(2016年3月)

Nirobi National Park

目次

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ポルトガルへ

リスボン市内→シントラ周辺ベレン地区

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第2の都市ポルト

第3の都市コインブラ

再びリスボンへ

記 録

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第2の都市ポルト 

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次は第2の都市ポルトへ向かう。ポルトガルの名前のもとになった町であるが、「港」が語源である。リスボンよりずっと北のほうにあり、さらに北へ向かうとスペインとの国境にぶつかる。ここに向かうには鉄道とバスの両方があるが、まずは高速バスに乗って出発することにした。乗客は最初は満員だったが、途中で降りるので、最終では半分ぐらいになった。大都市ではない。
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高速道路を降りると、市内への道路に入るが、突然大きな川(ドウロ川)にかかる橋を渡る。ポルト市のバス・ターミナルは鉄道駅のそばだった。写真の左側が駅舎。
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駅の内部に入ると前の壁に青い色のタイル(アズレージョ)が目に入る。ここはホームに入る手前の大広間で、たまたま若者たちがダンスを踊っていた。ここでもリスボンにならって、「ポルト・カード」を買ったが、ケーブルカーや市電が使えないという。大失敗。
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宿泊したホテルは、地図の読み違いで3キロほどドウロ川の河口寄りにタクシーで向かい、たどり着いたが、なんとそこは高速道路のインターチェンジのど真ん中で、周りには食べ物屋も何もない。

かなり作りのいいホテルなのだが、たまたまロビーとレストランだけを改修中だったので、すごく安い料金設定で泊まれた。ホテルの係員に聞いて、バス停の位置を聞き、それに乗ってとりあえずメトロ(といっても地下式市電)の駅に行ってみる。

「カサ・ダ・ムジカ(音楽の家)」の名前の通り、広場の横に、大きな音楽堂が立っている(写真中央)。バスでまずこの駅に行き、それからさらに観光名所でいっぱいの旧市街に向かうことになった。

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ドウロ川にかかる高速道路の橋(アラビダ橋)から見た、河口。右側が旧市街川の岸で、左側の森のようなところが、わがホテルが建っている。この通り大変、海に近い。
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翌日、その高速道路の橋(アラビダ橋)に歩道があったので、歩いて渡り(そんな酔狂な者はほかにいなかった)対岸の市電通りを旧市街中心部に向かって歩く。すると市電がやってきた。リスボンのは黄色だったが、こちらでは茶色だ。
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この日は1時間ごとに5分ぐらいのパラパラとしたにわか雨というあいにくの天気で、ずっと曇り空だった。ドウロ川をさかのぼって歩いているわけだが、両岸に立つレンガ色の建物が美しい。
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まずは駅から歩いてわずか数分のところにあるクレリゴス教会。これは正面で、そのうしろにやたら高い尖塔がある。
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クレリゴス教会の内部。下の信徒席にも行けるし、上層に設けられた回廊上の通路からこのように見下ろすこともできる。
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そして駅とは反対の面にそびえる尖塔。相互交互通行の狭い階段を上ると、町全体が眺望できる。
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クレリゴス教会から、狭い急な階段を川面の方面に下っていくと、サン・フランシスコ教会に出た。この石像にあるアッシジの聖フランシスコは、小鳥と語りキリスト教の新局面を切り開いた。14世紀に建造され、その古さはすべてに漂って苔むしている。

