台湾

(1998年)

「淡水」の対岸にあったお寺

HOME > 体験編 > 旅行記 > 台湾

目次

第1章 台北

第2章 東海岸と天祥

第3章 西海岸

第4章 記録

第5章 2013年・台北

第1章 台北 

思い立ったが・・・ 南シナ海に浮かぶ茄子のような形をした島はその大きさからいって九州の面積しかないのに、その地形は大陸的であり、荒々しい。しかしその文化や国民的な気性は樺太からフィリピンにいたる弓状の島々に住む共通の住民的精神風土がはたらいているのかもしれない。1998年3月30日、中国語(マンダリン)の学習成果を試したかった私は1週間の空き時間を見つけるやいなや、旅行社に往復切符の有無をたずねた。日本アジア航空で4万9千円の返事はあまり安いとはいえなかったが(何しろロサンゼルスまでたった4万7千円のもあるのだから)翌日の午前10時に出発できるということでその切符を購入した。1995年に韓国を訪れてから2年後。今度で10カ国目に当たる。

暑さの中のホテル探し 向こうについてから宿を探し回るので荷物はウエスト・バッグとリュックのみ。このため空港の荷物預かりでは、どこかのおばさんが話しかけてきて、自分の持っている無料の範囲を超える個数の荷物を預かってくれとたのんでくる始末だった。(これは違法であり、中に麻薬が入っていたケースもある)夕方近くになって台北に到着。さほど暑くない。空港から都心部まではタクシーを使わず、路線バスに決めているので、しばらく待ったあとで乗り込んだ。高速道路を経由して約50分だから60キロぐらい離れている。幸い渋滞にも出会わず、台北駅前にたどり着いた。

このとき日が照ってきて急に暑くなり、西も東もわからず、ガイドブックにのっているホテルの場所がわからず、しかも機内でビール、ワイン、水割りと調子に乗って飲み過ぎ、まだ酔いが醒めていなかったので、まったく往生した。町並みがとても雑然として、しかも駅前は工事中のところがやたら多く、人が絶え間なく通るのでめざすホテルを見つけるのに1時間もかかってしまった。心細い限りだが、これがあとでいい思い出になるし、台北の町に今でも親しみがわくのはこの右往左往のおかげである。

宿泊者たち とにかく見つけだしたホテルは Happy Family といい一泊340元(約1360円で1元の4倍にしたものが日本円と思えばよい。)の格安であり、トイレ、シャワー共同で、バスタブはだれかが踏み抜いて穴があいている代物だった。窓がなく、汗くさい小さな部屋にそれでも入って横になるとやっと今夜の寝る場所が決まってほっとしたものだ。このホテルの場所は、いろいろさがしたにもかかわらず見つからないほど目立たないが、駅から300メートルと離れておらず、その汚さとはともかく、その後の旅行には”相対的に”大変楽な思いができた。

ホテルのマネージャーはアメリカ人で宿泊者の大半はアメリカ、ヨーロッパから来ており、夜遅くまで大声で話し合っていた。日本人もいたが、私が泊まったときにいたのは石垣島でユースホステルの手伝いをしたあと、船で高雄にわたって台北まで来た青年であった。まったくこういうホテルに泊まる輩は身の上話を聞くと、普通の世間ではとても考えられないことをやってきた連中が大半である。彼とは倍も年が違っていても気安く話ができるのであった。どういう生き方をしたらいいか閉塞状況に陥っている、またはただ流されている「まじめサラリー マン」と違い、彼のような人間は自由な精神の持ち主だ。文明社会に犯される前はみんなそうだったのだが。野生児”ハックルベリー”はどこへ行ってしまったのだろう。

おとし紙は使うな! トイレを使ってみて驚いた。横に張り紙があって、使ったティッシュは便器に流すなと英語で書いてある。水の勢いが弱いからか、下水管が細いためか、詰まってしまうというのだ。横にある蓋付きのポリバケツに捨てなければならない。いやなんというホテルに泊まったのだろうとがっかりしたが、何と台北駅構内の便所も同じなのだ。いや、市内のすべてのトイレではティッシュを流すことは禁止なのであった。高雄、その他の町ではそんなことはなかったが、何とも不便なことである。

旅行者は高いところへ さて夕方近くで、そのまま寝てしまう私ではない。駅に出てどこへ行けるか考えた。台北駅はその鉄道線路がすべて地下に埋まっているので遠くから見るとただのビルディングにしかみえない。でも2階から上は飲食店やら雑貨店やら、果ては骨董品店までそろっている総合ビルである。道路を隔てて向かいを見ると高層ビルがあった。それが何と地元の百貨店と日本の三越の合同で作られた一大ショッピングセンターであったのだ。

それで何を考えたかといえば当然、60階の高さに上ることである。「お上りさん」になることである。それによって初めて訪れた都市の地理的配置がいち早く頭にはいる。展望台には私のような「お上りさん」やら二人きりの時間を楽しむカップルたちが行きかっていた。残念ながら町全体にもやがかかってはいたが、真ん中を流れる川(淡水河)や高速道路、公園、その他の著名な建物が一目で見渡せた。それによれば駅とは反対側に中正紀念堂(蒋介石を記念した建物)が見えたので、そちらの一帯を探索することにした。

