(2018年11月)

3435

目次

PAGE 1

イランへ

テヘラン市内→周辺地区

PAGE 2

イラン第6の都市シーラーズ

イラン第3の都市エスファハーン

再びテヘランへ

記 録 総まとめ

HOME > 体験編 > 旅行記 > イラン(2)

 

外部リンク・・・外部リンク


イラン第6の都市シーラーズ 

 

イランでは、他の品目に比べて、交通費が破格に安いので、鉄道の寝台列車を利用することにした。鉄道施設を撮影すると逮捕されるかもしれないので、残念ながら写真を残すことはできなかったが、ヨーロッパ風のコンパートメントの、2段ベッドの下の段でぐっすり眠れた。バスと違って、水平に横たわり、足を完全に伸ばせるのがよい。 テヘラン駅発午後10時ごろ、シーラーズ駅着翌日の正午ごろの列車に乗ることにした。

だが、初めての鉄道の旅、何から何までスムーズにいったわけではない。切符売り場の職員はみな英語が堪能なので問題なかったが、テヘラン駅で乗車する番線がわからない。職員に聞いてみると、私の乗る列車は始発がマシュハドという大都市で、テヘラン駅を経由してシーラーズに向かう。そして今その列車は予定より遅れているので、到着番線がぎりぎりになるまで彼らでさえわからないという!

なに!日本の鉄道とは想像を絶する違いに、言葉が出なかった。そんなことしたら、この20番線近くあるホームのどれだかわからなくて、うろうろしているうちに、乗り遅れてしまうじゃないか!ところが救う神あり。May I help you? と話しかけてきた家族連れの人が、やはりシーラーズへ行くということで、「私についてらっしゃい」と言ってくれた。テヘラン駅からシーラーズ方面に乗り込む客はかなりいて、お互いに助け合い、知らせ合って無事みんな乗り込むことができたのだった。システムの欠陥は庶民の連帯によって補われている素晴らしい例だ。

同じコンパートメントには、裕福な家庭出身の20歳前後の姉弟が乗っており、イラン社会の様々な側面を知ることができた。二人ともマシュハドから乗車し、シーラーズの実家に帰るところ。19歳の弟は兵役を終えたばかり。23歳の姉は大学で英語を勉強している。実家は会社社長をやって最近引退した親父さんが、余った資金を利用して農園を始めるところ。この二人を含む兄弟姉妹がその仕事を手伝うという。

高速バスと同じく、発車するとお菓子やミネラルウォーターも供給され、昔懐かしい食堂車もついているので、朝食を食べながらの車窓風景を楽しんだ。とはいえ、最初から最後まで灌木や背の低い草がまばらにしか生えていない岩山の連続である。

列車はわずか1時間ほどしか遅れずに、午後1時にシーラーズ駅に到着した。(インドでは5時間遅れた経験があるので、これは正確無比といえる!!)シーラーズ市のメトロの路線はこの駅まで建設がまだ完成していないので、バスに乗り、一番近いメトロ駅まで向かう。もっとも、案内を買って出てくれたおじいさんが、自ら道を間違ってしまい、シーラーズ市の中心部にたどり着くのに1時間以上かかってしまったのだが。ま、これもひとり旅の一部だ。

テヘランから南へ700キロ、むしろペルシャ湾に近いぐらいの場所にシーラーズがある。人口規模でこそ第6位だが、立派なメトロも大部分開通し、市民の足は中心部では大変利便性がよい。 シーラーズで歩き回ったのは、斜めに走る並木道(ザンド)沿いにある観光名所、並びに北西にあるエラム庭園である。(上のGPS地図参照)

3427

町の中心の Zandiye メトロ駅から徒歩10分にある Hotel Kowsar は目抜き通り Zand Street に面しており、最高に地の利がよい。もう夕暮れに近くなっていたが、まずは上の写真にある、「キャリーム・ハーン城塞」を訪れる。周りは忙しそうに勤め人が行き来しており、ちょうど仕事の退け時だった。

