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人類は地球生物にとって癌か?

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人類が地球上に現れてから数百万年にもならないという。地球の長い歴史を1年にたとえると大晦日の11時59分以降のことにあたるという。それほどまでにわずかな期間に出現した生物が地球全体の存在を脅かすようになったのはいったいどう説明したらいいのだろうか?

現代は、この地球の生命にとって3度目か4度目かの大絶滅期にあたる。かつて大隕石が落下したり、火山の大爆発があったり、その他原因不明の出来事で、地球上の生物は危うく全滅しかけた。だが普段から多様な生物を産みだしておいたおかげで変化した環境になんとか適応できる種が生き延びて再び地表を生命で満たすことができた。

20世紀から21世紀にかけてのこの大絶滅期は、これまではまったく様相が違う。それは人間という種による自然界への侵入と占拠によってほかの生き物の生息地が奪われてしまったこと、産業活動による多種多様な汚染物質が生物の住むあらゆる場所、つまり空中、水中、そして地中にまでばらまかれてしまったことだ。今回に関しては生物がいかなる多様な種類を備えていても、とても対処できる事態ではないのだ。

過去を振り返ってみると、人間以外の生物で地球規模で他の種に対して大きな影響を及ぼしたものはない。ほとんどが地域限定であった。ただし、アンモナイトや三葉虫はかつて世界中のどこの海にもいた。これほどの広範囲に広がった種は珍しい。当然彼らの生み出す排泄物の量や、彼らが食する特定のエサの減少、そして専門にこれらの生物に住み着く病原菌などによって、最後には絶滅してしまったようだ。

人間が初めてアフリカ大陸に出現したころ、その数はわずかなものだったらしい。ただ、火を使い武器を作り、猛獣を倒すあたりから次第に環境に対するインパクトが高まってきた。ただし現在でも残っている森林に住む原始民族の暮らし方を見ると、掟を作りタブーを設けて自然界とは一応の折り合いをつけている。つまり無制限な搾取や開発を行うことはない。人口も昔と変わらず暮らし方は「存続可能」なスタイルを取っている。

ホモ・サピエンスがほかの猿人を抑えてトップに躍り出たのはおそらくその「攻撃性」であろう。攻撃力は積極性、自主性、新奇を求める傾向、好奇心を産みだした。これらはすべて現代社会では高い評価を受けているものである。だが、この根本となる攻撃性は結局は同種に向かうことになり、原始民族でも現代人でも判で押したように好戦的で、戦争は生活の一部であった。

原始時代においては戦争は狼のような捕食者を持たない人類にはどうしても必要な人口調節装置であったと見てよい。だがこの攻撃性が戦争という破壊以外の方面に向くとこれが様々な形で現れることになる。

その一つが都市と文明の出現である。攻撃エネルギーは、都市に集まることにより物欲、名誉欲、その他あらゆる種類の欲望に一部姿を変えた。人間の持つ攻撃性は抑えられるどころか、別のもっと多様な形になったので一層強化されることになったのだ。人々は商工業にいそしみ、巨大な建築物や帝国を作ることによっていっそうそのエネルギーは発揮されるようになった。

これが不幸の始まりであった。今イラクの砂漠やギリシャの荒涼たる森林のない光景は文明によって作られた。すでにこの時代から自然の破壊は徹底している。ただ科学技術が不足していたから小規模で済んだというだけである。

人間エネルギーのもつ最大の特徴は内面的にも外部的にも歯止めが利かないということである。儲かればもっと儲けようとするし、開発を行えばさらに開発する場所を広げようとする。アメリカ大陸の西部開拓時代のころ、人々は西へ進む意欲を「 manifest destiny 明白な運命」などと名付けて当然のことと思っていた。遂に太平洋西海岸に到達すると、今度は海外に開発の場所をもとめて止まない。

かくしてそれまではバランスと多様化によって維持されてきた自然体系にまったくこれを無視するタイプの単一生物が出現してしまった。これはちょうど体内にできた癌初期の形態とそっくりである。いったん増殖が始まるとそれは止まらない。まわりの組織を破壊してもお構いなく癌細胞はどんどん増殖する。

しかし人類のすべてが一方的増殖に向かっていたわけではない。種としての危機をすでに感じ取っていた人々、ブッダ、ソクラテス、キリストなどは、欲の増大や止まらない攻撃性に警鐘を鳴らした。だがその支持者はごく少数派にとどまり、原始集団の間はよく理解されていた彼らの思想も、世の中に広がり大きな教団ができたりするとたちまちのうちに形骸化してしまった。

宗教家たちの呼びかけが外的な抗ガン剤だとすれば、攻撃性を抑えるには最新の科学技術による薬剤や外科による方法がある。ただすでに前頭葉切除手術によって広く理解されているように、生物学的性質を変えてしまうことは同時に本来人間の持っているほかの大切な性質も奪ってしまい、人間性そのものが別のものに変わってしまうだけである。

かくして人類はその進化の袋小路にやってきた。後戻りをすることはできない。少人数グループとして攻撃性をうまく抑えたコミューンを作ることは可能かもしれない。事実ニューギニア原始人などは何万年もの間、同じ生活を続け滅びもせずといって進歩もせず同じ状態を維持することができた。

だがこの方針を65億の人間に適用することはまったく不可能である。今経済発展を急激に行っている中国、インド、ブラジルなどに今すぐその開発を止めさせることはできない。アメリカ人の車を、浪費を直ちに止めることもできない。

増殖した癌細胞はついにその宿主の生命を侵しはじめる。転移の開始である。具体的には限りなく増大する浪費(これを内需とよぶ)を前提とする合衆国式消費生活が世界中に「転移」した。残念ながら21世紀はちょうど「末期癌」にあたる。

もちろん癌患者の中には、治療もしていないのに、自然に癌が小さくなったという例もないわけではない。だがその多くは内臓がやられ大きな苦痛と共に宿主が再起不能となる。過去の大絶滅では、わずかながらでも次の時代を引き継ぐグループが存在した。ところが人間は原発を作ってしまった。これが人類滅亡後放置されると、その割れた炉心が大気中に露出し、今後何千万年もの間地球の環境を汚染し続けることになる。そのような強力な放射能の中でも元気に生き続ける種があるかどうか。

このようにしてみるといわゆる「知的生物」というのはすべてこのような運命にあるようだ。知的になるためには意欲がなければならない。意欲が生じるためにはもっと原始的なレベルで攻撃性が存在していなければならない。100万年前のサル的人間は「殺し」が職業であったのだ。これは猿人の頭蓋骨の中で明らかに棍棒で(右利きによって)殴られてできた穴があることで証明されよう。

宇宙に思いを馳せる人々の中にはこの広い宇宙にはきっと知的生物がいるに違いない、われわれ人間は孤独ではない、と信じて日々電波望遠鏡を暗い空間に向けている人々がいる。いつか宇宙人の発信した信号が地球に到達するだろうと。だが、知的生物の進化の過程をたどってみると、どこの星でも彼らは環境問題でつまづき、結局の所われわれと交信するほどの文明を築き上げる前に確実に絶滅してしまっていると考えてよかろう。

このような推論は別にペシミスティックなものではない。「知性」というものを身につけたこと自体が、最終的に運命づけられている到達地点なのである。もし運良く人間だけがこの地球から消滅し、放射能汚染が広がらなかったとすれば、ある作家が言っていたように、「地球は太陽が膨張を開始するまで緑なす山々におおわれて存在し続ける」のであろう。

2006年10月初稿

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