予備校街 三越の裏に入ったとたんびっくりする。そこには18歳ぐらいの若者が右往左往しているのだ。そして香港でもおなじみの赤や黄色のどぎつい看板に書かれている文字といえば、どれもこれも、「補習班」である。つまり予備校だ。日本と違う点はみな小規模でこの通り、つまり「南陽街」に集中していることだ。ちょうど電気屋が秋葉原に集中しているように。大学受験のみならず、留学準備、TOEFLのための勉強の塾もある。熱気がむんむん、食べ物屋も青少年でいっぱいだった。どこの「補習班」もカウンターを置き、カウンセラーが熱心に受験の相談に応じている。その後ろには受験参考書がずらりと並べられ、壁には合格した人の名前か、成績優秀者の名前が張り出されている。

多分教室はその2階、3階にあるのだろうが、このような塾の集中ぶりは尋常ではない。みな小規模で、日本のような大教室による授業や、デパートのような予備校は見あたらない。中には高1,高2の字も見えるから15歳から20歳ぐらいまでがこの町の主人公なのだろう。だれでもがめがねをかけているようにみえる。漢字の煩雑さ、特に台湾の漢字は簡体字ではないので、またコンタクト レンズが普及していないことやめがねのデザインが「ガリ勉スタイル」だけなのがその目立つ原因だろう。

交通混乱 さらに進むと官庁街に出る。オートバイがやたら多い。信号が青になると4,50台ものオートバイが一斉に飛び出すのは壮観である。その音にも度肝を抜かれる。しかし歩行者保護とか、交通規則遵守という概念はこの国にはほとんどないようだ。歩行者はただただ自分のみを守るために前後左右を見てまわらなければならない。旅行者は地元の人を盾にして道路をわたるのが最善の策である。

ところで若い女性の人相が柔らかい。というか少々田舎臭いが、日本の大都市の若い女性に多く見られるような、眉がつり上がっていたり、無目的な、だるそうな様子は見られず、はつらつとした明るい感じの顔が多いようだ。まだ有り余る豊かさや飽食を経験していないからだと思う。日本のような豊かさに達したら人間はおしまいだ。豊かさと引き替えに精神の自由を失う。同時に生命力も失うのだ。しかし一方ではタイやインドネシアをおそっている不況の嵐は台湾ではあまり影響はないと聞く。確かに車の数、レストランを訪れる人々のにぎわい、デパートに人混みを見る限りではあまり深刻な様子はなかったし、貸店舗、貸事務所の看板もさほど目立つわけではなかった。

初めての夕食 さて、中正紀念堂を最終目的地にしてそこから引き返したが、途中いくつかの建造物を見たから、ツアーによる市内見物の一部を見ることができたわけだ。アイスクリームやジュースを買って暑さをしのいだが、値段が日本の8割ぐらい、特に果物のジュースなどは半分ぐらいだからうれしくなってしまう。さて最大の問題である夕食は「自助餐」でとることに決めた。ちょうど大学のカフェテリアのように好きなものを皿に取って値段をつけてもらうセルフサービスの店である。おかずはいかにも庶民的な、豚肉を煮込んだもの、お浸し、魚を煮たもの、そしてレバーや豚骨のようにいかにも中華的なものである。これにご飯一杯とスープがつく。

それで75元(300円ぐらい)自分で選べることと、肩の凝らない安いおかずなのが気に入って、旅行中できるだけこの種の店に通った。これで100元を超えたりすると腹がいっぱいで動けなくなるほどだった。問題は「多少銭?」と聞いて向こうが言ってくる数字を聞き取ることだった。数字は覚えているはずなのに早口で言われるとわからないのである。白水社のエクスプレス中国語のテープを聴いたときははっきりわかっ たのに・・・価格の表示してあるメニューから注文したときは問題ないのだが。しかもこの国にはやっかいな消費税なるものは存在しない。

台湾人の食生活 でも食べ物屋がたくさんある割に店員とかサラリーマンの夕食は粗末である。このような自助餐から発泡スチロールの入れ物に食べ物を入れてもらって、それを職場で食べている。ご飯付きはまだましで、多くは麺類で済ませている。そしてもっともひどいと思ったのはスープ類をポリエチレンの袋に入れてもらっていることだ。食堂の中で食べるならともかく、スチロールとポリエチレンの中に食物を入れるのは何か情けない。中国にはすばらしい陶器の伝統があるはずなのに。インドで素焼きの土器で紅茶を飲んでいるのを見たが遙かに人間的である。石油文明は便利であれば何でもいいのだろう。アメリカのファーストフードの店でプラスチックのスプーンでプリンをすくっている連中を思い出す。

またたくさんある食べ物屋は基本的には「軽食」を提供するためにあるのがほとんどで、まず麺類のどんぶりの大きさを見ればわかる。日本であればラーメンを注文すれば直径30センチを超えるようなどんぶりに山盛りにして出てくるのでそれで一回分の食事が終わったような気がするが台湾のどんぶりはご飯茶碗ぐらいの大きさしかない。だからはじめは何で彼らは小食 なんだろうと思ったくらいだ。むしろスナック感覚で何回も分けて食べるようだ。ならばポリエチレンの袋も仕方がないか。

