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名詞と形容詞 「あっちっちっち」・・・すべてはここから始まった。まだ火の使い方を覚えてまもない人類は、時々へまをしでかしてやけどを負ったりしたのだったが、そのときに叫ぶ声はどの個人でも似ていた。

言語の始まりは、名詞と形容詞の混合体である。リンゴや木の実、魚、肉を指し示すのにある特定の発声が伴われていたが、熱いとか冷たいというような状態を示す場合でもやはりある発声が使われており、最初のうちはそれらは未分化であった。

しかし人々は名詞的なものと形容詞的なものとの区別が少しづつつきはじめていた。前者は同じカテゴリーに属するならばつねに同じ呼び名になるのに、後者は同じカテゴリーでも状態が変わるたびに呼び名を変えなければならないからだ。

しかも一方でさらに固有名詞が使われるに及んでその違いははっきりと意識され始めた。なぜなら、「トム」と「隣に住む男」のように固有名詞となればもう一対一の厳格な関係が要求されるからだ。ここに固有名詞→名詞→形容詞とゆくに従って扱う範囲が広がっていくことが認識され始めた

人々はこの3つのタイプの語についてお互いに混同しないように何か目印を付ける必要に迫られた。たとえば形容詞の働きをするものは必ず目立つ語尾をつけるというように。このような掟は村の長老によって部落員全員が守るように強制された。従わない者がいればのけ者にされかねないし、第一いっしょに狩猟をすることすらできない。

形容詞の働きをする語が語尾によって名詞の働きをするものと区別できるようになると、並べる順番が二つ生じてくる。つまり名詞の前に形容詞を置くか、うしろに形容詞を置くかである。これは部族によって伝統的に受け継がれ、それぞれの好みが今日に至っている。

人々は宗教儀式においてもそうであったように、このような言語記号においても手の込んだ方式を好んだ。それは必ず規則性を持たねばならず、代々子孫にまで伝えられていかねばならないのである。

まだ文字が発明されていない時点では、アクセントと語尾発音の明確さのみが、伝達の正確さを保証するものだったから、その体系は急速に複雑さを増したと言ってよい。また語尾発音の重視は、リズムに乗って歌に韻を踏ませる習慣を根付かせた。人々は語尾に似た音が連続するのを好んだのである。

動詞 狩猟における集団行動は、より複雑な状況を表現するために、名詞や形容詞だけでは済まなくなった。獲物が止まったり、走り出したり、飛び立ったり、急に雨が降ってきたりなどの状況変化には、新しい表現方法が求められるようになっていた。動詞の誕生である。

動詞の誕生が名詞や形容詞よりもずっと遅れたのは、言語が言った先から音声が消えていくという一方的時間配列に人間の脳の認識が追いつかなかったからである。動詞を用いるためには、すでに述べたことが短期記憶として脳内にとどまっている必要があった。

つまりいわゆる「主語」がまず頭の中に銘記されないことには、動詞でもってその動きを表現することができないからである。これができるようになるためには主語動詞のつながりに基づく「文」というコミュニケーション技術の革命が必要だった。

ようやく姿を現し始めた動詞は、はじめは「走る」「歩く」「飛ぶ」などの空間移動を描写する完全自動詞だったに違いない。これならうしろに目的語をつけることもなく、主語もお互いに了解しあっている場合には省略することができた。

しかしそれでは単純な動きしか表現できない。「持つ」時、持つ主体である人間のほかに、どうしてももう一つの名詞、たとえば「石」が必要であったからだ。はじめのうちは、「石」や「枝」などの単語を添えて述べるだけで用が足せたが、そのうち主語である名詞とは違うのだということを明示する必要に迫られてきた。

ここで再び語尾に人々はこだわり始める。それぞれの単語に違ったタイプの語尾を追加することによって違った種類の名詞、今で言う「目的語」を区別しようとしたのである。これによって言語体系は一層複雑さを増したが、これについても長老たちの命令により部族員たちは従わなければならなかった。

