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人間は自然界の失敗作か?

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人間は、100万年以上前に、アフリカの中央部あたりで発生し、世界中に広がったと言われる。現在ホモ・サピエンスと呼ばれる種は、どうやら初期にはクロマニョン人をはじめとするたくさんのライバルがいたらしく、それらと激しい生存競争を行った末、地球を征服することができた。

しかし長い進化の歴史をたどってみると、人類ほど他と違った種はない。確かにアンモナイトや恐竜がこの地球に広がり、全盛期を体験したあと、消滅していったが、現代の人間の集団ほど自然界に負のインパクトを与えたことがあっただろうか?

ふりかえってみると、多様性が自然の大方針のように思える。単一種だけが自然環境にはびこると、必ずバランスが崩れ害毒を流しはじめ、それがその種の絶滅の原因となる。だからこれまでの生物はそれぞれの分を守り、お互いに牽制しあいながら生態系を作り上げてきた。

ところが人間の場合はどうだ?自然が人間を生み出したのに、人間の進む方向は自然の求める方向とは全く逆に地球の首を絞め、今にも窒息死させようとしている。何が狂ったのだろうか?

生存競争では、賢いということは非常に強力な武器であったことは誰も否定しない。クマでもサルでもシカでも、賢いやつが常に群をリードし、生き延びてきた。人間もいうまでもなく、リーグ戦にすべて勝ち抜き、現在の優勝チームとなった、他の追随を許さない強豪である。

だが、そのライフスタイルは、すっかり自然の方式をはずれ、とんでもない方向に動きだした。その最も顕著な特徴は「自己家畜化」である。賢さは、敵をやっつけるためだけでなく、「より快適」「より安楽」を追求する方向に絶えず向けられてきた。それはそれで生存競争の強力な武器にはなるものの、この方策には本質的な欠点がある。それは「家畜」の名に示されるように、自分たちの体質の弱体化、遺伝的素質の劣化である。

わかりやすい例を挙げれば、エアコンに閉じこもってすっかり温度調節能力が弱った都会人、いつも車やエスカレータに頼って肥満しきった人、柔らかいものしか食べずにアゴがすっかり小さくなってしまった小学生を見るとよい。自己家畜化が限度を超えると、自分を守ってくれるはずの工夫や技術が逆に働くようになり、長期的には種の衰退を招く。

かつては外敵から守ってくれるはずだった賢さが、逆説的な働きをするようになった場合、これを強力にコントロールする力が働かない限り、その流れを止めることは出来ない。たとえば、アメリカ人の肥満度は、20世紀の半ばから21世紀に至るまで、一貫して増大している。肥満が危険であるとする警告とか、ダイエット運動が現れてはいても、それが肥満度を下げる力として働くには至っていない。

このように、いったん野生に放り出されてしまえば片時も生きていけない家畜たちと同じように、人間は自らを家畜化してそれを極限まで押し進めようとしている。しかもそれには歯止めが今のところ働いていない。

次に自然の方式からはずれている点といえば、「循環原理の無視」である。絶え間なく増え続けるゴミ。もちろん人間の数とその消費する量から考えればゴミが大量に排出されるのは当然のことだ。

問題なのは、それが二度と再び地球のシステムの中に還元されていかないことである。つまり資源の掘り出しと、分解も再利用もきわめて困難な形での大気や大地への放出が平気で行われていることである。

すべての生物は老廃物として、ゴミを出しているが、それでいてこれまで海も川も湖も清廉そのものだったのは、完全に循環がうまくいっていたからである。絶海の孤島の上にできあがった、海鳥たちの糞でできた山、「グアノ」を見るとよい。環境にばらまかれることもなく、もし人間どもが掘り出して畑の肥料にしない限り、そのままつもり積もってそのうち岩石と化するのである。

廃車をどのようにして環境に戻すか、これまで真剣に研究されたためしがない。醜い姿を地上にさらすだけだ。それでも鉄の部分は、いずれは赤茶色に錆びてこの世から姿を消すからまだ救われる。分解されずにあるプラスチック、海面に漂うポリ袋はどうなるのか?放射性廃棄物に至っては、数万年の半減期を、人間が管理することができると信じている(本気なのか?)人もいるのだ。