注文の仕方 台北駅の2階ではデザートとして「豆花」(トウフォア)を注文してみた。これが今回最も気に入った食べ物だ。絹ごしの豆腐を冷たくしたシロップの中に入れ、緑豆をまぶしただけのものだが、その甘さのちょうどよさといい、冷たさといい、アイスクリームなど足元にも及ばない。しかもコレステロールゼロだ。日本ではどこで食べれるだろう(きっと高いだろうな)。

壁に書いてあるメニューの注文のためには小さいメモ帳を持参した。どうせ固有名詞の発音などできるわけがないから、いちいち写して書いて見せたのである。これは成功した。すぐに相手にわかってもらい、支払いもスムーズであった。食べ歩きにも疲れ果て、ホテルの部屋に戻る。第1日目は不安と緊張の連続だ。そして次第になれてゆき、ついに現地人に間違えられて、道を聞かれるようになったとき、帰国の日が来るのである。

博物館への行き帰り 第2日目は台湾を訪れた人なら必ず行く「故宮博物館」へ向かった。ツアーに加わっていれば目をつぶっていても着いてしまうわけだが、まずそこへ向かうバス停探しに四苦八苦、つたない中国語でキヨスクのおじさんに教えてもらってたどり着いた頃には汗びっしょり。これで30分経過。ガイドブックに載っていたバス停は工事中のために移動していたのだ。

幸いバスはすぐ来た。郊外の緑深い丘の上に博物館はあった。今でも後悔しているが、ここを訪れるのは帰国の前日にすべきだった。なぜなら、陳列品、中でも水墨画がすばらしく、そのイミテーションでもいいから大枚をはたいて持って帰りたいものがたくさんあったからだ。これから島を一周するというのにそんな荷物を持って歩くわけにはいかない。(教訓)博物館、美術館のたぐいは最後にせよ。結局絵はがきだけ買って入り口にある郵便局(気が利いている、観光客が次々と利用している。)から投函した。

帰り道のバスには博物館を見学した中学生らしき連中でいっぱいだった。そのため遅れて乗った私は座れずずっと立ったままだった。そのとき一人の女子中学生が私にむかって空席を指し座れと 言う。私も座席を譲られる年になったのか!だが周りを見回すと私が確かに最年長だったし、彼女からすればもっとも適当な人間だと思ったのだろう。

でも、とても感心したのはこの国では若者がひとに席を譲るという習慣がまだ死んでいないということだ。どこかの国のように若者が列車の優先席に大いびきで寝ているのとはだいぶ違う。すでにこの国の若い女性の表情について述べたが、手相というものがあるように顔相というものもあり、鋭い観察者であればそこからその国の将来、精神的な貧困さ、家庭崩壊などを見て取れるのではないだろうか。私のつたない目からすると、台湾は年々凶悪犯罪が増えているものの、また茶髪だってマニキュアだってどこでも目にするが若者たちは日本ほどには生命力を失っていない。

淡水の町並み 淡水にうまいものを求めて 市街地に戻ったのは昼過ぎ。午後は前日展望台から見た淡水という川を見に行くために MRT という新交通システムにのって終点まで行った。今世界のどこでも自動車の渋滞に悩み、地下鉄を建設しているが費用がかさむためにもっと簡便な方式の輸送方法を採用しているところも多い。MRT は札幌の地下鉄やサンフランシスコの電車に似ていた。2駅目ぐらいから地上に出て1時間ぐらいで「淡水」という終着駅に着く。台北のさらに北にこの川の河口があり、そこが古い港町になっているのであった。

新しい鉄道のおかげでまわりに高層アパートが建ち並び、台北のベッドタウン化しつつあるのであった。この小さな旅行が楽しかったのは「魚丸」という丸い蒲鉾の中に豚の挽肉を詰めたものがはいったスープと、「鉄蛋」とよばれるゆで卵を醤油で煮て白身がまっくろでかちかちになったもの、そして「梅ジュース」この三つを試食、試飲できたことである。特に「梅ジュース」は元祖の製品と、偽物の2つをの飲み比べができた。後者は甘さに品がなく、水っぽいのだ。先に偽物を買い、まわりの人の持っているコップに「阿マー的」(アーマーダ)と書いてあるのを見て、本物の店を探し回ったのである。本物は甘酸っぱく上品な舌触りで、2杯も飲んでしまった。

対岸にわたる 上流にある台北市と違い、東シナ海に注ぐ河口に近いこの町はまだ対岸への橋ができていない。そのため渡し船が往復しており、これにのってみた。対岸は道路がまだ舗装されていない部分があるくらい開発が遅れており、渡し船の上からトラックの巻き上げる埃が見えるほどだった。背後の山の中は不法投棄のゴミでいっぱいだった。台湾はその盛んな工業の発展に比べてゴミの処理や捨て方のマナーは日本以上に遅れているといってよい。道路際の空き缶は日本の道路の数倍になろう。山道に毛の抜けた捨て犬がいた。

再び淡水に戻ると夕暮れの時間が近づき、観光客たちは西の方角にある水平線を眺め始めた。ここは夕日の美しさでも有名なのだ。残念ながら日没の直前に厚い雲に覆われ、見ることはできなかったが、このこじんまりした港町はとてもいい思い出になった。地元の人たちにとっては日帰りの気軽なレジャーにぴったりの場所であり、駅前にはちょっとした市がたっていた。外国人観光客はほとんどいない。台北の人々の生の生活を垣間見るには最適の場所だった。