だが、語尾によって主語や目的語の区別が可能だということは、動詞を中心として並べる順番にさまざまなバリエーションが生じた。ある部族では、SVOが好まれ、ある地域ではSOVが好まれた。主語を最初に置かない部族はさすがに少なかったが、まったくなかったわけではない。

副詞 やがて動詞を使いこなすにつれて、名詞とは違ったタイプの言葉で説明する必要に迫られた。「走る」のはいいのだが、「ゆっくり」なのかそれとも「早く」なのか?これらの言葉は名詞に対する形容詞とは区別されねばならなかった。これもやはり語尾の工夫によって副詞的機能を発展させていった。

副詞の機能でもっとも初歩的なのは、「場所」を示すタイプである。鹿の「前」、鹿の「後ろ」、崖の「下」、山の「上」など、狩猟、採集にはこれらの表現が絶対不可欠である。これらは優秀な狩人であればますます精密な言い方が発達した。この後に発達したより抽象的な「時」や「様態」も、まずはこれらの場所を表す表現から借りている。

つまり、これで名詞に対する形容詞、動詞に対する副詞という2系統の修飾体系ができたのである。しかしこのおかげで人間は無限の表現の可能性を手に入れた。単語の数は有限であるのに、そこから生まれ出る表現はほとんど無数と言っていいほどのバリエーションの可能性ができたのである。

これは大変な革命であった。なぜならこれで「きまり文句」の繰り返ししかできなかった生活から、ちょうど新しいワラ細工のパターンを生み出すのと同じように、自ら新しい文を構成することが可能になったからである。

時間・完了 集団生活での狩猟、農耕は、昨日した仕事の今日への引継、明日行く狩猟の予定の表現を必要とし、それが時間感覚をとぎすませた。しかしすぐに未来形や過去形ができたのではない。なぜならそれらは動詞を使わなくとも「日の出」とか「3回目の日没」というような名詞または副詞表現で済ませることが可能だからである。時制がしっかりと整備されるのはずっと後のことであるし、言語によってはいまだにないものもある。

動詞に課せられたもっと重要な役割は、行動や出来事がまだ行われているか、あるいはそれがすっかり終わってしまったかである。今狩猟をやっている最中でまだ終わっていないのか、狩猟は無事済んで帰途についているのか、こそが最も知りたいことであった。

これにより、状態を表す動詞にはその必要性はなかったが、これまた語尾に変化を加えて動作を表す動詞を「未完了」と「完了」の二つに分ける習慣が生じた。おかげで伝達はいっそう正確になり、メンバー同士の連絡は実際に目で見なくとも言葉だけで十分に伝えることができるようになったのだ。

このようにして人々の使う言葉はいっそう洗練さを加えていったが、相変わらず単文であった。つまり基本的に動詞一個を中心にして文を作るか、まったく動詞を放棄して名詞中心で相手に伝えるかである。このような表現形式には自ずと限界がある。

生活が複雑さをますにつれ、文が一つではとうてい間に合わなくなってきたからだ。ただ単に「そして」だけでつなぐだけではまったく不十分である。別のことも述べなくてはならないので「しかし」のように逆接の関係を示す語も必要になった。「あるいは」のようにいくつかの選択肢から選ぶ必要も出てきた。

二つの出来事が時間的に違っていることを示すために「時」の表現が使われるようになった。自分の述べたことについて、「理由」が必要になった。わかりやすい説明をするために、例を持ち出し「様態」も登場した。いかなる手段をとっても結果は同じだということを強調するために「譲歩」の表現も必要になった。

このようにして二つの文を結びつける方式が次第に確立していった。これによって文はおのずと長くなり、聞き手もかなり集中力を必要とするようになった。つなぎになる肝心な言葉を聞き逃すと、とんでもない誤解が生じる。これらは「接続詞」として限られた数だがきわめて重要な単語として定着するようになった。これらの語の使用については個人差は許されない。