3428
ザンド朝時代には迎賓館だった「パールス博物館」は、先の城塞から広い歩道を挟んですぐのところだ。建物は小さいが、デザインの優れた広大な庭園が付属しており、コーヒーハウスの女主人から一杯飲んで行けと声をかけられた。
3429
パールス博物館にはこんな模様の陶器があった。
3430
シーラーズ市中心部は、密集していて、わずか歩くだけで多くの施設に巡り合える。すでに夕日が落ちたので、いっせいにライトアップをはじめた。パールス博物館から Taleghani Street を挟んで南東に向かうと広場があり、その先にバーザールの入り口が見える。
3431
さらに近づくとバーザールの入り口の奥に、まばゆい光が見える。壺、食器、生活用品のありとあらゆるものが売られている。絨毯屋も少なくない。その奥は迷路だ。帰国してから、ケテルビー作曲の「ペルシャの市場にて」を聞いてみた。なるほど、この雰囲気をよく醸し出している!!!
3432
同じ広場からTaleghani Street を南に進むと左手には高い塀に囲まれたハンマーメ・ヴァキールマスジェデ・ヴァキールが並んでいる。
3433
名所があまりに密集しているので、どれがどんな名前だったか忘れてしまった。たぶんこれはマスジェデ・ヴァキールの内部。
3434
そしてその奥には柱が林立する不思議な空間が演出されている。
3435

すでに日がとっぷり暮れていたために、ライトアップされた荘厳さは、ますます強調されている。

3436
寺院と寺院のあいだにあるライトアップされた細い路地。それが長く直線に続くために、カメラマンにとっては格好の被写体となっている。
3437

先ほどのバーザールを当てもなくさまようと、突然 Saray-e Mehr というレストランに出た。串に刺した肉とサフラン・ライスがメイン。これにサラダとチャイを追加。チャイの容器はどう見ても中国風である。

3438
翌日朝、バスに乗ってエスファファーンに向かう前に、学習に使ったペルシャ語のテキストで、「晴れたら、エラム庭園を散歩しましょう。」という文章が忘れられず、タクシーで駆け付けた。ちょっと町の中心から離れているのである。
3439
でもここのウリはバラである。だから春に来るべきだったのだ。今は寒さのために縮こまった貧弱なバラがちらほらあるだけ。
3440

それでもこの庭園の作りは見事。上の写真は松の木だが、横に這いつくばった松ではなく、まるでソテツのようにすっくと立ちあがっているのが見事。

テヘランから遠く離れたシーラーズはこのくらいにして、この2都市を結んだ直線の中間点にあるのがエスファファーンに向かう。乗客の乗れる鉄道は運行されておらず、バスに乗ることにする。バスターミナルは町の中心に近い。

複数のバス会社がエスファファーンに運行しているので、バスターミナルに近づくや否や、客引きが駆け寄ってくる。「どこへ行く?}「エスファファーンか?テヘランか?」かつてタンザニアで、その調子で買ったバス切符の会社が幽霊会社で、新聞で報道されるほどの騒ぎになったことを思い出して、客引きには近寄らず、ターミナルのオフィスへと向かう。

とはいえ、どこの会社にしようかインフォメーションで聞こうとしていると、バス会社のきちんとした制服を着た人が、英語で話しかけてくるものだから、その人の属するオフィスへ行って、正式の?切符を買うことができた。

上へ

観察日記(7)

人種構成: ペルシャ人の顔は、アーリアン系である。だがその顔色は白いのから黒いのまで様々だ。金髪も少なくない。長年の民族移動、難民流入や戦争、侵略、占領の繰り返しで、トルコやアラブの血がたくさん混じっているのだろう。しかも北のアルメリアやアゼルバイジャンなどの民族も入っている。文化と言語はかなりまとまっているが、人種的には多民族国家といってもよい。テヘランの地下鉄に乗って観察していると、実に様々な顔が見られる。これに比べると、東京やモスクワははるかに単一的である。

上へ

イラン第2の都市エスファハーン 

 
 

シーラーズとエスファファーンのあいだは400キロ弱だが、バスで7時間かかる。エスファファーンの南バスターミナルは、メトロが開通していて、北バスターミナルまで直通で行ける。北のテヘランに行くバスに備えて、北バスターミナルにある Kaveh Hotel に宿をとる。

