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PAGE 2 H O M E > 体験編 > 旅行記 > バルセロナ・マドリッド・パリ(2) ・・・外部リンク 予定通りバスは午前6時半に到着した。バスターミナルは大都市の場合中心ではなく周辺にあることが多い。都心へ入っていくときの渋滞を避けるためだ。今回は北の端にあるターミナルに到着。地下鉄の環状線の駅の一つ、Avenida de America (アメリカ通り)と連絡している。 マドリッドの地下鉄では10回用の回数券を買う。一枚なら1ユーロ、10枚で買うと5.8ユーロと格安なのである。まずは王宮が近くにある主要な国鉄駅プリンシペ・ピオ駅に向かうが、環状線はかなり距離があって、30分ぐらいかかる。 駅の外に出るとすさまじく空気が冷たい。海洋性の温暖なバルセロナに比べてこちらは明らかに大陸性である。夜間には厳しく冷え込んでくるのだ。この日は日曜日だから、朝の通勤ラッシュにはぶつからず、駅の周辺の人の数もまばらだ。 プリンシペ・ピオ駅は王宮のすぐそばだし、さらに北東に向かえば、マドリッドいちばんの大通り、グラン・ビアに通じているのでまずここを出発点に選んだわけだ。まだ王宮の庭園は閉まっていたので、まずはそのまわりをぐるっと回って王宮に向かうことにする。 スペインは実は王国なのだ。王制を廃してしまったフランスと違い、今でもちゃんとした王家が存在している。そしてその王宮は一般に公開されているのだ。ただ、すでにあの華麗なヴェルサイユ宮殿を見てしまった人は、この王宮の宝物や室内装飾を比較してはならない。こちらはずっと小規模で地味で節度が効いているからだ。 王宮を出ると、ツァーの観光客なら必ず通るであろうルートに向かう。つまり、スペイン広場→グラン・ビア通り→プエルタ・デル・ソル(太陽の門)のコースである。しかし通ったのが日曜日の午前中なので、人はそれほどいなかったし、バルセロナででっくわしたクリスマスの買い物の熱気は感じられない。それでも昼が近づくと人出が急激に増えてきた。 昼が近づいたのでマドリッドでの宿を見つけるべく、もう一つの主要な国鉄駅であるアトーチャ駅に向かう。この駅は世界でもまれなる「温室駅」である。巨大なガラス屋根のドームの中に、熱帯性の植物が鬱そうとしげり、その木々の間に、待合い用のベンチが置かれているのだ。ここでは列車を待っているのだか植物園でくつろいでいるのかわからなくなる。 こちらの駅周辺は、何といってもプラド美術館が徒歩圏内にあり、多くのレストランや施設、緑地が取り巻いている。そして格安宿もこのあたりなのだ。2回目のトライで、きれいなホテルを見つける。その名は「アトーチャ・ホテル」。よぼよぼのおじいさんが出てきて受け付けてくれたが、英語はまったくダメなのですべてスペイン語で交渉することになった。2泊することになる。 ホテルから道路を隔てて向かい側は、ソフィア王妃芸術センターである。現代美術を意欲的に取り上げているが、あのピカソの「ゲルニカ」を所蔵していることでも知られている。幸いこの日は無料デーだった。窓口に行くと切符をただでくれるのである。ただこれは館内にいるときは常に携帯してなければならない。というのもそれぞれの展示室に行くたびに職員が提示を求めてくるからである。このような厳重さはバルセロナでもマドリッドでも同じだった。 この日は、2日後のパリ行きのバスの切符も買っておかねばならない。切符を買いに右往左往するのも旅のうち。バスターミナルは今度は環状線の南の端、メンデス・アルバロ駅(Mendez Alvaro)にあるのだ。結局朝の北のターミナルとあわせてぐるっと一周することになる。こちらのターミナルは、スペイン南部や国際線が多く発着する。 会社はバルセロナからの場合と同じく Alsa だが、国際部門は切符売り場ではEurolines と呼ばれている。出発する曜日によって値段が少々違う。パリまで77ユーロ。この南のターミナルは広くて実に多くの方面へのバスが出入りしており、窓口を見つけるだけでも一苦労だ。
翌日はトレドへ行くことにした。トレドは、マドリッドの南70キロほどのところにある、中世の町並みをそのまま残していることで有名だ。まず地下鉄の駅に行き、T-zone の一日乗り放題の切符( Abono Turistico ; Zona T )を買う。バルセロナと同じくこの街でも観光客向けのお得なきっぷを発売していた。(地下鉄の掲示ポスターを見るとよいーMadrid Transportes) マドリッドは広いので、料金体系はパリと同じく、ゾーン制である。市内だけの狭い地域を最小のゾーンとし、それを郊外に広げて別の名前のゾーンで含んでゆく。Tゾーンとはトレドも含む地域なので、わずか7ユーロで市内からトレドへ往復できるのである。 まずアトーチャ駅から地下鉄で前の日に切符を買いに行った南にあるバスターミナルに向かう。