これまで単一の形容詞によって説明されていた名詞にも、文章を加えて説明する方法が次第に用いられるようになった。関係詞や連体形の発達である。ただしこれらは「理由」「譲歩」などとは違い、特定の型にはまらない文章を単に加えることになる。たとえば「赤い花」のところを、「昨日花子が野原で摘んだ赤い花」などと好きなように説明語句を増やすことができる。

ここでも名詞の後にその説明文を持ってくるべきか、名詞の前に持ってくるべきか好みがわかれた。前者では説明文がなかなか現れないじれったさがあり、後者では、肝心の名詞が最後になるまで出てこないという不便があり、それぞれ一長一短があるが、それも音声言語の持つ時間配列という制約があるためである。

アフリカで発生した人類の小集団が、次第に北上し、トルコあたりから西のヨーロッパへ向かう集団と、東のアジアへ向かう集団と大きく別れたとき、すでにあった言語のわずかな違いがお互いの距離の増大と地理的孤立化によりいっそう増していった。

だが、最初の段階で起きた違いは主として語順の問題であり、基本的構成はすでに人間の脳の中にしっかり形成されていたから、どんなに表面的にそれらの言語が違ってしまっていても、現在に至るまで脳内での言語プロセスは同一である。従って学習難度の違いはあっても、人間はこの地上に存在するどんな言語でも習得することが可能である。

このようにして古代言語は次第に形成されていったが、すでに述べたように、単語の判別には語尾変化に大いに依存していたために、恐ろしく面倒な体系になる心配があった。もちろん長老や神官たちはこの取り決めに従うようにみんなに強制したが、一般庶民は少々の誤解を生じることを覚悟で、なるべく語尾を簡素化する方向へ向いていった。つまり言語の階級分化である。

そのうち文字が発明され、音声を一定の方式で書き留めるようになると、ますますこの語尾依存は高まった。だが一般庶民はほとんどが文盲であったから、ダイナミックな言語の変遷はほとんどこのレベルで起こっていた。一方上流階級や宗教、法律関係の言語は文字の発明とともに変化の歩みを止め、いわゆる俗語との距離はますます離れていくのである。

また、文字の普及が進んだ国では皮肉にも、書き言葉と話し言葉のへだたりが年々広がり、すでに発音しなくなってしまった語尾の綴りをいまだに書いていたり、読み方が変化してしまうので、適当な時期をおいて文字を現在話されている言葉に再調整し直す必要すら生じている。

それほどまでに民衆の言語の変化は激しい。またよけいな語尾変化や単語間の一致を嫌い、できるだけ簡素化する方向に進んでいく。巨大国家によって国語がしっかりと管理されているところでは学校教育によってしっかりと個人の頭に定着されるが、新興の貿易都市のような場合にはさまざまな言語が混じり合い、人々が自主的にルールを作っていく。そのような場所では新しい言語、クレオールが生じ、よりダイナミックで直接的な表現が好まれるようになる。

混成言語の特徴は語尾変化を減らしそのかわりに「語順」を守ることによって言語の統一性と正確さを保つやり方である。おかげで手っ取り早く言語習得ができる。その傾向は中国語や英語に強く現れている。この場合には今度は強固な語順ルールが生じ、語尾変化を重視する言語に比べて自由な単語の倒置や並べ替えができなくなる。

すでに述べたように発声の時間配列という生物学的制約によって、いずれの方法を採っても完璧な言語を得ることはできない。語尾重視にも語順重視にもそれぞれ一長一短があって、多様な場面においての有効性を考えると、その折衷タイプがもっともふさわしいものだといえる。

現代に至って言語の発達は袋小路に達したが、それは人間の脳の限界を示すものであって、テレパシーのように時間配列にまったく左右されない伝達方法でも考案されない限り、現在の言語形式は動物の伝達形式の延長線からはずれることなできないのである。

2004年7月初稿

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