アメリカ化される食生活 台北に戻るとまた別の「自助餐」を探して夕食をとった。帰りにセブンイレブンで台湾産のビールを買って部屋に戻る。なぜかいくら探しても台湾に酒屋が見つからない。酒は土産物屋かコンビニにしかないのだ。またレストランや食堂でも酒類を出すところはとても少ない。何か法律的な規制があるのだろうか。そういえばカナダでもアルコールに対する厳しい決まりがあったが。夜道をおおっぴらに酔って歩けるのは日本だけか。

コンビニの数は台北や高雄のような大都市は東京に劣らず密度が高い。ちょっと横町を曲がればすぐ見つかる。セブンイレブンがほとんどで、ファミリーマートやニコマートはごくわずかである。「麦当労」(マクドナルド)が多いのは世界的なものだろうが、食べ物屋や屋台の多いこの国で何でハンバーガーのようなつまらない食物に人気があるのだろう。いまさらながらアメリカ食物帝国主義に腹が立つ。食文化こそその国の風土に根付いた文化的伝統の根本であり、世界を多様化せしめているのだ。

そして食文化の最大の破壊者は若い両親である。幼い子供を喜ばすため、家庭サービスをしたつもりで彼らは「麦当労」に行く。子供たちの舌はこれによってコレステロールの固まりの味にならされ、その好みは一生続き、かくしてその子供たちもと、大量生産される。ファーストフードの社長は笑いがとまらない。中国人のような偉大な食文化を持つ人々でさえこのざまだから、昔からタロイモしか口にしたことのない人々にとっての影響はその国の糖尿病の罹病率に及ぶ。

さて、私は中国の家庭料理にも少なからず関心があり、今回の旅行中18回の食事のうち17回は中国風である。(あとの1回は残念ながら何と「麦当労」の朝食セットである。台南の町での日曜の朝はここしかあいていなかった。)高級料理店の食事もいいが、庶民の食べ物も驚くほど多様である。淡水の町でも人々は屋台や小さな店の食べ物を食べ歩き、海鮮料理店ではいくら客の呼び込みをしてもだれも入っていかないのであった。

第2章 東海岸と天祥 

すさまじい絶壁 第3日目にはいよいよ台北を離れて南下することにした。台北から羅東、羅東から蘇澳、蘇澳から花蓮と約300キロに及ぶ東海岸の道のり(蘇花公路)をバスを3回も乗り継いでたどり着いた。鉄道にしなかった理由は東海岸のすさまじい断崖絶壁の道をぜひ見てみたかったからである。そのうち130キロに及ぶ部分はほとんど垂直といってよい山脈がいきなり太平洋に落ち込むその崖にまさに「溝」を掘って作った、岩手県の三陸海岸を10倍ぐらい大きくして荒涼とした雰囲気を付け加えたものと思えばよい。

バスの乗客は私ただ一人。蘇澳の駅前から出発したそのバスは、そこが始発なのにバス停すらない。しかも出発して30分ぐらいして大型トラックとすれ違った際に「ザッ」という音が床下から聞こえてきた。どうやら岩石と接触したらしい。運転手が点検して「安寿、安寿」と言うまで生きた心地がしなかった。途中で道の真ん中でバスを止め、この先長いから小便をしろと言う。

冷泉に立ち寄る それにしても東海岸はすさまじい。西海岸が東海道のような開発された地域なのに対し、東海岸は裏日本どころではない。100キロ以上にわたって家を建てるスペースすらない。わずかに山から発した川の河口付近に猫の額ほどの平地、いや河原があるだけだ。いまさらながら自然のスケールの大きさに驚く。これに比べると日本の風景はなごやかで心静まる、箱庭的風景というのもうなずける。鉄道を使わず乗り合いバスを乗り継ぐのは、沢木耕太郎の旅行記にもあるように、時間がかかって大変だけれども、その土地の様子がよくわかって一人旅にはぴったりだ。

途中バス待ちで立ち寄った蘇澳の町は軍港であり、世界に二つしかないといわれる冷泉にも立ち寄った。親切なおじさんがいてペットボトルで冷泉の水をくんでふたをしいきおいよく振るとまるでサイダーのように溶けていた炭酸ガスが吹き出るのだった。観光地でもない田舎の人はとても親切だ。台北に比べると生活のペースは2分の1ぐらいだったが、あくせくせずのんびり暮らしている。過疎に悩む日本の田舎に比べると意外と豊かなのかもしれない。

地方の街歩き 花蓮の町は、すさまじい海岸道路のあとではまさに大都市である。到着したのは夕方近くだったが、早速、町が見渡せるという、戦死者を祭った忠烈祠のある山に向かう。南に下ることによってかなり暑くなった空気もこの自然公園の中ではさほどではない。緑の中で、練兵場の兵隊たちのかけ声が勇ましく聞こえてきた。この町は港のある、台北に比べるととても落ち着いた町だ。この町のあたりからなぜか日本語の話せる人と多く出会うようになる。

この日はこの町で600元で泊まったが(大新大旅社)自助餐のおかみさんはまったくよどみない日本語を操り、ご飯をお代わりしたら「あと10元払って下さい」としっかり言われた。ここの名物は芋菓子である。日本の饅頭と違うところは念入りに練っていないので、芋自体の舌触りが残っていることと、変な香料(ウコンか?まさかハッカクじゃあるまい!)が微量混じっていることだ。だからちょっと漢方薬臭い感じがする。前の総統が好んで通ったというワンタン湯を食べさせる店にも行ったが、ワンタンに入っている鳥の挽肉が臭くてこれは失敗。(だから前に座っていた青年は乾燥ニンニクを山ほど入れていたのか?)