エスファファーンで歩き回ったのは、エマーム広場にあるメトロ駅から南にある地域と、さらに川を越えた南西にある地域である。(上のGPS地図参照)

3441

この町の中心駅 Emam Hosein のある、同名の広場に降り立つと、その南には広大な「シャヒード・ラジャーイー公園」が広がる。その公園の中央部を通りかかると、”八天宮”を意味する Hasht Behesht 宮殿が見えてきた。宮殿のまえには珍しく若者ではなく、老人クラブみたいな人々がたむろしていて、一人が代表して、この東洋人に質問しに来た。彼らは、中国人か、日本人か、あるいはそれ以外か、非常に知りたがる。

この日はおり悪く雨がシトシト降ってきた。しかも冷たい。砂漠の国イランで雨が降るとは思っていなかった。だが、これはこちらの認識不足。ちゃんと秋の到来とともに雨が少し降るのだ。もっとも、いつも非常に乾燥しているのでたちまち乾いてしまう。それでもこの日の雨は数時間続いて、水たまりさえできた。

3442

公園内には、遊園地があり、カラフルな幼児や小学校低学年向けの遊具があるのは若者社会ならではのこと。日本でこれが不要になってから、だいぶたつのを思い出した。

  3443
またまたユーモラスな銅像。この日が雨ふりだったのも偶然だが、これは噴水の中心に設置されていて、この本を読んでいるおじさんのさしている傘から、水がしたたり落ちる仕掛け。シャヒード・ラジャーイー公園の東側にある、公立図書館の付近にて。これはイランの二宮金次郎ではないのか?
  3444
シャヒード・ラジャーイー公園の西側に商店街に沿って小川発見!!ところが全く水がない。だがこれはイランでは当たり前のことだったのだ。
  3445
シャヒード・ラジャーイー公園の南部分には、「バーザーレ・ボナル」が付属している。とはいっても、ここは貴金属や首飾りの店に特化していて、食品を扱うバーザールの熱気はない。
  3446

シャヒード・ラジャーイー公園の北端部から、つまりエマームホセイン広場から東へ進むと「チェヘル・ソトゥーン庭園博物館」に出た。この写真のように、池に向こう側の建物の柱が反射している。しかもこのときは雨上がりだったので、なおさら美しい。

  3447

上の建物のさらに裏側にまた池があり、このような反射面を作り上げている。

  3475
 

この後、「装飾芸術博物館」に行った。マイナーな施設であり、だれもほかに訪問客はいなかったが、優れたデザインの様々な品々が展示されていて、大変勉強になった。わざわざ係員がやってきて、特にここで力を入れている、Lock Making 、つまり錠前づくりの職人に関するパンフレットをもらった。

  3448

シャヒード・ラジャーイー公園から東へ進むと、これぞエスファファーンの第一の名所といえる、この広大な四角形が「エマーム広場」であり、さらに東の向こうにかすんで見えるドームが「マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー」だ。雨上がりで霞んでいる。この四角形は二階建てのバーザールを含む回廊で囲まれているので、一層壮大に見える。

  3449

エマーム広場の北の部分から南を見ると、そこにはもう一つのモスク、「マスジェデ・エマーム」が見える。先の「マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー」と同じようなものだろうと思ったら、違うのだ。また別の演出で徹底的に構成を極めている。両方見なくてはならない。中央芝生に見えるのは、観光馬車の列。

 3450
「エマーム広場」を取り巻く回廊の中にある店の一つ。この店の前には巨大な水差しが二つ並んでいる。この付近のバーザールは、特に金属製品に多様な種類が見られる。外国人観光客が、イラン中でここが一番多いのではないか。
  3451

ようやく雨があがった。エマーム広場からは、Chahar Bagh-e Abbasi Street 沿いにどんどん南に下ると Engelab 広場に出るがそこから先は「ザーヤンデ川」なのだ。しかし、そこはワジ(涸れ川)である。気候のせいか、開発のせいか、川には水が流れていない。すべてが”河原”だ。砂地の上にボート乗り場が寂しげに“浮かんで”いる。

