政治時評

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民営化から公営化へ

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民営化から公営化へ

日本の地方を回ると、建物は立派だが、誰も歩いていないゴーストタウンが連続しているのに気づく。たまに出会うのは高齢者ばかりで、あいさつをすると久しぶりに人間に出会ったようなうれしそうな顔をする。子供はほとんどまったくといっていいほど見かけない。

日本が、不況ではなく高齢化と少子によって少しずつその活力を弱めていくとき、人口が都市部だけに偏り、地方はどんどん人が逃げていく状態を政治家たちはずっと放置してきた。しかも「自由競争」という最新の米国経由のはやりに踊らされて、国が進むべき方向をすっかり見失ったようだ。

この十数年間のいわゆる民営化は、たとえば市役所の仕事も、職員ではなく、下請けアルバイトにさせるという具合に変わり、これが歳出を最も安く上げる方法だと彼らは自負している。また、各地の郵便局はいずれもあのオレンジ色の看板を立て、曲がりなりにも民営化したことになっている。

国家がこれまで引き受けてきた、少なくとも責任を負うことになっていた事業がどんどん民間の手に移り、企業の手に任されているのである。その結果、日本社会は効率的になったのか?無駄のない仕事をみんながやるようになったのか?

答えは否である。アメリカやイギリスでもてはやされた方法はそれぞれの国で、金融ショックという形でしっぺ返しを受けただけではなく、日本においても貧富の差の拡大、その差を縮める努力の不在によって、ますます情勢は悪化の一途をたどっている。

たとえば身近な例として携帯電話を挙げてみよう。仕事で誰か適当な相手を見つけたとする。これから頻繁にその人と連絡を取りたいのだが、その人の携帯会社と自分の携帯会社が違う。おかげでやり取りに余計な金がかかり、細かいシステムが違うものだから、その点を飲み込むのにひと苦労だ。一方のカバーする電波の範囲はもう一方のカバーする範囲と異なり、旅行する人にとっては不便この上ない。

東京の人が大阪に取引先ができて、頻繁に新幹線で東海道を往復する。だが東京のシステムと大阪のシステムは異なり、切符一つ買うのにも面倒な違いを覚えなければならない。時間的距離が縮まっても、機能的な距離が依然として遠いままだ。東京駅には、JR東日本とJR東海の事務所が別々に存在し、別々の観光案内などの業務を行っている。

宅配便を使って遠くの知り合いまで荷物を送りたい。いくつもの会社があって、西日本に強いところもあれば、東日本に詳しい会社もある。小さな町に一つで十分なはずなのに、それぞれの会社が赤字を覚悟でいくつもの営業所を設置して顧客のサービスに努めている。狭い路地にはいくつもの宅配便の会社のトラックが道をふさいでいる。

日本の郵便局のすぐれたところは、郵便の配達だけでなく、送金、貯金、保険まで一括して面倒を見ることのできる、いわゆる本物の”コンビニエンス”だったことだ。それが民営化によって雑務が増え、業務はばらばらになり、その存続は赤字か黒字によってきまり、そうでなくとも過疎化の進む地方での中心的存在を果たすことができなくなった。

ここにあげた、「携帯電話」「鉄道」「宅配便」「郵便局」は、民営化、自由競争化によって、受益者が利益を受けるどころか、かえって不便になり、社会全体としてのコストが著しく上昇した例である。他に、「健康保険」「高齢者介護」「水道」「電気」「エネルギー源」などがあげられる。

なぜこんなことが起こったのか?それは日本全国どこに行っても同じサービスが受け入れられることが理想なはずの”画一的システム”がバラバラにされてしまったからである。いわゆる universal service がめざしていることは競争によって格差をつけることにあるのではない。

一方、電気器具、食べ物、娯楽など、”多様性システム”が求められているところでは自由競争がどんどん行われ、よりすぐれた製品やサービスが生み出されることが期待される。そこのところを政治家たちは履き違えている。というよりも糞も味噌もいっしょにして考えてしまう、彼らのお粗末さが問題なのだ。

自由競争は勝者と敗者をうむ。それがすすむと敗者が消滅し、勝者だけになる。多様性システムの場合、たいていは最もすぐれた製品が残るのではあるが、それでも最終的に競争はなくなって行き、最後には独占だけが残る。独占はかつてのマイクロソフト、現在のグーグルにみられるように、独善的排他的になって、”悪”の権力を振るうようになる。

画一的システムでは競争のポイントは価格でさえない。いくら鹿児島の鉄道の運賃が安くても青森の人には何の関係もない。関東ないなら1日で郵便が届くのに、田舎だと数日かかったりする。地域差は多様性どころか、不平等、そして不満を生み出すだけだ。必要なのは安定性と、信頼性だけである。これらに競争は必要ない。

私企業が受け持つ分野と、公的機関が受け持つ分野とをきちんと区別すべきだ。この数十年来の流れは、一方的に私企業がすべての仕事を受け持つ方向にあった。これには公的機関の持つ、非効率性、不透明性があり、がんじがらめの規制による企業活動の制限が原因であった。

だが、振り子は一方に触れすぎてしまった。当然もう一方のほうへ振れていかなければならない。これからは企業の暴走を防ぐための規制強化、労働者の雇用体制の整備、公共化、国営化に向いた企業の増大、自由競争によって拡大した貧富の差を”社会再配分”によって少なくする必要が今ほど痛切に感じられることはない。

2010年12月初稿

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