奥地へ向かう 翌朝は海岸の公園をしばらく散歩した。とても気持ちのよい、細長い公園で、少し高台になっており、一方に太平洋、もう一方に市街地が見渡せる。このあと再び乗り合いバスに乗って山の中にある天祥に向かう。海岸にある花蓮から山間部に進むと太魯閣(タロコ)とよばれる町に来るが、そこから天祥までの道はたった18キロながらすさまじい峡谷地帯なのだ。ここは台湾の東海岸と西海岸を結ぶ「東西横貫公路」の一部である。

花蓮の町並みが終わろうとするあたりから遠くに見えていた山が突然目の前に迫ってくる。台湾の山の始まり方は唐突だ。平地だと思っていたら、いきなり崖のように急な山が現れる。そして道に中華街にあるような門がたっていてここより山岳道路の始まりであることを示してくれる。この先のカーブの連続、何百メートルもの深さを持つ、怒濤のように流れる急流、狭い道路を突進してくる大型トラックとのすれ違い、すべてバスのベテラン運転手さんにお任せするしかない。彼はまるで直線路であるかのように猛進する。くたびれ果てたバスのエンジンは断末魔の悲鳴を上げる。前日通ったあの断崖の道がそのまま山間部に突き進んでゆく 。道路は大理石の断崖に溝、いや傷をつけて川の描くカーブに忠実に進んでゆく。こんな急峻な場所で工事をしたのだから犠牲者を多数出してしまったのだ。

すさまじい断崖沿いの道山道を歩く 目的地の手前8キロほどの停留所でおろしてもらう。バスで一気に走り抜けるより、歩いてじっくり眺めてやろうと考えた。 断崖の壁がほとんど垂直に迫るので空がとても狭い。残念ながら歩道、遊歩道のたぐいはないので車道を用心しながら行かなければならない。それでも所々に旧道と思われる狭い道が並行して走っているところもあり、落石危険の表示が林立する中を進んだ。

ところが1キロもいかないうちに道路が相互一方通行になっている。前方では道路工事をしているのだという。仕方なく待つが交通整理係のお兄ちゃんがこのてくてく歩く珍しい旅人に注目して盛んに話しかけてくる。天祥までゆくこと、歩くのが好きなこと、日本人であることなどは伝えたが、さらにいろいろ話しかけてくる。とても早口だったけれども nuer (娘っこ)の単語が何度もでてきたから何を伝えたいかはだいたい察しがついた。一方通行は思いがけず15分ぐらいで解除になり、彼が大声で「うまくやれよ」とか何とか叫んでいる工事現場をあとにする。

暗闇を歩く 観光バスが止まってゆくところは「九曲洞」とよばれ、日本人のツアーが大勢歩いている。添乗員が勝手に歩く観光客を呼び戻すのに必死だった。見ていておかしい。途中人家を建てるスペースもないのだから2時間近く歩き続けてコーヒーハウスを見つけていっぱい注文したときは、空腹ではあったがコーヒーの味が体にしみた。だが100元だから東京の真ん中と同じ価格である。ツアーに参加せず自分たちでタクシーでここまで乗り付けた、奈良からやってきた二人の老婦人に写真を撮ってもらう。

いよいよ最後のトンネルは長さが500メートル近くあり、ただ穴をくりぬいただけだからもちろん電灯はついていない。しかも「く」の字の形に曲がっているので真ん中あたりでは真の暗闇になってしまった。どんなに目を凝らしても何も見えないのだ。時たま通る車のヘッドライトがなかったら果たして通り抜けられたたかわからない!トンネルを出ると天祥の看板がでていた。すでに足にはマメができてかなり痛んできた。大きく広がった川の真ん中が島、いや山になっておりその孤立した高台の上にお寺がそびえている。その行き来は一本の吊り橋である。どうしても渡 ってみたくなる。ここは尼寺である祥徳寺があり7重塔がたっていた。一体、この天祥というところはまったくの山の中にあり、人もあまり住んでいないのだが、このお寺、カトリック教会、長老教会と三つも宗教施設があるのだ。でも壮大な峡谷の中はどんな宗教にとってもふさわしい環境だ。

谷間にそびえる祥徳寺教会と伝道女史 天祥のバス停にやっとの思いでたどり着く。まわりにはみやげもの屋と食堂が5,6軒あるだけだが、今までの道のりに比べれば大都会に見える。さて今晩の宿ということでカトリック教会(付属ホテル)に行ったものの、有名なだけあって満員だという。ほかに泊まれるところはないかとたずねると(プロテスタントの)長老教会があると教えてくれた。宗派からいえば敵同士なので紹介しあうのも変な話だったが、結果的にはすてきな宿に恵まれた。

