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自然は多様化する

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宇宙の創成、ビッグバンが起こった次の瞬間から、ありとあらゆる種類の素粒子が宇宙にあふれた。不思議なことに物理学者が物質の性質を調べれば調べるほど、その組成は単純化できるどころか、ますます複雑な泥沼へと陥っていく。

全体を統一する理論の組立は不可能ではないにしても、物質世界の細部はその中にまたその細部があり、またその中には細部がある、というふうに永遠に細かい世界へと入っていくのである。たいていの人は宇宙の壮大さのことだけを考え、無限大という言葉を持ち出すが、逆方向に進めば、無限小の世界もあるわけだ。

よく引き合いに出されるのが、岩手県にある三陸リアス式海岸である。これを宇宙から見下ろせば、いうまでもなく鋸のようなギザギザが見えるが、どんどん高度を下げていっても、さらに小単位のギザギザが見えるだけで、これに終わりはない。海岸の小さな砂粒を顕微鏡で拡大しても同じことである。

宇宙を調べると、今まで望遠鏡で見えていた世界は全体のごく一部であることがわかった。目に見えない世界、ダークマターの世界がその向こうに広がっているのである。そしてそれらには独自の物理法則が働いている。これらもビッグバンの時にできたものだ。

さらに星はいつまでも輝いているわけではなく、高齢化し死滅し、ブラックホールを作りまわりの物質を飲み込んで新たな現象を導き出す。星は集まって銀河を作りブラックホールのような強力な重力を持つものを中心にして回転する。

このようにして自然界にはどことして同じものはなく、時がたてばたつほどますます多様な世界が広がっていくだけである。すなわち自然とは自ら複雑化していこうとする傾向にあるらしい。しかもそれはランダムではなく何らかの指示書に従っているかのような規則性がある。その最もわかりやすい例が生物であろう。

生物があるときに形をなして以来、(それまでにも想像を絶するような複雑化が進んだのだろうが)それはますます時と共に複雑化に拍車がかかっている。そしてその材料は比較的少数である。ところがそれらの組み合わせはほとんど無限になる。

たとえばタンパク質を構成するアミノ酸は基本的にはたった20種類しかないのに、これがどれほど多くのタンパク質、そして酵素やホルモンなどを作り上げていることだろう。しかもデタラメにできているのではなく、ある目的を持ったタンパク質、たとえば糖と結びつきやすいといった特殊な癖を持ったものが、わずかな試行錯誤でできあがってしまう。

DNA合成もそうだ。この場合には、その材料はたった4つである。この4つがどんな順番で並ぶかで配列が定まり、それが一種の文字として遺伝子の中に保存される。そのDNAがどんなに長くてもそのコピーにミスが起こることは少ない。

こうやってみると人類が考え出した言語というものも、有限の単語から無限の文章表現ができるわけだから原理的には細胞レベルとよく似ている。こうやってみると、自然界には共通の発現形式というものがあるらしい。

オーストラリアに行くと、有袋類が自分たちの天下を作っている。すなわちこの大陸が他の地域と海によって隔離されたために、その環境にとって必要な動物が独自に進化したものの、それは他の大陸に住む動物とそっくりになってしまったことがわかる。違いは有袋であるかどうかだけだ。

つまりどの世界にも、狼、ウサギ、ネズミ、牛などの「役割」をする者が必要なのだ。それぞれのニッチ(生態的地位)があり、新しい環境の中では生物はその柔軟性を生かしてその中にぴたっと収まっていくのである。森林の場合だとそれがどんどん進んで極限にまで多様化が進み同時に全体のバランスがとれている(極相)。

海のど真ん中に新しく火山島ができた場合でも同じである。しばらくしていって見ると、小規模だが、完璧で自立した生態系ができあがっている。水槽に魚、海藻、プランクトンなどを入れて、密閉し太陽光を当ててエネルギーを補給するだけでそこに小さな自然ができあがるのもそれと同じだ。

こうやってみると、たとえば隕石の衝突があって地球の生命の99.9%までが絶滅して、もう一度進化をプランクトンレベルから始めるとしても、もし気候や地質が現代と同じような場合には今とそっくりな生物層が誕生するのではないか。そうなるとまた猿や人間そっくりの生物も現れてきてまた環境を汚染するようなことになるのかもしれない。

たとえば4つ足歩行だが、魚が海から陸上にあがった場合、一番採用しそうな移動手段は、やはりヒレあたりを引きずりながら体を動かすことだろう。転がったり、ましてや車輪を発明することは考えられない。実現不可能な突拍子もない化け物は生まれないのである。生まれてもたちまち姿を「消される」。

こうやってみると、進化のルートは置かれた環境が似ている限りは同じコースをとるのではないか。そしてその間教の隅々まで生物で満たすために、適応放散が起こる。そのためには際限ない多様化がまず求められよう。

多様化は生物にとっては非常に有効な保険である。なぜなら風に強い者、暑さに強い者、寒さに強い者、乾燥に強い者、湿気に強いものと全部用意しておけば、将来このうちのどんな環境変化が現れても生き延びることができる。ところがもしある種の特性がみんな単一であれば、環境変化によって全員一斉に滅びなければならなくなる。

従って生物においては多様化は至上命令なのである。種の存続のためには、いや生命存続のためには、さまざまな個体を試しに作っておいて将来の変化に備えるのである。人間が現れたのもそのおかげである。類人猿の中でも特に柔軟な思考ができる者がいたのだ。それがアダムとイブである。

皮肉なことに現代文明はその多様化にブレーキをかけている。快適な人工環境、医療の発達、学校における一斉教育、大量生産、交通手段の発達は、近視眼的には「人類の進歩」と見えるが、実は自然の法則に逆らっているので、いつか厳しいしっぺ返しがやってくるのである。

2004年2月初稿

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