切符売り場のお姉さんの調子の良さに乗せられて、うっかり1ユーロで案内書を買わされてしまったが、今になってみるといいものをもらったと思う。

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サン・フランシスコ教会のすぐ隣がボルサ宮。なんで単なる商工会議所なのに、観光客が集まるのかといえば、これはある女王がポルト市の商業発展のために自分の住まいを寄付したからだ。このため素晴らしい内装がそのまま残っている。館内に入ると、英語続けてスペイン語ではなすガイドのあとについて回る。
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このためボルサ宮ではこんな部屋も存在する。この部屋の壁模様を間近で見ると、イスラム様式であることがわかる。また、一見木材でできた部屋と思いきや、実は石膏の上に木の模様を描いたものもある。
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そのボルサ宮の中に、最低2ユーロで、各地のワインを試飲させてくれるコーナーがある。交通系のカードそっくりなものをもらい、差し込んで、自分の飲みたいワインの瓶の上のボタンを押すと100ccぐらい出てくる。2ユーロを超えて飲みたいときは、再びお金を追加してもらう。つまみはなし。
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ここで調子に乗って飲みすぎちゃいけない。外に出てから帰り道がわからなくなる!
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ここで、ドウロ川右岸におりたつ。ここは気持ちのいい波止場になっていて、カイス・ダ・リベイラ地区とよばれ、観光客が大勢歩いている。上流のうしろにはドン・ルイス1世橋が見える。
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カイス・ダ・リベイラ地区の下流方向
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昔、ポルト酒を運んだ船を模した観光船(ラベーロ)。
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ドン・ルイス1世橋のほうから下流を見る。
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無料のポルト酒見学ができるというので、メトロに乗りカフェのおやじに道を尋ねつつ、ワイン工場の入り口に来た。
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ここは観光バスが主なお客さんで、私のような個人客は、木戸のインターホンに向かって「見に来ました、入れてください」と叫ばなければならない。ほどなく門があき、ガイドの引率するグループに入れてもらえた。
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地下のポルト酒貯蔵のホワイト・オーク樽の列。ポルト酒はワインのアルコール濃度を強めたもので、長年の熟成が必要だ。
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実を機械ではなく、手で摘み、集めた実は足で踏んでつぶす、伝統的な方法を守っているそうだ。
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再びカイス・ダ・リベイラ地区に戻る。観光キャンペーンのお嬢さんの華麗な衣装が人目を引く。
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カイス・ダ・リベイラ地区出発のリバークルーズ船。ポルトガル語、英語、スペイン語の3か国語でガイド放送が流れる。
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まずは上流に向かう。手前の鉄骨の橋、奥の白いコンクリート橋が重なって見える。
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ドン・ルイス1世橋より下流の右岸は、このように見ごたえのある建築が多い。

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観察日記(7)

人種構成: ポルトガルの都市は、そもそも人口もパリやロンドンと比べても少ないが、人種の多様性においてもずっと小さい。その多くが黒髪の南欧系白人であり、金髪もかなり混じり、アフリカ大陸からの黒人も少し見かける。イスラム系も時折見かける。しかしアジア系はまず絶無といってもよい。やはり”田舎”の雰囲気イスラム系が強い。

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第3の都市コインブラ 

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第3の都市コインブラはリスボンとポルトとの中間に位置し、大学城下町だ。泊まったホテルは、かつては最高の装飾とサービスを誇っていたに違いない。古めかしいエレベーター、豪華なシャンデリアがそれを物語っている。

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到着日が日曜日だったために、空いているレストランを探すのは一苦労だった。真ん中に豚肉の腸詰(とはいってもソーセージとは違うようだが…)目玉焼き、そして両側にはライスとポテトチップスといった独創的な組み合わせ。

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このホテルの西側にはポルタジェン広場があり、レストランやカフェが並び、丘の上の大学へ通じる道が来ている。南側は、川岸(モンデゴ川)だ。
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バスでも、エレベーターでも丘の上に到達することはできるが、私は、急な坂道をあがって大学への入り口に近づいた。左のアーチは古代ローマの水道 橋。学生たちが通りゆく。
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これがコインブラ大学正門。球形の頭がついた門の間に、下からの階段が続いている。
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1290年創立。古いだけでは何も取り柄がないが、イタリアのボローニャ(1088年創立)と並ぶ最古の大学の一つとされる。黒い網目模様のところは鉄製なので、「鉄の門」と呼ばれる。この先は有料で、”旧大学”と呼ばれ、新しい部分と区別される。ここを無数の学生たちが、試験の結果に怯えながら通ったのだろう。

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大学の建物のうしろに有名な時計塔が見える。まるで北海道大学の時計塔と同じように親しまれている。教授や学生が「早く授業が終わらないかなぁ・・・」と利用価値が高いのだ。