しばらく上り道をゆくと日本人の若い女性なら絶対に結婚式を挙げたくなるような芝生に包まれた、かわいい教会が見えてきた。二人の台湾人の若い女性が戸口の前に立っており、彼女らに声をかけると管理人のおばさんがまもなくやって来るという。二人は休暇でこの教会に泊まっており、今から帰るところだという。

幸い年上のほうの女性がきれいな英語を話せたので聞くところによればプロテスタントの伝道師のような仕事をしているという。この種の人々が何を話すか予想がついている。あなたは聖書を読んだことがありますかと聞くので、あるというと驚いてみせ、いくつかの聖書のエピソードを話すとキリストの教えがいかに すばらしいものかについて説き始めたのでこちらものせられて、延々30分以上も宗教論議をしてしまい、宿泊のことはお預けになってしまった。

彼女のような伝道に打ち込むプロテスタントは考えが一方的でキリストが神であり復活したことを信じるしかないと主張する。こちらは真理は一つで、キリスト教も仏教もイスラム教もその真理を示しているいわば山の側面なのだと主張したのだが・・・そしてキリストについては復活したかどうかということより人々に向かって話した内容に深く関心を持っていると伝えたところ、彼女はかなり興味を持ったようで自分は台北に住んでいるので帰りにぜひ寄るようにと住所と電話番号を書いて渡してくれた。台北に戻って電話をしたら日曜のため留守番電話しかかからなかったが、やはりプロテスタントの伝道セミナーを開いているらしかった。山を下りる彼女らに別れを告げ、管理人のおばさんに泊まりたいと告げるとわずか300元でよいという。こんなすばらしい空気、絶えざる渓流の音、緑の森林、そして狭いながらもこぎれいな部屋、今回の台湾旅行では最も安く最も快適な宿だった。

ウエールズ青年の身の上話 天祥のバス停から1時間ほど上流へ国道を歩くと「文山温泉」という露天風呂があるという。こんな夕方ではバスの便もないのでとにかくてくてく歩くとする。ところが「どーん」という音が山奥で響き国道は通行止めになってしまった。ダイナマイトで発破をしてこれから片づけるのだという。すでに十数台の車が列を作っている。この国道は山崩れが絶えず年中工事ばかりやっているみたいだ。だが意外とはやく40分ぐらいで解除になりさっそく歩き始めた。

私の先を一人の白人が歩いている。分かれ道に来たとき彼に温泉にゆくのかとたずねた。彼は気さくな男ですぐ仲良くなり、温泉にたどり着くまでの約1時間互いに身の上話をした。彼は Michel Ings といい、イギリスのウエールズ地方出身。27歳。10代後半で瀕死の事故に遭い、額には大きな十字の傷跡があり、右手は麻痺して字が書けない。でも世界を見たい気持ちは強く、今までに30カ国をさまよった。一番好きな国はフランス、第2位は日本。利尻島から広島まで旅をし、日本の人々の親切さと礼儀正しさに感動したという。自分の国の「良さ」は意外と外国からの旅行者によって実感されるものかもしれない。台湾をまわったあとまた日本に戻りたいという。

この旅が終わったらウエールズに戻りcharity、つまり「慈善団体」の仕事につきたいという。教会関係というより、赤十字のような仕事につきたいという。その理由は自分が事故に遭い、その回復のために多くの人々の世話になったからだというのだ。こういう動機で仕事を選ぶ生き方がある。野口英世もそうだったと聞く。ついでにどんな嫁さんがほしいかと聞くと、30過ぎてからでいいから8歳ぐらい年下の若い女の子がいいという。若い結婚はしたくないそうだ。イギリスでは20歳になる前に結婚し、離婚に終わるケースが非常に多く、自分は慎重にゆきたいという。ヨーロッパの人間はアメリカの人間と大変違う。人生観 もはるかに慎重だし、むやみに楽観的ではないし、なんといっても画一化されていない。

あつあつ露天風呂 そうこうするうちに温泉にたどり着いた。といっても建物があるわけでない。吊り橋を渡って谷底におりてゆくと二人ぶんの脱衣所があり、岩のくぼみに50度近くの熱湯がわき出ているのである。日本人は一般に熱い湯になれているからこの程度のお湯なら平気だ。10人ほどいるまわりの台湾人たちは5秒とつかっていられない。Michel も川の水で薄められたぬるい湯で喜んでいる。硫黄のにおいが漂い、足のマメはこの熱湯のおかげで痛みが引っ込んだ。日本にもこういう温泉はたくさんあるが、ジャングルの真ん中で毒蛇の心配をしなければならないようなところはあるまい。まわりにはおみやげ屋一つなく、それでも派出所だけがあるのは感心する。6時が過ぎ山肌は真っ暗になった。また1時間の道のりを歩いてホテルに戻る。またマメが傷みだした。Michel と夕食を食べたあと、彼はカトリック教会へ、私は長老教会にそれぞれ戻る。

日本のメロディ 山奥から響く渓流の音で目が覚めた。教会にはほかにも宿泊客がいるのだが、何とも静かだ。泊まった部屋はベッドでいっぱいになるほどの狭い部屋だが、いかにも教会らしい質素な作りで壁にはワニスが塗られ清潔感が漂う。さあ、これからまたバスに乗って西海岸にある町、台中に向かうぞ、と思ったがバスがこない。いくら待ってもこない。諦めて再び花蓮に戻ることにする。こういうときはじたばたしないことだ。きのうのダイナマイトの工事でわかるように、ここの国道はいつ閉鎖されてもおかしくない。まして台中までは6時間、約200キロの道のりなのだから。

