恋人の胃袋をねらえ

家庭料理の大切さ

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竹林

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グルメに人々が熱中しているのはテレビ番組や新聞記事のせいだ。有名な俳優や作家が誇らしげに自分の料理の「特別な味」について語る。中には天皇が立ち寄って昼食を食べたレストランに何度も通ったりする強者もいる。そのような店では国中で最高の材料を使ったり、最高機密とされている調理法を作り出したりしているものなのだ。

春の花(1)第2次世界大戦が終わってから50年以上がたち、日本人はすべてのもの、特に食物に関して前例のない贅沢を味わっている。「茶碗のゴハンを一粒でも残したら、目がつぶれるよ」という我々の母親によって繰り返された古い決まり文句も死語となり、子供たちはそんな言葉をあざ笑う。

今日若い人々やレディのつもりでいる中年の女性たちの中には、自分たちの大量の食事を捨てることに何とも思わない人もいる。太ることをおそれて米やその他のでんぷん質を取らず、それでいて何か美味しい食べ物を熱心に見つけようとしている。それらはたいてい飽和脂肪がたっぷり入っているものなのだが。これもただ日常生活に退屈を感じているからで、かつては皇帝や王たちもその繁栄の絶頂にいるときはこれと同じだった。両者とも贅沢な生活の飽和点に達してしまったのである。

「味がいい」と言うとき、新鮮さ、形、色などによって大きく影響を受ける。だが食欲についてはたいてい見逃されている。諺にもあるように、食欲、つまり空腹は最高の調味法なのだ。今日裕福な暮らしのおかげで洗練された料理法が健康的な空腹にとって代わってしまった。いったん美味しいものを味わえば、粗末な料理に戻ることはもはやできない。

アメリカ式料理の大きな影響が世界の食卓を荒らしている。パリではかつて人々が外国料理を取り入れることを頑強に反対したものだが、マクドナルドのハンバーガーの店は若者たちでいっぱいで、年輩のフランス人を残念がらせている。味の保守的な愛国者たちは大いに腹を立てているが、アメリカ生まれのファストフードを孫たちがむさぼり食うのを見ているしかないようだ。ただし、最近では学校の給食に一流コックを招いて作ってもらい、子供たちに本当の味を教えているという。さすがフランスだ。

大量生産によって食物はその多様性を失ってゆくようだ。だがもっと心配なのは若い人々の食習慣であり、彼らは離乳したときから彼ら向けに特別に味付けされた加工食品に、しっかりと条件づけられている。「ジャンクフード(カロリーが多すぎてもミネラルやビタミンに乏しい;ゴミ食品)」に対する強い非難にも関わらず、若者たちはこのような「人工的な」ファストフードに強い魅力を感じている。

食の理想的な条件とは何だろうか。最優先されるべきものは新鮮さだ。もし食材が半径100キロかそれ以下のところから供給されていれば、たとえば朝食の食卓はその朝早くにつみ取られた野菜や近くの港から届いたばかりの魚をのせることができるだろう。古き良き時代には行商人がおり、背中に巨大な荷物を担ぎ、一軒ごとに新鮮な産物を売っていたものだ。今や彼らもいなくなってしまった。

二番目の条件は多様さである。食物は多様であればあるほどよい。もし一回の食事に20種類以上の食物をとることができれば健康には最高である。食物の量は二義的なもので、複雑な献立の洗練度などは大した問題ではない。

今日、人々はストレスのひどい環境で疲労しきっており、自分の肉体や精神状態を、ただもう心配しており、ニンニク、ニラ、ネギのような特別な栄養をとりさえすればエネルギーを回復できると信じる傾向にある。それらには奇跡的な効果があると期待するのである。

春の花(2)だが、菜食主義者の例を見てわかるように、人は野菜だけでは生きていけない。人間は雑食性に生まれついているから、限られた食物だけで生きるのはばかげている。多くの宗教者はそのようなことをみずからに課してきたのであるが。300年以上も前に建立された寺院に隣接する墓石には、若い僧侶の名前がたくさん彫られているのがわかる。彼らは哀れにもごくわずかな米と野菜だけで生きることを余儀なくされたのである。彼らは栄養失調か結核で若死にをしたに違いない。

一方中国人は食べられるものの範囲を何とか広げようとしてきた。これは単に皇帝の気まぐれな食欲を満たすためだけではなく、民衆のすさまじい貧困のせいでもある。彼らは今ある食材に代わるものを広く探し求めた。彼らは何でも試みた。肛門、トサカ、睾丸、地虫そしてクモさえも(?)。彼らは「医食同源」だという。彼らは食事の多様性の重要性を認識していた。

今一番緊急を要するのは一人暮らしをしている人がなによりも自然な食品を使い、自炊することだ。インスタント食品、TVディナー、ファストフードはかつて、戸外とか病院のような特別な状況にいる人に食べてもらうために発明されたものだ。今日では誰も日常生活の中でそれらを利用することに躊躇する人はいない。いったんこのような料理が日常的なものとなれば、古き良き料理方法に立ち戻ることはほとんど不可能である。

大家族や伝統的な共同社会が崩れてゆくにつれて、ますます多くの食物が多様性を失ってゆく。古き良き時代には何千という異なった味噌、醤油、ワイン、アップルパイが文字通りほとんどすべての村ごとにあったのだ。トムの母さんが焼いたクッキーはメリーの母さんの焼いたクッキーとはまるで違っていた。今日子供たちはスーパーへ行っておきまりのナビスコでも買うのだろう。何と単調な世界になってしまったことだろう。加工食品は新鮮さ、多様性、栄養が欠けるだけでなく、時に愛情にも欠けている。

心理学的に言えば、愛するパートナーによって作られた食事が精神的にも身体的にも健康には最高である。この文章のタイトルにもなっているが、「愛する人の胃袋をねらえ(料理はキスと違って長続きさせる)」なのだ。

自分で料理するにしても、切ったり茹でたり焼いたりすることそれ自体が大量生産をしている食品産業から自立しているという満足感を与えてくれるし、孤独感にさいなまされていたかもしれない気持ちを満たしてもくれる。もしストレスに苦しんでいたり、不安だったり、腹を立てていたり悲しい気持ちでいたりすれば、最高に味付けされた料理でさえ、栄養的な価値はない。

春の花(3)家庭料理は消化にとって有害な要素を和らげてくれるかもしれない。だから微笑みやおしゃべりは最高の食欲増進剤なのだ。そうでなければわれわれは小さなかごに入れられて昼も夜も定期的にエサを与えられるブロイラーに過ぎない。

現代社会が複雑化すると共に、心温まる食事とはどんなものなのか、かつてはどうだったのかを忘れがちである。一日3回またはそれ以上の食事をとることが、たとえ美食家でないにしても、人生の最大の楽しみの一つであることは誰も否定できない。機械の時代には、このことが次第に無視されたり、というよりむしろ感動を引き起こさないものに変えられてゆくようだ。

こんなわけで、材料の新鮮さや多様さの持つ総合的な効果が、料理を作る人とくつろいだ健康的な雰囲気との関係を維持してゆくことは、繰り返し見直されなければならないのだ。われわれは皆人間だ、そしてそれだからこそまさに、寒い冬の夜に愛する家族によって料理された、湯気の沸き立つ鍋が心ゆくまでの満足感を与えてくれるのだ。

First Written in July 1987 Rewritten in April 2000

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