今のところ「焼却」がゴミを消し去る、最も安易な方法として広く利用されている。だが、それによって放出される灰や排ガスの再利用はほとんどコスト面から言っても不可能である。開発途上国や貧しい国が、「豊かな」生活を実現するにつれて、地球上のゴミはほとんどコントロールできない状態となる。

最後に自然の方式からはずれている点は、「生息域の独占」であろう。世界人口が60億を越えてさらに増え続け、人々の住む住宅のことを考えただけで、どれほどの広大な土地が今後「開発」されるのであろうか?超高層ビルで縦に面積を増やしても焼け石に水である。かつては不毛の岩石地帯であったところでさえ、不動産業者は次々と計画を立ててゆく。

これまでの野生生物の行き来していたルートは分断され、縮小され、維持できないほどになったあげく消滅していく。森林に通した高速道路は、いかに動物用のトンネルを掘ったりして工夫しようとも、以前の状態を復元することはできない。

かつての人間は、河川、特に河口近くに集まって住むことが多かったが、現在は住むところを選ばず森林であろうと、川の上流であろうと、何ら制限なく住み着く。大都会ではスプロール現象の害悪が問題にされてだいぶたつが、再び自然に戻されたという話を聞かない。

経済的なメリットさえあれば、人間の生息域はまったく無制限に広がるばかりである。地下水脈がブルドーザによって切断されたために泉がその日から枯れた例を見ればわかるように、宅地のために切り崩された丘陵地帯は、もはや土の山と同じである。

人間がこのような3つの害悪を垂れ流しているのを見ると、どうやら自然は種の創造に関して大失敗をしたのではないか。これまで自然が失敗をしても、それは復元することが可能だった。隕石による地球環境の壊滅的激変にも耐えてきた。

だが、今回は違う。こんな大規模な生物の急速な減少と絶滅は過去に例がない。自然が営々と行ってきた進化の一端が、このような結果を生みだしたことは、果たして必然なのだろうか?それともやはり偶然なのか?

オーストラリアのように外界から隔絶された場所で、有袋類が、ほ乳類と同じような進化を遂げたこと(平行進化)を見ると、自然のプログラムには「必然性」が読みとれそうだが、人間の暴走にはいったいどのような説明をつけたらいいのだろうか?まさか人間亡きあとに登場する新生物もまた、こんな文明を作り上げたりするのではあるまいな?

自然が作り上げてきた微妙なコントロールシステムをまるで無視する人類の行動は、いったい前から予想されていたことなのだろうか?それとも人類は、自然界にとって「ガン細胞」であり、末期ガンの患者のようにただ毒されて死んでいくのを待つしかないのであろうか?

答えはどうやら後者のようである。一部の人間の行動、性質、特に忙しいのが好きで好奇心に富み、行動をするのが大好きという特徴は、今までの人類の発展には寄与したものの、今になって地球全体のシステムとはまったく相容れないことが明らかになった。

もちろんそうでない人類もいる。パプア島の奥地に住んでいて、4万年もの間同じ生活を続けてきた種族などは、もし外界の影響がなければ、今後さらに4万年生存を続けても誰も驚かないだろう。彼らのライフ・スタイルは、その質が何であれ、ある程度は「永続性」を持っている種類のものだからである。

パプアの人間のような生き方を「文明人」は軽蔑するだろう。だが、文明人がこれから4万年続くわけがない。せいぜい40年がいいところである。もし自然が、人類を失敗作と認めるのなら、早急に地上から消滅させなければならないだろう。さもないと、もとの美しい地球を取り戻すのに、恐ろしく長い時間がかかるだろう。原子炉からでた高放射性物質は、10万年後でも危険きわまりないのだ。

人類亡きあと、地球は「緑なす山々」に戻るだろうが、そのあとはどんな生物がバトンタッチをするだろうか。今森林の中をごそごそ走り回っているネズミのような生物が次の候補になるのだろうか?だが、もう「賢い」生物はごめん被りたい!

2002年8月初稿

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