時間をかけて培ってきた食文化は、風土に根ざしているのだ。それを一朝一夕のうちに変えてしまおうとするところに無理がある。

最大の敵は、加工食品であろう。なぜならその味付けはわれわれが好むと好まざるにかかわらず、画一的な濃度に仕立て上げられているからだ。食塩、砂糖、調味料、その他の要素は各人の体の調子や他の食べ物との組み合わせなど、全く無視して一方的に押しつけられてきている。

残念ながら、これに対して消費者は全く判断力を失い、別の言い方をすればすっかり「適応」して、誰も文句も言わず、むしろ面倒な調整の手間がなくなっただけ喜んでいる現状だ。そのため、食品会社のマーケティングは、消費者の気まぐれに左右されやすい、例えば衣料とかアクセサリーなどに比べて、はるかに楽になっているのだ。

現代人は、「ブランド」に絶大な信頼を置くようになってしまった。だから、世間でこれがうまい、これが素晴らしい、という風評が立つと、無批判に受け入れてしまうようになってしまったのだ。これがバッグや腕時計ならそれはそれでかまわないが、こと食品となると、一生を通じての長期的な影響について考えなければならないはずなのだ。

ハンバーガー、ピザ、はたまた有名ホテルのビーフシチューやカレーライスが缶詰となってありがたがられる時代になってしまった。そしてそれらを受け入れる素地となっているのはすでに20年ぐらいになる、いわゆる「お総菜」の切り売りである。

一番最初に登場したのは揚げ物であった。これは今でも依然として主流だが、そのあと、煮物、マリネ、サラダと出てきたが、もうだれもデパートの地下やスーパーでこれらを買うことに疑問を持つ人はいなくなった。

さらに食品メーカーが目を付けたのが、サラダ・ドレッシング、麺類のつゆ、果ては塩コショウに至る、調味料の発売である。これらは、いくつかの「基本調味料」を合わせて作るわけだが、これまでは家庭で難なくできたものが、何か特別なレシピでもないとできないような錯覚を消費者に与えてしまっているようだ。

つまり我々の食生活は、少しずつ自分で作る部分が浸食されて行き、その分がメーカーが代わりに作るお仕着せの食品に置き換わっていっているということだ。いっそのこと完全に1日3食、外注にし、どこかの食堂に出かけるか、完全出前制度を採用してしまった方が気持ちがよいくらいだ。

現に独身者は食事のすべてを外に頼っている人々が大部分であろう。そこまで徹底するのなら、またそこから新しい面が開けるかもしれない。例えばしっかりした社員食堂を持ち、勤務が12時間以上にわたるとか、夜勤交代であるならば、そこのコックにすべてを任せて、つまり賄い付きにしてしまえば何ら問題はないのだろうが、その点については別の項で論じたい。

ここで唱えたいのは、本来の食生活に戻りたい人のために、夕方の買い物についての改善点である。これまでと違った食生活を目指し、食品メーカーのお仕着せに甘んじない生活を送りたい人は、現状をよく認識しどんな変更点が必要なのかをしっかり見て欲しいものだ。

すでに述べたように、メーカー側で、我々の手間を省いて上げるという「親切心」からか、何でも工場で調合してしまう点に最大の問題点がある。つまり工場が素材を仕入れ、専門家が最大公約数の味を創り出し、そのためには香料を加えることもいとわず、輸送や保存期間の長さを考慮して、塩分濃度を高めたり、保存料や添加物も加えざるを得ない状況であることを十分に知っておく必要がある。

これらを避けるには、我々自身が「素材」だけを手に入れるしか方法がない。何も調理されていない、もとのままの材料のみを買い求め、これから料理を作ってゆくことである。もちろんそれが面倒な人は、ここから先を読む必要はないが。

野菜は泥つきのまま、なるべく包装をしていないもの、特に無駄なトレーによる陳列をしていないもの。無農薬や減農薬であれば理想だが、なぜかこれは(本当はそうあるべきではないのだが)価格が高い。しかもきちんとした基準がないから、実際にどのように作っているか想像するしかないのである。信頼のおける生産者に頼むか、自分で作るしかない。

世の中には「カット野菜」という恐るべきものがある。忙しさは、すべての免罪符になり、これを買ってゆく人が後を絶たない。ちょっと考えてみてもいったん野菜を切って空気にさらしたら、その瞬間からどんどん栄養素が壊れていくことぐらい誰でもわかる。それでもあえてそれを買う人がいる、いや増えている。

おそらくカット野菜を作る「工場」では、切ってすぐに塩素水とか次亜塩素酸あたりにつけて殺菌し、空気がなるべく触れないように、そして変化しないように何らかの「薬」を投入するのであろうが、あのパイナップルにしても食べやすく切ってあげなければならないとは、ここまで人間の器用さは落ちてしまったのか?

魚は、取れたてで、これを切り身、刺身、内臓を取り除いたりしていないもの。但し大型魚は仕方がない。タンパク質は、野菜と違い、冷凍に向くものもある。遠洋魚を避け、近海、できたら沿岸で獲れた「地魚」が望ましい。結局その方が魚の種類は限られてきても、新鮮なものが手に入りやすく、料理の方法も豊富である。

だが、新鮮なものが手に入らないのなら、缶詰が一番だ。最もたくさん取れる値段の安いときに最も新鮮なものを選んですぐに缶に閉じこめてしまうのだから。そして干物。乾燥した海産物の味の良さは、昔の人々が発明しておいてくれた製法のおかげだ。

獣肉は、幸いなことにたいてい冷凍に向く。しかも屠殺したてよりもかなりの時間をおいた方がうまいわけだから、あまり鮮度にこだわる必要はない。ハム、ソーセージは加工食品としてはすぐれた部類に属するが、低級品は避け、精肉を選ぶ。

野菜、魚、獣肉は、そのままが理想だが、次善の策として冷凍、乾燥、塩漬けが考えられる。さらに有望なのは、「水煮」である。これは、時を選ばない素材としては理想的だ。缶詰、瓶詰め、袋詰めなど、材料によって違っているが、豊富に獲れたときにまとめて作っておくのだから、実に便利な食材といえよう。

最後に調味料だが、「粗塩」「砂糖」「醤油」「味醂」「酢」など、もうこれ以上は素人では作れない段階のものを基礎調味料と呼ぶことにする。アミノ酸調味料は避ける。自分の食べる食事に、人工的にアミノ酸を増量して単純に味わう習慣は捨てて、天然の調味料のもつ、「不純物」を含んだ複雑な味を追求することにしよう。

また、「しょっつる」「塩から」「ニョクナム」などのように国内、国外を問わず自然の発酵作用を利用したすばらしい宝物がたくさん埋もれている。そのような調味料を利用しない手はない。これらは現代企業の安易な思いつきと違って、それぞれの地方の人々が生活の中からじっくり選んで生まれたものだ。

これらの素材をそろえたら、これを調理するのは「腕」次第だが、技術の未熟な人は、「単純」料理に徹すればよいのだ。しばらくして飽きが来たら、その時は一流のシェフのいるレストランでたまには味わってみるのもよい。

2001年10月初稿2002年12月追加

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© 西田茂博 NISHIDA shigehiro

 
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