Engelab 広場から向こう岸に架かる橋は人道橋 Si-o-se Bridge で、よく絵はがきに登場する。

  3452

Si-o-se Bridge を渡ってみる。このように両側はレンガ造りになっており、河原に降りることのできる場所もある。市民の散策の場なのだ。車の騒音から解放された、素敵な人道橋だ。

  3453

向こう岸に着くと、川沿いは快適な遊歩道の通る公園で、こんな銅像(草笛を吹く男?)なんかが点在している。水がないことをのければ、京都の鴨川沿いを歩いているような気分のよさ。若い女が腰を下ろしていて、「タバコない?」と聞いてきた。この国ではアルコールはもちろん、巻きたばこも手に入りにくいはずだ。

  3454

ここは砂漠ではない。まさに川床なのだ。アラビア半島を中心に、中東ではこんな水無川が至る所にあるという。だから、橋を渡らなくとも、写真の人影が示すように、ザクザクと砂を踏みしめて、向こう岸に渡ることができる。水たまり一つないのだ。

  3455
この像は何だろう?こんなスタイルは、まるでギリシャのテッサロニキで見た、アレキサンダー大王の像を思わせる。川沿いの公園で。
  3456

川の北側は、すでに見たエマーム広場を中心にする観光スポットだったが、川を越えて南側に移るとこの町の第2の人気スポット、「ジョルファー地区」に入る。こちらの地区の最大の特徴は、イスラム教のモスクではなく、キリスト教の寺院があるということだ。正確にはアルメニア教会であり、壮大なモスクばかりを見てきた目には、実に新鮮に映る。上の鐘楼のある建物は「ヴァーンク教会」。

  3457

この地区の中心、「ジョルファー広場」にやってきた。若者たちがたむろしているが、そこにあるにこやかなおじさんの像。どこかで見たことがある…数学者か天文学者ではないかと思うのだが、碑に書いてあるペルシャ文字がどうも読めない。

  3458

このおじさんの像の向かいが噴水の池になっていて、ここに飾られているのが、天球の角度か何かを示す器械であることから、勝手に数学者か天文学者であると想像したのである。

  3459

行きはジョルファー地区まで歩いたが、北へ向かうバス路線沿いのバス停からEngelab 広場を通るバスに乗った。バス停で一緒に乗った親切な若い娘のおかげで、うまい具合に広場の手前でで降りることができ、時間的余裕ができたので、川を逆の方向に歩いてもう一つの人道橋、チュービー橋を渡ってみる。ここはスィオセ橋よりずっと人通りが少ない。

  3460

川の中に島があった。といっても水がないから 砂に浮かび上がった丘といったほうがいいのだが、そこには遊園地が設置されている。今日は平日の夕方なので、そろそろ下校した子供たちが訪れるのではないか。

 3461

この町の中心駅 Emam Hosein に戻る。バスに乗った4キロほどを除くと、20キロ余りも歩いたわけだ。メトロに乗って宿に帰る前に、この駅の北にあるレストラン、Nobahar で、キャバーブ専門。上の皿はそのキャバーブのスペシャル盛り合わせ。これだけで腹がいっぱいになったのだが、右下のグリーンライス、真ん中の真ん中のナン、左側のサラダまで食って、最後にチャイで締め、歩けなくなるほど満腹したのだが、昼間よく運動しただけあって、ホテルに着くころには胃袋は小さくなっていた。

帰りのメトロの中では、化学工業の技術者と話す。日本には大変興味を持っていて、次から次へと質問をしてくる。ちょうど私の降りる駅と同じだった。泊まるホテルは北バスターミナルの建物の中である。

上へ

観察日記(8)

宗 教 イラン滞在中、多くの人々と話をしたが、信仰深いと思われる人にはついぞ出会わなかった。 信仰深い人(男性)なら、すごい髭面だし、女性ならチャドルから目だけしか出していないので、大体わかるが、そもそもそういう人は話しかけてこないか、英語ができないようだ。もっともテヘランのバーザールの迷路のど真ん中で出会った宗教指導者らしき人は、恐ろしく英語がうまかったが…

