カナダからアメリカ・ワシントン州を臨む

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旅で二つのことがわかる。
一つはいかに人間は地域によって異なっているか。
もう一つは人間はどこに行ってもいかに似通っているか。
目次
  1. おくのほそ道
  2. ホテルの選択
  3. 新幹線の通じた街へ
  4. 非日常的空間を求めて
  5. 素敵な大都市ベストワン
  6. 地球の表面を移動する
  7. 訪れた国々

おくのほそ道

松尾芭蕉の『 おくのほそ道 』の冒頭は次のようになっている。学校時代に暗記させられた人も多いだろう。だが中には”させられた”のではなくどうしても自分から暗唱したくなってしまう人もいるものだ。それほどにこの文は旅の気分をかき立ててくれる。。

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸するより、松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、草の戸も住替る代ぞひなの家 面八句を庵の柱に懸置。

Tsukihiha hakutaino kakakunishite, ikikoutoshimo mata tabibitonari. Huneno ueni shoogaiwo ukabe, umano kuchi toraete oiwo mukauru monowa, hibi tabinishite tabiwo sumikatosu. Kojinmo ooku tabini shiseruari. Yomo izureno toshiyorika, hen'unno kazeni sasowarete, hyoohakuno omoi yamazu, kaihin'ni sasurae, kozono aki kooshoono haokuni kumonosuwo haraite, yaya toshimokure, harutateru kasumino sorani, shirakawano seki koento, sozorogamino mononi tsukite kokorowo kuruwase, doosojin'no manekiniaite torumono teni tsukazu, momohikino yaburewo tsuzuri, kasanowo tsukekaete, sanri'ni kyuu'suruyori, matsushimano tsuki mazu kokoroni kakarite, sumeru katawa hitoni yuzuri, sanpuuga besshoni utsuruni, KUSANO TOMO SUMIKAWARU YOZO HINANO IE omote hakkuwo iorino hashirani kakeoku.

世の中は、定住することが最高であり最後は畳の上で死にたいという人が大多数を占める。旅人、漂泊者は常に少数民族である。だが、それだからこそ新しい境地を求めてどこかへ彷徨いたくなるのだ。

2010年1月初稿

ホテルの選択

海外における日本人観光客のほとんどはいわゆる”豪華”ホテルへ向かう。というよりは日本の大手旅行業者が競って高級ホテルを各地で部屋の買占めを図り、観光客たちはこのレベルが旅行での”標準”だと思わされているふしがある。

だが、ホテルが一流であればあるほど、その内容は個性のないものになる。部屋の中は西洋風で限りなく金をかけ、食事はやはり西洋風の最高の素材を使い、マニュアルどおりに厳しく訓練された従業員たちが中を行きかう。客はこれを最高のサービスととるから、勢い世界中のホテルの質は画一化される。

これでは世界を旅した意味がない。旅とは多様性を求め、それに感動することに意義があるのではないのか?ホテルの前でケンカがあったり、交通事故が起きたとか、隣に住む主婦が、ホテルの調理場にやってきて、「砂糖がきれたからちょっと貸して」と言いながら世間話が始まるような中流以下のホテルでないと、その国の実情はホテルを通してではわからない。

少なくとも一つのホテルはその町の最低ランクか少なくとも下から数えたほうが早いものを選ぶべきだ。たとえ、ベッドにもぐりこんだとたん、南京虫に咬まれることがあっても、それはそれで、あとになって思い出せば面白おかしい体験ではないか。ここは貧しい行商人のよく泊まる宿なんだな、とわかる。そんなことを嫌がっていては旅をしても仕方がない。

もっとも、本当の自由人とは、1日目は最低のホテルに泊まり、2日目は最高のホテルにも泊まり、どちらも自由自在に楽しめる人たちのことを言う。格式や世間体にとらわれず、その国の上流階級から下層階級に至るまで、すべての人々に接することができる人が”真の旅人”なのだ。その国の食べ物や水がなじめないなんて言語同断!そういう人は自宅の大型スクリーンで海外の状況を眺めているに限る。かつて吉永小百合の海外旅行についての思い出を書いた本を読んだことがあるが、彼女も出された現地の食べ物は何でも食べてしまうそうだ。

だから旅人には体力がいるのだ。”快適な”環境でしか生きられない人間が、快適な旅をしていったい何の体験ができようか?何の意味があるのか?それでは単なる気晴らしか受動的な娯楽に過ぎないものとなる。それならごろ寝してテレビの前でポテトチップスあたりをかじっていればいいではないか。旅を志す人はジムに通い、徹底的に体を鍛えてから出発せよ。

