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2050年以前に終末が来る?

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2007年に開かれたサミット(先進国首脳会議)で、日本の総理大臣、安倍氏はきわめて注目すべき提案をした。それは2050年までに世界の二酸化炭素排出量を半減させようというものであった。

これには各国の首脳陣は賛辞を連発し、一躍安倍氏は人気者になった。どうしてこの提案がこんなに暖かく受け入れられたのか?その答は簡単だ。このサミットに出席した政治家たちはだれも2050年に生きてはいない。だれもそんな空想に責任を負う必要がないから全会一致を見たのだ!

さて、こんな皮肉な話を待つまでもなく、地球の方は年々温暖化の度合いがひどくなり、そのスピードは科学者たちの予想を上回ってしまっている。一方政治家たちの温暖化防止への動きは亀の歩みよりのろい。

20世紀の最後の年が近づいた頃、盛んに終末予言が出回った。中でも「ノストラダムスの大予言」は大人気でベストセラーになったものだ。しかし考えてみれば人間が勝手に作った時代や年号の変わり目で何か特別なことが起こるなどというのは、よほど狂信的な宗教者でない限りまともに取り合えるはずはないのだが。

また、20世紀ははじめて原爆が兵器として実際に使われたため、人類は核爆発によって滅亡するという説がまことしやかにささやかれた。しかしまともな頭を持つ政治家であればそんな自殺行為はまず考えまい。彼らは何をおいても利得を目指すわけだから、自分たちの損になるような戦争をやるわけがない。ただの脅しだけである。

他にもさまざまな終末論がささやかれたが、結局のところ人類の種(しゅ)としての運命を考えると、他の過去の生物たち、つまり恐竜やアンモナイトなどのように、その数を増やしすぎて地球全体の多様性に反する状態になったときが潮時のようである。

現代社会に特徴的なのは、いや人類発生以来ずっとそうだったのは、「ゼニを得るためには何をしてもよい」と「ゼニを払いさえすれば何を手に入れてもよい」の二つの基本原理である。これがおかしいことに気づいている人もいるが大勢によってその声をほとんどかき消されている。

このように人間の場合の最大の敵は「欲」であった。これは紀元前にソクラテスやブッダがちゃんと警告していたにもかかわらずまともに取りあげる人はまれで、絶対多数の人々は自分たちの欲しいものを求めてまっしぐらに進んできた。人は欲によって栄え、欲によって滅びるのである。

この傾向はイギリスで始まった産業革命までは地球規模に広がることはなかったが、機械文明がいったん主役を担うようになると加速度的に人類の勢力は拡大してしまった。この考え方がある限り、地球温暖化の解決は絶対にない。ということは人類滅亡はもう予定化されているということだ。

人類がその知識を利用して最初に実行したのは「自己家畜化」である。自然淘汰の原理に合わない方法で自己に適した環境を一方的に作ったものだから、そこからは自然界が処理することのできない排泄物が生じることになってしまった。

これはある種の動物が増えすぎるとそれぞれの個体から出てくる毒素で中毒にかかり主として衰退する図式通りである。そして楽観論者たちは人間の「理性」がこれを解決できると信じていた。つい最近までは。しかし理性があろうとなかろうと、環境汚染のスピードの方がはるかに早く、もはや取り返しのつかないところまで来てしまった。

人間に理性がないとは言わない。もちろんふんだんに持っているはずだ。だが欲が押し進める環境変化の方がずっと早い。「民主主義」というすぐれた方法でああでもないこうでもないと議論している間に、事態はすっかり手の着けられないほどに深刻化していた。

マスコミの論調を見ると「我々は何とか努力しなければならない」などともっともらしく言っているがこれを書いている本人は本当にそれで問題が解決すると思っているのだろうか。アメリカ・中国・インド、そしてそれらに続いて経済成長を追い求める国々は自分たちの出す排泄物がどうなるかについての簡単な計算ができないはずがない。

また、たとえば石炭や石油による火力発電が二酸化炭素を多量に排出するということが明らかになると、潜在的にはもっと多量のに酸化炭素を排出することになる原子力発電に飛びつこうとする。ついこの間のチェルノブイリの事故のあとは原発をみな廃炉にしようという考えさえ出てきたのに・・・

そして興味深いことには「省エネに努力しよう」とは言っても、だれひとりとして「電力消費を規制しよう」と言い出す人がいないことだ。人類がここまで得てきた物質的繁栄は決して譲れないのだということがよくわかる。

人々は「そのとき」が来るまで自分たちの行為のもたらす深刻さについてまともに取り合おうとはしない。人間には自分の不都合な面については目をつぶるあるいは完全に情報をシャットアウトするという特技があって、今までもいつもそうであったが、この局面に来てもあいも変わらずそれを続けている。曰く、「温暖化はまだはっきりと学問的に確定したわけではない・・・」などと述べている。

その言い方を聞いて、喫煙の害が言われ始めた頃の「タバコ無害論者」のとった態度を思い出す。ニコチンが健康に悪いということが一般に定着するまでにかかった時間を思い出すとよい。環境汚染はニコチンよりもはるかに結論を出すことの難しい問題だ。全体の見解が一致を見るまでには三百年はかかるだろう。

だが、地球は待ってくれない。残念ながら我々は餓死するか、熱中症で死ぬか、他の大勢の犠牲のもとに何とか命だけはとりとめるかどれかになる。60億の人口は2億程に減少する。そうなれば環境汚染はストップするがいったん始まった温暖化がすっかりとまって元に戻るまでには1000年以上はかかる。

もはやこの考えは悲観論者のものとはいえないだろう。しかし一方では先進国では次々と自動車を作り石油を燃やし続けている。まるで何も変化が起こらないかのように。その動きを何人も止めることはできない。それは経済発展という「欲」の別名による至上命令だからだ。

今暴走機関車はコンクリートの壁に向かって時速200キロで突っ走っているのだが、その現実に目覚めてラジカルな方法を採ろうと考えるのはごくごく少数の人間だけだ。残念ながらどんな考えを持っていてもこの動きを止めることはできない。みなその列車に乗り込んでいるし飛び降りることもできないからだ。

さて、21世紀が始まってまだ7年目ではあるがこの調子であれば、あと15年ぐらいが人間がガマンして暮らせる状態にあるだろう。それ以降は地獄だ。そのときになってあわてて何かの処置をとってももう遅いのである。

人類の21世紀全般での滅亡は確定的なのだろうか?確定的である。ただ一つだけわずかな希望がある。それは何か?世界の経済は今アメリカを中心にして回っているが、何らかの原因でその経済が完全に破綻し、活動が停止してしまう事態である。これはSF的な発想であるが、1台の自動車も生産できず、1滴の石油も手に入らないことになれば、人類の大部分は死滅するにしても一部は生き残ることができるかもしれない。

残念ながらそれ以外に託す望みは見あたらない。他の方法としてはサミットの参加者のようにその事態が訪れる前にこの世を去ってしまうことである。歴史の証人として滅亡の一部始終を目撃したいと思う人は、たとえようもない苦しみを覚悟するしかあるまい。それにしてもこの文の予想が完全に外れて著者が馬鹿にされることを心から望むものである。

2007年8月初稿

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