花蓮からさらに南下することに決める。バスを乗り継いで台東に向かう。3時間。東海岸の大都市としては最も南だ。さらに高雄行きのバスに乗り継ぐ。さらに3時間。バスの車内には何と日本の歌謡曲、演歌が流れる。人々はメロディを口ずさんでいる。これは台北にはまったく見られなかった光景だ。ついにはサザン・オールスターズの歌まで飛び出した。何となく気恥ずかしい。これはバスの運転手さんの趣味によるだけではないのだ。この地方に根付いた習慣なのだ。そしてすでに述べたことだが 南部では日本語の上手な人が多い。下手でも一言二言日本語をしゃべろうとする。台東からのバスのとなりに座っていたおじさんは「アトイチジカンダヨ」とつたない日本語で教えてくれた。

犬口過剰? 台湾は犬がやたら多い。すでに淡水で野良犬を見たが、田舎に行けばいくほどその数は増え、バスから見るとどんな通りにも2,3匹うろうろしているのだった。暑いところだからみな毛の短い種類ばかりだ。色は白か茶色。一説によると食料の足しにしているとか。ただ健康そうなのは少なく、たいてい毛が抜けているか、やせ細っているのであった。交通事故で足をなくしたのもいた。天祥の長老教会の犬は人なつっこくて座っていると近寄ってきたが片目がつぶれていた。(多分トラコーマだ)

第3章 西海岸 

南回りで 高雄に着いたのは夕方7時をまわっていた。これらはまったく計画外のことであるが、台湾第2の都市に行けたのだから文句あるまい。しかもこれからあの有名な夜市(よいち)を訪れることができる!ホテルはすぐ見つかった。600元。(華賓旅館)そもそも安宿は2種類に分かれる。はじめから安っぽい宿をめざして狭く作られたもの。風呂やトイレはもちろん共同。もう一つははじめは大飯店だったのだが、あとからできた周辺の立派なホテルのせいで落ち目になり老朽化した結果、宿泊料を下げざるを得なくなったもの。台北のは前者であり、花蓮と高雄のは後者に属する。後者のほうが居心地がいいのは言うまでもない。

台湾のテレビ テレビもついている。テレビ番組は世界中どこに行ってもそうであるように、大衆を馬鹿にした白痴番組ばかりである。驚くほど日本のテレビの構成に似ている。クイズもドキュメンタリーもバラエティも中国語でなければまったくそっくりだ。プロデューサーは日本で修行してくるのかしら。ただ違う点は死体や容疑者を平気で大写しにすることだ。たまたまその日は、女とその愛人が女の産んだ男の子を虐待して死なせたニュースをやっていたが、そのむごたらしく殺された男の子の現場写真が写ったのにはさすが気分が悪くなった。

交通事故で即死した人の遺体の写真もショッキングだ。もっともこれは交通事故防止には効果があるかもしれない。もう一つは漢字による字幕が出ることだ。台湾では他の中国人が住む地域と同じく、みんなが北京語をしゃべれるとは限らない。広東語や福建語かもしれない。でも書き言葉である漢字は共通なので、たとえテレビでしゃべっているのがわからなくても、文字を見れば理解できるというわけなのだろう。私も聞き取れないときの確認には大いに役立てることができた。

高雄の食べ歩き 夜市は台湾のどんな大都市にもあるが、実際にいったのは今度が始めてである。屋台を次々とはしごするのが大きな楽しみである。暴力団員風の男がやっているものは少なく、母娘とか親父と息子のような家族的経営のものが多い。今回いったのは駅前から徒歩15分ほどの六合夜市で、長さ300メートルの通りに両側にびっしり並び真ん中はバイクの駐輪場になっている。土曜の夜のせいかすごい人混みだ。

ここで食べたものは、1.イカ焼2.豆花 3.手打ちそば 4.鳥の頭部にたれを付けて焼いたもの(東山鶏頭)5.マンゴーをむいて切ったもの 6.ビール2缶 となり、合計232元に達したが、食いしん坊にはこたえられない楽しみである。高雄は港町なので本当はさしみを食べたかったけれどもガイドブックには衛生状態がよくないとあったのであえて我慢した。屋台をまわっている途中、若い女の子が配っているテッシューをもらった。読んでみると、ゲームセンターの宣伝だった。賭博禁止、お得な券のサービス、とある。こういう商売のやり方は日本とそっくりだ。

落ち着いた町へ 高雄は大都市だが、しょせん工業中心なのでみどころが少ない。それで隣町の台南に向かうことにした。翌朝6時45分のバスに乗ろうと早起きしたのはいいが、高速道路が大渋滞で結局着いたのが8時前のはずが9時半近くだった。東海岸と比べて途方もなく車の数が多いのだ。あまりの渋滞がひどいのでバスの最後部に乗っていた人が台南駅についても目を覚まさずぐっすり眠っている。「到了」(着いたよ)と声をかけるとあわてて目を覚まし礼を言っておりていった。日本の乗り物ではわざわざ声をかける気にならないだろう。でもこの国では、特にこの地方では人とのコミュニケーションは自然にわいてくるのである。

