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仮説集

ふきのとう

生身の人間は車の運転に適さない

---注意力の限界---

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毎日伝えられる交通事故。その大部分は人間という欠陥動物の注意力や運動神経が時速40キロ以上の走行状態に十分対応できていないことを明白に実証している。こんなことはとっくの昔にわかっていたことだが、いつの間にか国中に車があふれ、逆戻りができなくなった。

自動車反対論が起きれば、いつものように自動車会社とその利権グループはそんなことはひた隠しにし、そのような意見をあえて述べる者に対しては容赦ない制裁を加えるか、「消し」てきた。一方、テレビのコマーシャルには「さわやかなドライブ」とか「自然に戻る」というようなありもしないスローガンを掲げて消費者の気をひこうとしている。自動車こそ現代の「必要のないものを買わせ、捨てさせる」方式の最大の成果だといえる。

だから現代にいたっても自動車をなくせというような強硬な意見はほとんど出てこない。第一に「雇用」の問題があるからだ。なにししろ日本でも全労働者の約80パーセントは何らかの形で自動車製造か修理に関わっているからだ。特に企業城下町である名古屋地域はそうだ。

ラジオをつけるとすぐに耳に飛び込んでくる交通情報を聞いているだろうか。なぜこんなに交通事故が多いのだろうかと驚かされる。実際に報道される事故だけでもこれだけ多いのに、警察の手を借りず示談で済ませる小さな衝突事故を数えていたらとんでもない数に達する。

にもかかわらず人々は車を運転し続ける。果たして人間には車を運転するだけの条件と能力が備わっているのだろうか?一般には備わっていることになっている。自動車教習所が毎日吐き出す免許の合格者は志望者の数とほとんど同じである。いわゆる運転不適格者は、現実にはほとんど存在しない。

だが、実は平均的な知能や運動能力、そして注意力の観点からすると本当はほとんどの人々は運転に不適切であるといえる。運転の情報はほとんどが目からはいるが、人間の視野は大して広くない。首をひねればすべてを見渡すことは可能だが、実はその動作を面倒くさがり行わない、つまり「怠慢による不注意」をどうしても取り除くことができないのだ。

最もわかりやすい例は「一時停止」の場所であろう。小さな通りから大通りへ出るときの一時停止の停止線の前に10分間立ってみよう。まったくどの車も停止線で止まることはない。ひどいのになると大通りに鼻先を3メートルつきだして求まる気配がない車もある。明白な道路交通法違反である。

彼らは大通りのところに歩行者や自転車がいない「つもり」でいる。その「つもり」がはずれると事故が起こる。そもそも停止線というのはそこで車が速度をゼロにする場所なのだ。その場所からはどんなに目を凝らしても大通りの左右を見ることはできない。問題なのは誰も速度をゼロにする気がないことだ。

徐行であればそれで済むと思っている。だが実際のところそれまでスピードを出して走ってきたのだから、一時停止のところで十分にスピードが落ちている保証はない。一時停止の停止線を考え出した人はそのことを十分に知っていたのだ。

このように運転者が見くびった態度で運転しているのだから世界中で事故が絶えないのは当然だ。そしてたとえ慎重運転に徹していても事故は起こる。それは人間の予測感覚がのろすぎて(プロのスポーツドライバーを除く)実際の出来事についていけないためだ。

最近の恐るべき傾向として、横断ほどをわたっている高齢者などに対して、車を止めずにゆっくりと前に出てくる車が増えたことだ。つまりはやく渡らないと突き上げるぞという脅迫をしているのにふさわしい。警察はかつてほど歩行者の保護に積極的でなくなったことに大いに原因がある。こうなったら歩行者は何らかの攻撃手段をとってもいいころだ。

さらに寒々とした世相を映し出しているのが、「ひき逃げ」の増加である。普段は普通に車を運転し、もし事故さえなければそのまま一生警察のやっかいになるはずのない人がある日、犯罪者になる。事故を起こしてしまってから「気がつかなかった」と主張し、負傷者の手当という人間として最低のことすらしない人物であることがその事故の日、明らかになる。

つまり、普段は決してわからないが、事故の瞬間にひき逃げ犯人の人間性が明らかになる。普段接していて、この人がひき逃げをするかどうかなんてわかるはずがない。自動車という仮面をかぶってこうやって毎日道路を流れて行く無数の人々の本性を隠し続ける。