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再び古代ローマの水道協のある通りへ。 2,3世紀に作られたものだろうが、首都ローマからこんな離れた場所でもローマ人の建築への情熱がうかがわれる。この水道橋のおかげでコインブラ大学は、一層重厚な雰囲気を作り出している。
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水道橋から右に曲がると植物園。ただし3月ではあまり見るべきものがない。
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コインブラ大学は丘の上にあり、そこからブラブラと下っていくと、モンデゴ川の岸辺に出る。そこは鉄道駅やバスの発着場があってにぎやかだ。途中で、ポルトガルの特産であるコルクを使った製品を売る店の前を通る。
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ポルタジェン広場からは、モンデゴ川にかかるサンタ・クララ橋があり、それを徒歩で渡ると、崩れかけた建物が見えてきた。度重なる洪水のために放棄されてしまった旧サンタ・クララ修道院だ。

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修道院の裏に回ると、この通り遺跡のような光景が目に飛び込んでくる。

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平日なので子供の声は聞かれないが、「ポルトガル・ペケニートス(リトル・ポルトガル)」と言って、子供向けにミニチュアの建築物を集めたテーマパーク。

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不幸にも月曜日であるために、入園しそこなった、「涙の館」への細い道。隣はゴルフ練習場。かつてイネスという侍女が王に愛されたが、身分が違い強大なスペインを恐れた家臣たちによって殺された場所だ。

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それで、別方向から回ると、貴族が行き来していそうな見事な馬車道が見えた。
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その馬車道の尽きるところにこの黄色いホテルが。これがかつての涙の館の一部だったという。そしてその裏手にはイネスが殺害された現場があるというが、そこは工事中で立ち入ることができなかった。ちなみにイネスを殺した連中は、恋した王の命令によって、後程すべて処刑された。殺し殺されるのが現実の世の中の出来事である。

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先ほどの旧サンタ・クララ修道院に代わって、高台に作られた新サンタ・クララ修道院の礼拝堂。今度は洪水の心配がないだけに、急坂を上らなければならなかった。

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新サンタ・クララ修道院の回廊に囲まれた中庭。リスボンのジェロニモス修道院につくりが似ている。

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コインブラ駅から南へ15キロ言ったところに古代ローマの作った年の遺跡があり、それが1,2世紀のころのものだという。さっそく観光案内所に行ってバスの時刻表をもらうと、何と向こうで3時間も待たなければならないほどの本数の少なさ。

仕方なく行きだけはタクシーに乗る。運転手が「Para ficar?(泊まりかい?)」と聞くのだが、その時は理解できなかった。もし泊まりでないなら、往復利用してもらいたかったのだろう。

25分あまり飛ばすと、オリーブの林の中に忽然と遺跡の入り口があらわれた。誰もいないと思ったらさもあらず。園内には考古学ファンらしき人々が結構いて、熱心に観察している。ただ一般の観光客はいないようだ。この写真のような見事なアーチに圧倒される。街の様子が非常によく復元されている。

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浴場のあと。ローマ人はどこへ行っても風呂好きだったらしい。しかも、ちゃんと配管を行い、お湯を沸かすシステムもこんな山の中で完成させていた。

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この残された3本の円柱はどんな建物を支えていたのだろうか。エジプトのアレクサンドリアにもこんな円柱があった。まさにローマ帝国は地中海の東にも西にも広がっていたのだ。

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煉瓦もきちんと積んで、円柱を作り上げている。向こうの赤い部分は、雨に弱い遺跡を守るための屋根。
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巨大な城壁が遺跡の真ん中を貫いている。今はオリーブ林に埋もれた片田舎なのに、当時は大規模な都市だったのだ。ローマ人の夢の跡。
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コインブラでの食事。魚ではなく、豚肉を焼いたのを注文した。その肉の堅いことに驚く。だが、肉の香りは良い。左上のツボは「Tinto」といってもって来てもらった赤ワイン。ハウスワインであるから、量だけが取り柄だ。

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観察日記(8)
キリスト教: キリスト教、特にカトリックが南欧諸国に広がった。そのためどこに行っても立派な聖堂があり、人々の心の支えになっている。フランスあたりでは啓蒙思想の影響もあって、宗教はすっかり力を失い、聖堂は観光地化しているが、こちらはまだまだ熱心な信者がいる。

ある社会学者の言うところによれば、キリスト教を捨て去った人々は代わりに睡眠薬や精神安定剤を必要とするようになったと説いているが、果たしてどちらが現代生活にあっているのだろうか?