2009年4月初稿2011年10月追加

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新幹線の通じた街へ

新幹線が、採算性を無視してどんどん延長される。政治家たちの絶好の収入源である土木建築工事は、国家が借金漬けになって身動きままならなくなっても平気で続けられる。

新幹線の開通は大勢の観光客を引きつける。これまでは遠いとか時間がかかりすぎると思っていたところが一気に近くなるのだからあまり旅をしない人も機会を見ていってみたいと思う。地元の土産物屋や旅館は大喜びだし、東京の大資本も金儲けのチャンスを虎視眈々と狙っている。

だが、これまで新幹線が開通してすべての観光地はますます俗化した。東京近郊の観光地と何も変わらなくなり、人々の親切さは消え、物価は上がり、誰も知らない穴場はすべて探索し尽くされた。東京都同じようなチェーン店の食べ物矢が並び、東京都同じ味のものを食べさせる。

新幹線の駅前は特に「東京都・・・区」といってもまったくおかしくないほどの変貌だ。地方の発展は東京の資本や人が流入することだけで進むものではあるまい。特にそのアイデンティティを失った町はまったく訪れる価値がなくなる。

新幹線に先立って多くの地方で高速道が開通したが、インターチェンジを降りるとどこもかもまったく同じような町並み、つまり同じ食べ物や車のディーラーや背広の量販店が立ち並ぶ。新幹線によってますます多くの観光客が呼び込まれ、町全体が同じようになってゆく。

観光スポットは整備され、観光客は定められたとおりにそのコースを歩く。ディズニーランドと何ら変わりはないのだ。同じ食べ物を食べ、同じ感想を持って家に帰って行く。

日本国内の旅のすばらしさは中央から隔絶された土地で、そこ独自に栄えた文化や人々やその方言との出会いにある。「男はつらいよ」の初期の作品を見るとまだそれが各地に残っていたことがわかる。東京オリンピックと東海道新幹線開通がそれを大きく変えた。

今東北では八戸以北への工事が始まっている。九州では博多と鹿児島がつながる日も近いことだろう。新幹線の来ないうちにまだ残っている地方を見て歩くのだ。急げ。すべてが消えてしまわないうちに。

2004年12月初稿

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非日常的空間を求めて

普段の生活が一定の土地に固着して営まれる人にとっては、旅は、日常的生活空間からの離脱を意味する。それは単なる気晴らしにとどまらず、人生の中での、一つの節目として活かすことができるかもしれない。

ただ物見遊山とか、スケジュールに従って行く旅行と違って、定住生活で押しつけられたすべてのもの、管理、金、時間の区切り、目標、などからできるだけ解放されることを目指す旅を行いたいものだ。

残念ながら、他のすべてのものと同じく、旅行も現在のすさまじい商業主義に取り込まれてしまって、すっかり「商品」化してしまっているし、旅行会社の人たちも自分たちができるだけたくさん売るべきものとしてはばからない。旅は大根や自動車と同じなのだ。

だから旅の求める、「隔絶」「異次元」「非経済的活動」のどれをとっても現代の旅行「産業」の敵であることがわかる。もはや彼らと結びついていたらなにも得るところはないと言っていい。

だが多くの現代人は鷹揚なのか、すっかり商業主義に毒されたのか、そのようなお膳立ては一向に意に介さないらしい。むしろ他の生活の側面と同じく「便利さ」「快適さ」が優先され、それらがかなわぬようであれば旅行に出たりしない人々が多い。

旅は「不便」で、「不快」でなければその本質に迫ることができないのではないか。別に難しい理論をうち立てるつもりはないが、せっかく貴重な時間と費用をかける以上、それに値するものを得たいのは誰でも思っていることだから、この点を特に追求してみたい。

サンマルコ広場私はベニスで、逆方向の渡し船に乗ってしまった。それで連れて行かれたところは、あの壮麗なサンマルコ寺院からは想像もつかない、まるで愛知県四日市市に来たと錯覚するような、化学工業地帯であった。観光地の裏舞台を見てしまったわけだ。

それは旅の「失敗」になるのか。そうではないと思う。日常生活では、愚かなことを嘲笑されることであっても、旅ではそれが「収穫」にもなるのだ。

ガイドブックは持たない、地図で目をつぶって鉛筆を落としたところに行く、といったようなラジカルなことができればなおもおもしろいだろうが。(これは「ドリトル先生航海記」でのアイディア)