トレドに訪れる観光客の数は断然多いので、ちゃんとトレド専用のバス発着場があるのだ。それでも例のきっぷを見せればすぐ乗れるわけではない。まずターミナル内にあるそのバス会社の窓口に出向いて、そのきっぷを見せた上で、きっぷを新たに発行してもらうのだ。乗り放題券を見せればフリーパスで済むわけではない。ここにスペインのお役所主義というか、非能率が垣間に見えている。 郊外へ向かうバスの車窓からは、急激に破壊が進む大都市の周辺地域が次々と現れる。赤茶けた土がむき出しになった広大な住宅用の土地。かつて十数年前の日本でもひどかったスプロール現象がここでは今真っ盛りなのだ。スペインも長年の眠りと経済停滞から目覚めたのはいいが、経済発展は結局犠牲を伴わずにいられない。閑話休題。 それでも都心から30キロ以上も過ぎるとようやく田園らしい風景が目に入り出す。マドリッドはスペイン中の人々を吸収して急激に膨張している。上海やニューデリーと大差ない。それでもいったん田舎にはいるとそこには昔ながらのスペインが息づいている。 だが、トレドに着いて見たものは、荒廃の進む建物と、外部からの経済発展が押し寄せる荒波による、街の危うい姿だった。たしかにまだ多くの狭い小路が残され、ふと中世にいるのではないかという錯覚をうむ雰囲気を持っている。だが、その幅が3メートルもあるかないかの石畳の道に、自家用車が侵入しているのだ。どうも規制がないようだ。 観光客はやって来る車のために道路の端に避難しなければいけない。きわめて不快な状況である。歩行者天国が実現しているのは、車が通れないほどの道幅の部分だけである。城壁に囲まれ、蛇行する河に囲まれたこのわずか直径2,3キロ余りの小さな町並みは、途中迷ったせいもあって?大部分を踏破することができた。 街の中心はカテドラルである。また、サンタ・クルス博物館というのがあって、キリスト教の遺物が展示してある。改装中ということでここも又入場料がただだった。又、この地域はドン・キホーテが活躍したと言われている地域である。彼の物語を織り込んだタペストリーが多数展示されている。 もう一つの見物、エル・グレコ美術館は、探すのに大変な苦労をしたにもかかわらず、休館日だった。実は地図を持っていかず、掲示板の道しるべだけを頼りにしたため、この街の迷路の中ですっかり迷ってしまったのだ。それにしても中世の時代にここの住民はよくもこんな複雑な構造の都市の中で生活できたものだ!でも北アフリカのカスバに代表されるように、都市の本来の暮らし方は車ではなく、徒歩でくまなく用を足せるところにあるのだ。
マドリッドの最大の魅力と言えばやはりプラド美術館だろう。ゴヤ、ベラスケスの作品はいうまでもなく、スペイン系の画家の作品が一堂に集められているからだ。マドリッド最終日は、前からこの見学にあてることに決めていた。その前に二つ程みたいものがある。 一つは西部に広がる広大な公園、カサ・デ・カンポ。そのためにわざわざプリンシペ・ピオ駅の裏手にあるロープウェイ乗り場まで行ったのだが、これが冬季休業(というよりは乗り場の荒れ果て方から見て廃業とみた)。まわりには誰もおらずさびれきっている。 マドリッドの街には意外に多くの緑地がある。王宮から見たときも、すぐ近くに山があるのかと思ってしまうほど豊富な緑が見えたのである。ただ、冬のヨーロッパでの公園探索はどうもそぐわない。寒さが身にしみる。 もう一つは考古学博物館である。アルタミラの洞窟の実物模型が展示されていると聞いていた。1879年にスペイン北部のサンタンデル近くで旧石器時代の彩色動物壁画が発見されたのだが、そこまで行ってみることも困難だからと、その模型が作られこの博物館にあるというのだ。 だが行ってみると、すでにその模型は撤去され、広告板だけがひっそりと立ち、あとはおみやげ屋でその写真が売られているだけだった(もしかしたらあったのかもしれない。目立たないところにあるから気付かなかっただけなのかも)。それでも館内には小学生たちの元気な叫び声に満ち、先生たちが大声を上げて人類の歴史について説明をしていた。 ネアンデルタール人から、ローマ時代に至るスペインでの人類の移動について一通り見たから、それなりに得るところがあったが、予算不足のせいか展示がいまひとつである。お目当てのものがなかったからいっそう残念だ。 こんなわけで午前中が過ぎてしまい、午後になってやっとプラド美術館に足を運ぶことになった。アトーチャ駅のそばだから行くのは簡単だ。すでにこのころには歩き過ぎで足が痛くなっていたが、最後の力を振り絞って見学して回った。かなり規模が大きいが、ルーブルほどではないので、一応すべての展示室に足を運ぶことができた。 残念ながら、おみやげ屋が小規模だ。どこかのガイドブックで見たアラーム時計があるかなと探してみたが、もう10年以上も前の話のこと、みあたらない。それにしても、この美術館に入ったおかげで、それまでは美術の教科書や本でした見たことのなかったものを多数本物としてみることができた。ボッシュの「快楽の園」などがそのいい例だ。