熱帯直下 かなり予定より遅れたけれども台湾の京都である台南の主なお寺や廟を訪れることができた。ここは北回帰線の南だから本物の熱帯だ。本当に暑い。ちょっと早足で歩くとすぐ汗びっしょりになってしまう。でも台北のような雑然としたところはなく、人々は家の前に花を飾り生活をエンジョイしているようだ。人の流れも何となくのんびりしている。こんな小さな島でも南と北では風土がこんなにも違うものなのか。どこのお寺や廟を訪れても人々がいっぱいで、線香の煙がもうもうと立ちこめている。どこかインドと似ているのだ。町のにおいも似ている。まだ人々の間には信仰の心が根強く残っている。たとえそれが現世の御利益だけだとしても神や仏に頼るおごりのない生活態度が見えてくる。またこれらの建物が人々の集まる場所になるからそこから自然なコミュニティ意識が生まれるのだろう。わずか2時間あまりだったけれども台南の町を満喫できた。

最後は列車で 12時35分には台北行きの急行列車がでる。(ロ光号)そう、最後には鉄道の旅もしたかったのだ。運良く指定席がとれたのだ。バスよりやや高いが、(576元)今朝の大渋滞を考えると時間通りに300キロ先の台北についてほしかった。もっとも、となりに座った男が恋人を膝に乗せてイチャイチャしていたので、台中に着くまではどうもおちつかなかったが。駅弁がすばらしい。たった80元で鶏肉を照り焼きにしたものを中心に、すばらしいボリュームだ。幕の内弁当のようにあっさりしたものではなく、自助餐で食べたような庶民のおかずがいっぱい詰まった腹一杯主義の食い物だ。傍らで見ていて台湾人は小食ではないかと思っていたが、とんでもない、やはり彼らはよく食う。

台北下町巡り いよいよ明日は帰国の日だ。再び Happy Family に宿をとる。但し新館で、前よりはましな部屋で値段は同じ。問題は飛行機の出発時間が午後1時20分なのでそれまでどう過ごそうかということ。2時間という余裕から計算して台北のとなりの駅「万華」へ普通電車で向かう。そこは台北の浅草寺である「龍山寺」があるのだ。もうもうたる線香の煙、お守りを買い求める人々、大声でお経を一斉に唱えている人々、そこには確かに下町の雰囲気が漂っていた。ここら辺は台北の中でも古くから開けた場所なのでやはり浅草のような感じがするのだろう。ここから歩いて10分もすれば官庁街に着くのだが。

最後の思い出に省立博物館を訪れる。ここには台湾の動植物が剥製や押し花の形で展示されている。あの恐ろしい台湾ハブの姿を見たかったのだ。もっとも春休みということで小学生が騒ぎまわって落ち着いてみることができなかったが。ここの入場料はたった10元なのだ。しかも自動販売機のジュースは普通は20元なのに何と12元の缶ジュースもある。(小学生向けか?)

アジアらしさ 11時になった。空港行きのバス乗り場に向かう。すっかりなじみになった台北の町を歩きながらまたあの「補習班」の看板を目にする。コンビニや麦当労の店が多すぎるのが欠点だが、まだまだアジアの町の魅力を失っていない。またソウルやカルカッタと違って日本の町ととても似た雰囲気もある。バス乗り場でまた弁当を買った。70元だがきのうの駅弁に劣らずボリュームがありしかもご飯とおかずが入れ物によって2階建てになっているのが面白い。

帰国 台北の中正機場には、高速道路がすいていたおかげで予定通り到着。日本アジア航空のカウンターには成田や大阪へ向かう日本人が列を作っていた。1週間ぶりに聞く本物の日本語。彼らの引っ越しを思わせるような巨大なトランクを見ていまさらながら自分の荷物の少なさに驚く。おかげで本当に身軽な旅ができた。荷物を一切合切持って市内見物ができた位なのだから。さて今回の目的である中国語(マンダリン)による意志疎通はかなり成功したと思う。

天祥で出会った女性は例外として、中国人で英語の話せる人は空港や大ホテルをのぞいてきわめてまれである。イギリス人やアメリカ人は英語が世界の共通語と思いこみ、それでごり押しをしようとする人も多いようだが、ビジネスの世界ならともかく、庶民の食堂ではやはり地元の言葉が勝負なのだ。そして言葉の学習には教科書の説明とは必ずギャップがあるから、実地訓練が絶対必要である。バスの運転手に自分の希望するバス停を伝えるのは会話学校の1時間の授業に匹敵する緊張と集中を必要とする、といったら大げさか?いよいよ次は中国大陸へ向かうとしよう。

第4章 記録

1998年 3月31日より4月6日まで

3月31日午前成田発、台北着、市内見物、台北泊

4月1日 バスで故宮博物院へ・地下鉄で淡水へ、台北泊

4月2日 バスで台北から羅東・蘇オウ・花蓮へ、花蓮泊

4月3日 バスで花蓮から天祥ヘ、天祥泊

4月4日 バスで天祥から花蓮、台東を経て高雄へ、高雄泊

4月5日 バスで高雄から台南、鉄道で台南から台北へ、台北泊

4月6日 午前台北発、成田着

おわり

HOME > 体験編 > 旅行記 > 台湾

inserted by FC2 system