豪華ホテルには泊まるな。旅とは登山やキャンプに似ている。日常生活の快適さから離れたところに価値がある。もしホテルで自宅以上の快適さが得られるなら、旅をした意味がない。よくオートキャンプをする人で、冷房からありとあらゆる電気製品を備えたキャンピングカーを持っている人が居るが、それは「外へ出る」という意味がなにも分かっちゃいないのだ。

2000年4月初稿2003年12月追加

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素敵な大都市ベストワン

カルカッタ繁華街ニューヨーク、ニューオリンズ、ワシントン、マイアミ、バンクーバー、シアトル、ニューデリー、カルカッタ、シンガポール、香港、台北、高雄、上海、バンコック、ローマ、ベニス、ミラノ、フィレンツェ、ソウル、釜山、パリとずいぶん大都市を訪れたが、どこが一番よかっただろうか。

大都市は人間社会の集積だ。自然の美しさを愛でるのと違って、その国の恥部を見ざるを得ない場合が多い。だが、その混沌の中に潜むエネルギーを発見するのもまた大きな興奮のもとになる。

初めて香港を訪れて、誰も歩行者が交通信号を守らないのに驚かされた。だが、その後ニューヨークやその他の都市を訪れてみて、守らないほうが当たり前、世界の大勢であることに気づいた。交通規則をがんじがらめに守らなくとも都市生活は順調にいっている。

日本のようにきちんと守る人が多いのはむしろ例外に属するのである。もちろん交通事故の防止から見ると交通信号を守る方がいいに決まっているが、ある研究によると、信号に頼り切って自分から注意しなくなるより、自分の「責任」で道路を渡るほうが、事故の率が少ないという。

上海のサーカス国民性の違いといえばそれまでだが、この「自分の行動についての責任」というのは重大な生活態度の一つではないかと思う。なぜならたかが横断歩道を渡ることが、支配者の言うことに盲従するような傾向と全く無縁ではないと思われるからだ。

都市は清潔な方がいいか?まともな精神を持った日本人なら当然そうだと答えるだろう。だが私はそうは思わない。チリ一つ落ちていない町なんて死んだも同然だと思う。狭くてごみごみしているのが都市ではないか?それがいやなら完全な田舎に引っ越せばよい。

オリンピックが開かれて外国人が顔をしかめないように、ソウルの町は屋台が追い出されて、あらゆる面で管理下や整理が進んだ。それによってこの町はつまらない、オフィスだけの町にまた近づいた。幸い雑然とした市場がまだあちこちにあるから当分はその魅力を保つだろうが、このオリンピックという魔物、東京の場合もそうだったが、町から生気を抜き取るようなきがしてならない。

都会がその元気さを発揮するのは、売り買いの場、つまり市場とその周辺である。それもきれいな屋根に覆われた整然たるビルではなく、地方の人々がそれぞれの産地から持ち込んだ色とりどりの特産物の山盛りの屋台である。釜山の町の海岸沿いの通りがまさにそれである。中には腐ったような魚もあったが、その活気のすさまじさは、そこを歩いているだけで楽しくなる。

アメリカの中都市のように、どんどん郊外に大規模店やモールが進出し、都心の店がさびれてゆくのは世界的な傾向だが、これこそ、世界中を画一化された、つまらない場所にするためにがんぱっているようなものだ。どこかで見たハンバーガーショップにコンビニやドラッグストア。全くあきれかえるほど個性がない。そんなところに高い航空運賃をかけて行くなんて愚の骨頂だろう。

郊外というものも中途半端なところだ。ごみごみした都会はいや。でも全くの田舎もいや。そこできあがったのが、車で長時間かけてゆく、人工的な街 suburbs である。そこには文化がない。寝て休息するだけの場所だからである。文化はすべてホーム・エンターテインメントでまかなう。同類が住む、清潔そのものの町だ。

今日本で江戸文化の研究がもてはやされるのは、すっかり近代化してしまった東京や大阪の町に不満を持ち、長屋で肩をつきあわせるようにして暮らしていた時代への郷愁がそうさせるのだろう。東京や大阪に魅力が少ないのは、都市を計画する人間に、車をいかにスムーズに流すかということしか頭にないからだ。彼らにとって屋台をのぞいたり、大道芸人を眺めたりするのは「交通妨害」としてしか目に入らないからだ。彼らにとっては文化や文化の芽生えは管理上好ましくないものなのである。