パリ行きの国際バスは一日1往復で午後8時発。今度はよい席を取ろうと、早めに行ってチェックインを待つが、職員が現れない。切符を買ったときには7時15分までには来るように言われていたのに。結局7時30分を回ってからようやくのんびりと係員が現れた。これに腹を立ててはならないとどこかの旅行記に書いてあったが・・・おかげで近くのショッピング・センター見学は取りやめ。 座席は8割以上埋まっている。座席指定の番号は、日本のように座席に刻印されているわけでない。単に窓ガラスに透明シールが貼ってあるだけ。前も後ろもそして隣もみな黒人だった。あとで聞いてみると、隣の青年はコンゴ出身でバルセロナ在住。ほかの連中はトーゴとかナイジェリアとかみな出身地が違う。だが、皆フランス語を話す。 皆スペインやフランスに出稼ぎに来ているのだ。そして運良く国籍を取得できることを願っている。あとは大部分がスペイン系の白人だった。時刻通り出発した。前日にトレドに行ったときと似たような風景がしばらく続いたが、郊外が途切れると、突如として地平線が真っ暗な中に現れた。 あとはなだらかな起伏の中を、ほとんど直線の道路が続き、横は小麦畑だろうが、暗くてよく見えない。しかも高速道路は掘り割り式が大部分だから昼間であっても車窓は余り変化がないのだ。この点鉄道だと実に多様な風景が展開する。時間が許せば、鈍行列車でパリに向かうのだが。 マルセイユなどの南仏を通るバルセロナ→パリ路線と違い、マドリッドからだと、まっすぐ北上してブルゴス Burgos を通りビクトリア Victoria を経て大西洋岸、ビスケー湾に臨む街サン・セバスチャン San Sebastian に至る。ここから国境は一息だ。 バスはトイレがついていないから、2時間おきぐらいにコンビニタイプの店に止まる。第1回目の停車のときは全員バスから降りるように言われた。理由はわからない。全員店で買い物させるためか?それとも治安上の理由からか?平穏だったマドリッドに比べ、大西洋岸に近づくとビスケー湾からであろう冷たい横殴りの風が猛烈に吹き付け、この巨大なバスでさえ左右に揺れるのだった。 国境を越えると、ワインの産地ボルドー Bordeaux で少し客が降りる。このあたりだろうか、検問所らしきところでバスは停車し、フランスの官憲が乗り込んできた。ところが調べられるのは黒人たちだけなのである。徹底的に質問を受け、顔写真を念入りにチェックされ、手荷物で不審な点があれば、直ちに開けさせられる。 隣のコンゴの青年も例外ではない。アフリカ大陸からスペインを通り、フランスへ、そして北欧への不法入国者が跡を絶たないと聞いている。そうでなくてもこれらの国々では、外からの流入を減らそうと必死だ。しかも先月11月に起きた、フランス各都市でのイスラム系移民の暴動が起こったばかりで当局もかなり神経質になっているのであろう。 このあとポワチエ Poitiers を通過し、ツール Tours でも数人客が降りた。このあとで再びバスは料金所のところで停車を命じられ、官憲のチェックを受けた。今回は全員がパスポートの提示を命じられる。またしても黒人の場合には時間をかけている。ただ一人の日本人である私は、パスポートをちょっと見ただけですぐ終わった。 フランスの西部も高い山がないから、なだらかな起伏が続き小麦畑や、草原があらわれる。オルレアン Orleans を過ぎたあたりから、パリの首都圏に入るから、急に通過する車の台数が増え始める。片道3車線から4車線へ。運転手は途中で交替して3人目だが、検問のせいでバスが遅れているため、トイレ休憩を省略して早く目的地に着こうとする。 ツールから乗り込んだ3,4人の若者たちが、休憩がないことに腹を立て、運転手に止まるように要求した。運転手は規則を盾にとって頑として応じないものだから、口論になった。運転中だし、車が混んできたから危険この上ない。運転手はどこかのバス停に止めると、若者たちの特に強硬な男に向かってバスを降りるようにと命令した。あわや殴り合いの喧嘩になるところだったが、その男の仲間たちが引き留めてあわやというところで回避されたのである。 運転手は特に長距離では常に危険にさらされている。アメリカでニュー・オリンズからマイアミへ行くグレイ・ハウンドバスの運転手は座席の下に銃を置いていると聞いている。今回は暴力沙汰にならなくて済んだが列車と違って密室性があるので、いつ事件が起きてもおかしくない。 結局パリのターミナルには12時45分のところを30分遅れで到着した。17時間の旅である。パリと成田では行きが13時間、帰りが11時間だから、これはかなりの難行だ。到着するやいなや、乗客たちは一斉にトイレに突進する。私も含めて。
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