「神を信じないような人は罰当たりだ」と考えるのが、中東地域では普通なんだと聞くが、私が長話をした人はみな英語が達者で、たいてい理系の職業で、かなりの高等教育を受けていたと思われる。彼らにとっては、宗教は生活の中心というよりも、自分たちの生活を圧迫するもの、オープン社会を阻害するものと考えている節があった。

つまり、今の社会システム上、反抗すると逮捕されるまでにはいかなくとも、昇進や昇給に影響するから、表立って逆らわないでおこう、でもやはり自由な生活がほしいという気持ちが見え見えだったといっていい。

一方で、エスファファーンにあるエマーム広場の超有名モスクの奥に行くと、マドラサ(宗教学校)があり、そこにあった立て看板には、英語とペルシャ文字の両方で「イスラムを知るための短期コースあります。聖職者と身近にお話ができます」と書いてあったが、宗教指導者もうかうかしていると、国民の宗教的関心が薄れてしまうことに危機感を持っているのであろう。

「ホメイニ」「コメイニ」と国中の駅名、広場名、通り名に、この名前があふれ、かつての宗教革命の熱気の名残であろうが、同じ名前が多すぎて不便だし、国民もかつての熱狂を保っているわけではない。むしろ白けた雰囲気があるのではないかとさえ感じた。反米的感情も、かつてとは違い、どちらかというと冷静であるようだ。

上へ

再びテヘランへ:バーザール、絨毯博物館

3462

エスファファーンの鉄道駅は遠いので、手軽に乗れる高速バスに北バスターミナルから、当地名産のギャズ(甘いお菓子)を携えテヘランへの帰途についた。このバスターミナルは、ペルシャ式庭園の中にあると言っていい。何しろバス乗り場の横を小川が流れている凝りようなのだ!

シーラーズ付近とは異なり、岩山がそれほど高くなくうねるように続く風景だ。テヘラン市内に入り、ふと車窓から、車の洪水の中に逆Y字のモニュメント、 Azadi Tower が見えた。バスは「西バスターミナル」のすぐ横を通りながら構内には入らず、近くの一般バス停で大勢の客を下ろす。一体ここはどこなんだ?

日本の公共交通機関は”アナウンス過剰”といわれているが、ここイランでは”アナウンス過少”である。しかもペルシャ語ではね・・・私は訳が分からず、運転手に直接聞くと、大通りの向こうにメトロの駅があるという。メトロの駅があれば大丈夫。もうテヘラン市内どこでも行ける!

まるでフェリーニ監督の「道」に出てくるザンパーノを演じたアンソニー・クインみたいな男が、これまたオートバイにまたがっていたので、メトロの駅をペルシャ語で尋ねると、なんと極めて流ちょうな英語で返事が返ってきた。これで安心。メトロ2号線に乗って都心へ。

3463

最終夜のホテルは Golestan といってメトロ2号線Hassan Abad 駅のそば。第2日目に行ったShafr Park に日が暮れてから行ってみる。ライトアップされた池と木々が映える。

3464

公園内のライトアップされた遊園地。平日の昼間は子供がいないが、夜になると、学校を終えた子供たちが親に連れられてやってきて活気づく。日本とは違った風習だ。パリと同じく、昔懐かしいメリーゴーランドがある。

  3465

おそらくイラン唯一の歩道橋。場所はShafr Park とゴレスタン宮殿とを隔てる道。すでに述べたように、イランの都市には、信号機が極めて少ない。暴走する自動車から避けるには地下道か、歩道橋かのどちらかしかない。でも多くのイラン人は階段を登るのがシンどいらしく、ほとんどが危険を承知で、じかに横断しようとする。

  3466

今度のホテルはテレビがきちんと映る。11月なので、1979年の「アメリカ大使館占拠事件」についての報告をやっている。あとは韓国ドラマ。これは吹替ではなく字幕。宗教的番組も数多く見受けられたが、圧巻は、テレビ説教師の話の実況中継である。エジプトのカイロに行った時もこのような番組を見た。あのときの怖い顔までそっくりだ。