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再びリスボンへ:アルファマ地区

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地方都市に4日間滞在した後、再びリスボンに戻る。こんどはバスではなく列車を利用する。座席のゆとり、運行時間の確実さの点においては列車が勝るだけでなく、ほかの国とくらべて、バスが列車より特に安いということもない。

ただ本数についてはバスのほうが圧倒的に多いが、区間で多くの乗り降りがあるためであろう。写真にあるような、赤い快速の列車には乗らなかった。もっとボロい区間列車のようなものにあたったのだが、途中に険しい山もなく、時速140キロを安定して出していたから、この小さな国の移動には全く問題はない。国際列車はあるものの、今の時点ではまだ新幹線は建設されていない。

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アルファマ地区は宿泊しているバイシャ地区の西に在り、その大半は急な丘の斜面なので、18世紀の大地震に起こった大津波の被害も受けず、古い街並みが残っている。

その中心的存在が「ファド博物館」だ。コメルシオ広場から海沿いの道を歩いていくとすぐに到達する。周りにはファドをうたうライブハウスが多数あり、まだ明るいうちに今晩入る店を決めておく。

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急斜面を覆うポルトガル風の建築物。

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狭い路地が続く中、こんな聖堂が時々姿を現す。丘の山頂には観光客が殺到するサン・ジョルジュ城といローマ人の砦があり、大変長めがいいらしいのだが、すでにローマ人の遺跡は見たし、あまりにもここの入場料が高いので入るのはやめた。

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いったんホテルに戻り、午後8時ごろ出直して、先ほどのファド博物館の近くにあるレストランに入る。予想通り入って間もなく満員になるような人気店だった。そしてファドの演奏者と歌手が次々と曲を披露する。ポルトガルの記念すべき夜だ。

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私のテーブルのすぐ右に歌手が陣取った。知らない局であっても、耳新しいリズムであっても、異国での音楽は魅力的だ。

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最後の夜の食事。分厚いタラの切り身。ただしニンニク入りのオリーブの中で煮たもの。

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観察日記(9)
ブラジルへ: ポルトガルの旧植民地のうちで、最も世界の注目を集めているのはブラジルだ。しかも今年はオリンピックを行うときている。

そして南欧のもつおおらかさ、悪く言えば”適当さ”まで、ブラジルはポルトガルから受け継いでいるようだ。どうも政治も経済も、スムーズな回転が行われていない。

しかし一方では、ポルトガル本国でうまくいかなくなった人は、一山当てようとブラジルに向かうのだろう。言葉は同じだし、似たような文化のもとにある社会だから、その点は行き先が八方塞がれている日本より恵まれている。その点はうらやましい。

さてそれではブラジルに行って、ポルトガル社会がどのように変容し発展しているのかを見てこようではないか!

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記 録

旅行期間 2016年2月29日より3月10日まで

2月29日(月曜) 成田空港よりエミレーツ航空 EK319便にて2200出発 機中泊

3月1日(火曜) ドバイ 空港へ0500着。(乗り換え)EK191便にて ドバイ0715発 リスボンPortela 空港1310着、リスボン市内バイロ・アルト地区見学 River View Hotel にて宿泊

3月2日(水曜) 市の西方シントラ周辺 見学 River View Hotel にて宿泊

3月3日(木曜) リスボン市内ベレン地区見学、 River View Hotel にて宿泊

3月4日(金曜) 長距離バスにてポルト市へ移動、Ibis Hotel にて宿泊

3月5日(土曜) ポルト市内見学 Ibis Hotel にて宿泊

3月6日(日曜) ポルト市内見学、長距離バスにてコインブラ市へ移動、Astoria Hotel にて宿泊

3月7日(月曜) コインブラ市内見学、コニンブリガ遺跡、Astoria Hotel にて宿泊

3月8日(火曜) 鉄道にてリスボン市へ移動 、アルファマ地区見学 River View Hotel にて宿泊

3月9日(水曜) Portela 空港発 エミレーツ航空 EK192便 1335発 

3月10日(木曜) ドバイ 0115着(乗り換え)ドバイ EK318便 0255発 成田空港 1720着

おわり

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