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「中庸」ほど難しいことはない

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食えればそれでいいのに、あのように見事に肥満した人々を見よ。貧しすぎるのもよくないが豊かすぎるのもよくないことが、この半世紀における先進国社会の現状でわかった。極端に走ることは簡単なのだ。微妙なバランスに立つことには大きな知恵と細心の注意が要求される。

かつてブッダは中庸の徳を説いた。この教えには誰もが納得するだろう。「過ぎたざるは及ばざるがごとし」ということわざにあるように、世間では常に行き過ぎをいさめ、程良いやり方を勧めている。

だが、現実の世界はどうだろう。政治の世界では、いわゆる「イデオロギー」という名の愚かな姿勢がはびこっている。マルクス主義は、その典型であった。社会を救済するはずのこの考え方がいつの間にか勝手に一人歩きし、国家の中枢にいる人々の政策の根幹になってしまった。

政治は硬直化し、妥協は廃され、一つの考え方だけが正しいとされた。中には個人崇拝まで突っ走った体制もあった。そしていったんそのような泥沼に入り込むと、大きな犠牲を払わなければ修復することができないことも分かった。

人間はおそらく試行錯誤の嫌いな生物なのだ。いったん強力だと思われる信条にしがみつけば、それをずっと通していることが心理的に能力的にも楽である。それが政治のような大きな体制になった場合はその効果はますます増幅される。それは反対者を排斥してしまうほど強力である。

大勢の人々の意見の協調によって機能するはずのいわゆる民主主義でも少しもその弊害を押さえることができない。むしろ選挙民に対する巧みな宣伝効果や洗脳によって、かえって極端化が進む場合すらある。

やりすぎてもいけない、

やらなすぎてもいけない、

とかく人間は極端に走りがち・・・

極端な姿勢がそのまま継続するのは、人間に全体を見通す大局的な姿勢がないからに他ならない。「樹を見て森を見ず」というように人間の視野はきわめて狭いのである。狭いどころか、いったんある方向を見たらそこから方向転換をすることすらきわめて困難なのである。

このように融通性のない人間の頭がこの世の中の複雑な諸問題に対処するときすべて一面的な見方しかできないから、その方面に闇雲に突っ走ることになる。これが極端が生まれる原因である。なお悪いことに自分が極端に走っていることに対する自覚がない。

これにさらに状況を悪化させる原因になっているのが、協調性と利害である。人間は個人的には非常に不安定な生き物で、自らの方針でひとり進むことのできる人はまれである。常にまわりの流れに乗り遅れないように自分を調整しているのが常だ。

まわりの人々がある方向に進み始めると、それにたとえ欠点があることが分かっていてもそれに反対を唱えることは不安であるし、実際反発を食らう。真の反逆者でない限り流れに沿って漂っていくのが大多数の人々の常である。これはまだ人間が狩猟時代に協力して獲物を捕っていたときの名残であるとも言われているが、もしそうだとすれば、かつての生存のための知恵が、かえって裏目に出ているともいえる。

だとすれば、いわゆる「選挙制度」も空疎な制度だともいえる。選挙は個人の自発的、他から強制されたり影響されたりすることのない意見の反映ということが建前になっているからだ。実際は単なるロボットが投票所に向かっているという場合も少なくないのだ。

これに輪をかけて危険を増しているのが、利害関係である。極端に走ることによって、さまざまな害は出てきても、それが自分にとって利益のある面を持っているとすると当然の事ながらしがみつきたくなる。それが他社にとって害であるかどうかは当面は眼中にない。とりあえずいったん確保できた利益を守るためには必死でそれを維持しようとする。

いわゆる「改革」という名で極端を廃しようとしても多くの場合そこに抵抗勢力が生まれ、必死でその流れを止めようとするが、力関係が逆転しない限り、最後まで改革を成し遂げることは難しい。

ここまでは政治の世界、つまり集団としての人間における中庸の維持の難しさを語ってきたが、このことは個人の場合にそっくりそのまま当てはまるだけではなく、押しとどめようとする力が働かない場合には、止めどなく事態が悪化し廃人に至る場合が少なくない。

肥満、拒食症、アルコール中毒はその典型的な例である。個人的に誘惑に耐えたり、自己管理をする力に乏しい場合、家庭でのしつけが不十分だった場合、外部からの働きかけは用意にその個人を極端な方向に走らせる。それでなくとも現代社会は、テレビをはじめとするメディアによって宣伝効果が強力で、欲しくも必要でもないものを無理矢理買わせてしまうように消費者かが構築されているから、それによる犠牲者はあっけなく自己の進む方向を見失ってしまうのである。

かつては家族の関係や、近隣との関係、地域共同体の内部での関係が緊密であったから、かなりの人々が極端に走ることが防止できた。だが、個がバラバラになってしまっている現代では、ある方向へ流されてしまう傾向が昔に比べて格段に大きい。しかも個人個人にそのような脆弱性があるという自覚がないから、ひとたまりもないのだ。

ここにひとりの腹を空かした個人がいる。少し食べればそれでその空腹は収まるのだが、テレビのコマーシャルで、小腹をすかした場合にこのような美味しいおやつがありますよということを知らされると、さっそく買いに行く。その味は万人が病みつきになるように調整されているから、再び買いに行く。暇なとき、退屈なときに食べる習慣ができあがる。

そのうちストレスがたまったり、気分的に落ち込んでいるときに食べるとだいぶその不快な気分が和らげられることに気づく。そもそもそれまでそのような精神的な落ち込みに対処する方法を身につけていなかったものだから、たちまち食べることによって解消するというパターンに入り込んでしまう。

そのあとは地獄への一本道である。気づいてみれば、体重は100キロを超え、心臓病、糖尿病などの病気を抱え、病院の世話にならなければならない自体に陥ってしまっているわけだ。おやつなら、適度に、一週間に1回ぐらいで30グラムぐらいを食べればよいのだというような当然のことがまったくわかっていない。それを忠告してくれる人もいない。いたとしても聞く耳を持たないのが現状だ。

このように個人の場合は、社会的な場面に比べると、極端に走る可能性が高く、破滅まで行くことが珍しくないのである。集団の場合だと、図体が大きいため、その進む速度は遅いが、方向転換をするには、非常に大きなエネルギーが必要である。極端が解消するまで多大な犠牲を払うことになる。

現実社会の動向は、極端ともう一方の極端の間の微妙なバランスを取ることで得られる。それは政治の世界で言う「妥協」ではない。妥協は、仕方のない合意であり、積極的な解決策へ向かっているわけではない。単なる反対派をなだめて乗り切ったというだけに過ぎない。

それでも集団の場合にはさまざまな勢力の間での拮抗作用により最悪の事態を避けることもできるが、個人の場合にはその個人が引きこもってしまった場合にはどんな手も施しようがない容易に極端な方向に向いてしまうのである。

また、イデオロギーは極端に走りやすい。政治的なものでは最近の”自由主義社会”への行き過ぎのことが例として挙げられる。悪平等社会における競争の存在しない腐敗した社会から、多くの人々が貧困に落ち込み少数者だけが浮遊の恩恵を受ける社会に社会はまるで時計の振り子のように振れてしまった。いずれの社会も悲惨を生み出した。現実社会ではその間の中間をたどる道が以下に難しいことか!

ブッダは言った。正しい道を選ぶことが大切である。まさにその通りだが、両側が急な崖で、幅が30センチしかない尾根道を行くのと同じで実に困難なことなのである。

2005年5月初稿2009年3月追加

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