  3467

ホテル Golestan の室内。今回の旅行で5泊したうちでもっとも瀟洒だ。フロントの応対も大変ていねい。なお朝食は、どこでも本質的に同じだ。ナンとそれにつけるバター、チーズ、ジャム。ゆで卵とチャイ。トマトときゅうり。ゆで卵を1個ではなく2個食べるのがたんぱく質を補うコツ。

  3468

テヘランのバーザールは、400年から500年も前から開いている。中はまるで迷路だが、古い石畳に、昔の帝国のにおいがする。この日は残念ながら宗教記念日による、連休初日で、大部分が休みだったが幸い、アーモンド、ピスタッチオ、サフラン、銅のポットを買うことができた。

  3469
 一般にイランの猫はやせている。でも公園やバーザールにたむろする猫たちの中には、丸々肥え太ったものもいた。いわゆるペルシャ猫には一度もお目にかからなかった。どこかの王様のおひざ元にいるのであろう。野良猫になるはずがない。
  3470
 ペルシャ絨毯は買わないまでも、せめて多様なデザインだけでも見ておこうと、「絨毯博物館」に出向く。時間があまりないので、行きはタクシーを利用した。運転手は英語が話せないので、つたないペルシャ語を用い、地図の助けも借りた。おかげでペルシャ語で地図は「ナクシャー」ということを知った。ヒンディー語でも地図を「ナクシャー」ということを思い出し、語源的に同じだったのではないかと思っている。
  3471
 

普段見慣れた幾何学的模様のみならず、物語や神話を題材にしたものも数多く見受けられる。

  3472
 様々な色の意図を上からつるして、必要に応じており分けていくための道具。
  3473
 

もしかして再開されているのではないかと「アーブギーネ博物館」の入り口まで行ってみたが、予想通り、まだ閉鎖中。その右隣りに「Golkar Gallery」というお洒落な店が2軒ある。一方は陶器、もう一軒はガラス器だ。そうこうしているうちに夕方だ。夜11時過ぎの便なので急がないが、そろそろ空港へ向かおう。

日本の4.5倍も面積がある国をたった一週間で見て回れるはずはない。今回の旅は「お試し」ということで、次回はトルコその他の周辺諸国も含めて、またまたイランを訪れてみたい。

上へ

記 録

旅行期間 2018年11月1日より11月9日まで

11月1日(木曜) 成田空港よりカタール航空 QR807便にて 2220発 機中泊

11月2日(金曜) ドーハ空港へ 0515着。(乗り換え)QR482便にて ドーハ 0750発 イランImam Khomeini 空港 1030着、テヘラン市内見学 Naderi Hotel にて宿泊

11月3日(土曜) テヘラン市内見学 テヘラン駅より寝台列車にて 2111発 車中泊 

11月4日(日曜) シーラーズ駅 1300着 シーラーズ市内見学、 Kowsar Hotel にて宿泊

11月5日(月曜) 昼間の長距離バスにてエスファハーン市へ移動、Kaveh Hotel にて宿泊

11月6日(火曜) エスファハーン市内見学 Kaveh Hotel にて宿泊

11月7日(水曜) 昼間の長距離バスにてテヘラン市へ移動、Gollestan Hotel にて宿泊

11月8日(木曜) テヘラン市内見学 Imam Khomeini 空港発 QR499便 2255発  機中泊

11月9日(金曜) ドーハ空港 0035着(乗り換え)ドーハ QR812便 0645発 羽田空港 2230着

上へ

総まとめ

2018年11月1日より9日まで、イランを訪れた。7月初旬に航空券を買った時点で、トランプ大統領のイラン制裁を知っていたら、行かなかったかもしれない。だが、結果的に行ってみてよかった。またまた「百聞は一見に如かず」である。

イランは危険でも何でもない。宗教的な制約はあるにしても、人々は親切で、安心して旅行できるシステムやインフラがあるし、テロリストなんてとんでもない。これまでいかにイランについての知識がなかったか、(マスコミが提供するだけの)不十分な情報の下で判断をしていたかを思い知らされた。