もともと人間は歩いていた。つまり時速4キロから6キロぐらいの間で進んでいた。走っても時速15キロどまり。それ以上のスピードで左右の風景が流れていく事態は人間のそれまでの自然感覚ではスキーや川下りの場合以外には考えられない。当然そのようなスピードでの方向転換や急停止についても自らの身体感覚がないのだ。

スキーの初心者を見ればわかる。彼らは練習を積むにつれてやがてはスピードコントロールができるようになる。自らの足と雪の上での滑走が次第に関連してくるからだ。このようにある一定以上のスピードに対する感覚を身につけるためには、たゆまざる訓練が必要だ。だがそのような場合の動作ミスはスポーツの時だからこそ許される。公道でもそれが起こることで現代の交通事故の悲惨がある。

自動車運転に関してはプロには自己責任を要求できるが、土曜と日曜しか運転しないものはどうやって速度や空間感覚を磨くのか?そして現代では利便性や個人の利益が明白に運転の引き起こす危険性に優先されているために一定の比率で必ず事故が起こる。

交通事故担当の救急病院の救急車出入り口に半日立っていて見よう。そこでみる悲惨な情景、遺族の悲しみは筆舌に尽くしがたい。事故が起こるごとに現場から、被害者が臨終になる瞬間までを毛布で覆ったりせず克明にテレビカメラが撮影して放映すれば、ハンドルを握る人は激減するだろう。もっともそんな番組企画はただちに自動車会社が握りつぶすに決まっているが。

一方プロの世界も危険に満ちている。トラック運転者のほとんどは過労である。東名を深夜突っ走るトラック便の運転手は、運送会社同士の激しい価格競争によって低賃金を何とかしようと無理に無理を重ねている。大会社から仕事を任された下請け会社では、労働条件などまったく問題にならない。あくまでも体力耐久テストなのだ。おかげで我々は安い、時には「配送料無料」などといった恩恵を受けている。

十分な訓練を受けていないアマチュアの運転手、過労でふらふらのプロの運転手。これが今目の前を流れる道路上の実態だ。むしろ渋滞で時速4キロ以下のノロノロ運転で走ってくれた方が、交通安全にとってはましだ。だが、為政者も企業の幹部もそのような問題には見て見ぬ振りをしている。

むろん対策を採ろうと思えばいくらでもアイディアはあるのだ。道路上の台数を一気に減らしてしまえばよい。プロしか運転を認めない。アマチュア運転手の走行地域制限、速度制限、年齢制限、定員に満たない車の有料道路での高額徴収などなど・・・。

だが最終的には完全自動操縦の車しか考えられない。つまり車の持つ最大の魅力、自分の行きたい場所にどこでも自由に行けるという可能性を否定することによってである。エレベーターや列車と同じく運行を完璧に管理下に置くことによってのみ初めて自動車は安全となる。と同時に自動車は「自動」車ではなくなるのだ。自分の思いのままに「繰る」という喜びは失われる。

すくなくとも高速道路での事故を絶滅するには、自己運転禁止にすればよい。幸い信号もなく、ランプからの流入によって行われるわけだから、自動化は一般道に比べて遥かに容易である。いったん高速にはいったら運転者はハンドルやアクセルから離れ、居眠りなり風景を楽しむなり、同乗者と将棋でもさすなりすればよい。

もともと高速道は防音壁が張り巡らされたり、単調に続く直線が続いたりしてなど、運転者にとっては運転の楽しみなどないところである(猛烈なスピードを出してみること以外に!)。車間と速度はその道路における車の台数から割り出された値に決められ、容量を極度に超えない限りは渋滞もあり得ない。適正な速度で流すから、車間を詰めても追突の心配がないのである。

これで悲しむのは、普段制限速度を遥かに超えて暴走する連中だけである。流れがスムーズだから、たとえ平均速度が80から100キロであっても速やかに目的地に到達できるし、急発進や急停車がないので、最も効率的に燃料消費ができる。

これまでの「走行車線」「追い越し車線」の区別もいらなくなる。車の走行性能に応じてどちらかに司令室が振り分けてくれるからだ。交通量が少ないところでは、片道1車線でも十分に効率的な運用ができる。でもここまで来れば、どうしてわざわざ一台一台の自動車を動かす必要があろうか?鉄道の方がはるかに効率的である。

2004年2月初稿 9月追加

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