また、イスタンブールではトルコ語を、カイロではアラビア語を、そして今回はイランでペルシャ語を耳にする機会に接して、これらの中東の主要な言語を総合的に捉える準備ができた。言語の重要性は、中東全体を覆うイスラム教と同じくらい大きく、そこからもたらされる生活習慣、美術など多岐にわたって影響を及ぼしているのだ。

今回の旅では、首都テヘランのほか、人口第3位のエスファハーン、第6位のシーラーズを訪れた。距離と方向で例えると、東京(テヘラン)から岡山(シーラーズ)ぐらいのところまで行き、名古屋(エスファハーン)まで戻って、さらにテヘランに帰ったのだ。だが新幹線のような高速列車があるわけではない。テヘランからシーラーズまでは寝台列車で南下し、16時間ほどかかった。そのあと北上してエスファハーンまで高速バスで日中7時間ほど、さらにテヘランに戻るのに日中7時間ほどかかった。

人々はまさにイスラム教徒だ。だが、スンニ派もシーア派も区別がつかない。エジプト、トルコ、そしてタンザニアのザンジバル島で見た人々と同じく、ごく平凡な市民である。そして無類の話好き、世話好きである。イスラム教徒には、すっかりなじんだ。なぜ合衆国やヨーロッパの一部で、大騒ぎし排斥運動をするのかわけがわからない。

イランの国は半鎖国状態にあるため、外国人に接する機会は少ない。ましてや東洋人に会うチャンスは田舎ではゼロに近い。路上を歩いていても、「Hello」と挨拶してくるし、「May I help you?」とわざわざ話しかけてくる人々も少なくなかった。一緒に歩いてくるので、長話になったのも4,5回ある。小学生ぐらいの子供に至っては、好奇心丸出しである。

残念ながら、今のイランでは写真撮影が厳しく制限され、空港、鉄道駅、橋などをへたに写しているところを見つけられようものなら、即拘束、悪くすると逮捕になりかねない。このためカメラの使用に関しては細心の注意を払い、そのためあまりたくさんの写真を持ち帰ることができなかった。それでも特に若い人々の間ではスマホが普及し、友達同士で写真を取り合っていたりするので、かつてに比べるとはるかに規制が緩和しているように思われる。

確かに今のイランの経済状況は厳しい。路上での物乞いもいる。だが、エジプトやトルコと比べて著しく貧しいわけではない。バーザールでの品物は豊富だし、子供連れの若夫婦は、それなりの生活水準を享受しているようだ。ただインフレがひどく、11月になる前の時点でイランリアルが、ドルに対して暴落していたものだから、ドルと交換した時には大量の札束を渡されることになる。街中のいたるところには「Bank Melli」(国立銀行)があり、これはどちらかというと、民営化する前の日本の郵便局みたいなもので、他の中東諸国と同じく、格差の大きい社会を何とか支えているのだろう。

石油は北にあるカスピ海あたりで採掘されるわけだから、南のほうにいると、この国が世界有数の産油国であるということを忘れてしまう。ガソリンスタンドでさえ、たいして目に入らない。この国はクレジットカードを使えない。ということはつまり、外国との経済関係が薄いということで、トルコやエジプトなら激増している外資系のスーパーや専門店、コンビニ、そして世界中で見受けられるようになったモールも極めてまれである。そのかわりバーザールや小規模商店が人々の買い物を引き受けているということだ。

そしてイラン社会は Open Society では断じてない。インターネットも外国、特にアメリカのものが多く規制されているし、そのことに関しては、電気関係、石油関係の技術者、大学生など教育レベルの高い人々に聞いてみると、みんな揃って将来この国がもっと開放的になることを願っていた。一方、伝統的、宗教的な枠の中で暮らしている人々はそのような規制はたいして気にならないようだった。

総じて、核政策やテロリスト関与など、国際的に声高に報道されるイランの姿は、政府の中枢、宗教界の中枢の言動によって出来上がったものであり、実際の庶民の暮らしは、それらとはあまり関係なく淡々と進められていると言える。狂信的な政治運動家や宗教家はいるだろうが、普通の人々はむしろ程よくイスラムの教えが縦糸になった、バランスの取れた生活を続けていると言える。

おわり

上へ

HOME > 体験編 > 旅行記 > イラン(2)

inserted by FC2 system