かつて6,70年代の新宿でフォークソングブームでギターを抱えた若者が駅の内外にたむろし、好きな歌を歌っていた時期があった。これも強力な警察の取り締まりのおかげですっかり姿を消してしまった。「立ち止まるな!」と演奏者をせっつくのである。役所とか行政とは文化を破壊するために給料をもらっているようなものである。そのくせ「ハコモノ」だけは作るのが大好きである。

魅力ある都市であるためには、ある程度雑然としていて、大道芸人が人の集まるところ至る所におり、またその近くには屋台がたくさん群れていること。地下鉄やバス交通が発達していて24時間営業を行っており、中心部にはタクシー以外は入りにくくなっていること。それによって歩行者が自由自在に街の中をさまようことができること。

シアトル市場前の豚の銅像大店舗だけでなく、個性的な専門店、そして古道具屋、古書店、骨董品店、その他使い古しのものを循環させるような小さな店が元気なこと。入場券の安い劇場、芝居小屋、映画館が大小そろっていて、テレビ生活をせずに済むこと。コンビニだけでなく、人々の日常の食事に必要な食材がたやすく買い求められる大きな市場もあること。

街が人種のるつぼで、それぞれ固有の文化を持った街区を作り上げ、独自の雰囲気を漂わせていること。しかもそれらが狭いところに集中していて、1キロも歩けばとなりの街区に入ってしまうほど狭いところでもあること。都市はすべて「徒歩圏」に収まらなければならない。

もうここまで行ったら結論は早い。このすべてを満足させるわけではないけれども、今まで出かけた街では、第1位は文化の多様性を途方もなく持ち合わせたパリ、第2位に挙げられるのはニューヨークだ。そして第3位は雑然としすぎているけれども、そのエネルギーに敬意を表して、カルカッタ。第4位はフィレンツェか。

ニューヨークマンハッタンブリッジ 逆にワーストワンはバンクーバー。ワシントン、シンガポール、ニューデリー(オールドデリーではなく)もどうも良くない。そもそも首都というのは国の中心だから、金をかけて整備しようとする。だから魅力があまりない。ニューヨークが幸いしたのは首都でないからだ。中には「アメリカのカルカッタ」という人もいるが、最近は清潔、安全化への道をたどっている。これを「ジェントリフィケーション Gentrification 」というが、これはもはや止められない。

2000年5月初稿2004年1月改訂

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地球の表面を移動する

旅行のガイドブックに「地球の歩き方」というのがある。海外に行けば老若男女誰でもあの重いのを抱えて歩いている。だからこの本位紹介されている「穴場」には自然とこの本の愛読者が集まることになる。

ほほえましいといえばそれまでだが、もともとこの本は冒険を求める単独旅行者のために作られたのであるから、これがこれほど大衆化して誰でもが持ってしまうと、むしろ持たないほうが旅の良さを味わえることになろう。 ところで「歩き方」とは言うものの、日本人にとって海外旅行とはまず航空機に乗ることから始まることは常識になっている。現実的な相談ではないが、飛行機を利用しないことこそ「旅」の神髄であることは間違いない。 それで朝鮮半島に行くときは、飛行機を使わない方法を考えた。これは簡単である。東京新宿バスターミナルから博多行きの夜行バスが出ている。(新幹線では気分がでない)翌日の午前9時頃到着したら、博多港に急行する。 そこには釜山行きの水中翼船が待っているはずだ。パスポートと、必要書類を書き込めば、3時間後には空を飛ばずに外国に到着である。(九州の人は何とも思っていないだろうが)

地球は丸い。われわれはその表面をはいつくばって移動するのが最も似合っているのだ。だとするとそれに似合った交通機関を探してみるとなかなかおもしろい。

深夜特急ー沢木耕太郎乗り合いバスといえば沢木耕太郎の「深夜特急」を思い出す人も多かろう。彼は南アジアを次々とバスを乗り継いでロンドンまで行った。陸続きの国々を次々と越えて行くのである。 もちろんこの場合「直行バス」ではなく細切れの「ローカルバス」であればなおさらいいだろう。アメリカ合衆国にはグレイハウンドバスがある。ニューオリンズからマイアミ、ワシントン、ニューヨークへと移動したが、いずれも人々の生活の足であり、乗客が停留所のたびに入れ替わるのである。また釜山とソウルの間では高速バスに乗った。 バスに比べると、鉄道は地域性は薄れるが長距離には欠かせない。カルカッタからニューデリーの間はいわゆる幹線だが、外国人用の特等車でなく、庶民用の3等車に乗ると、人々の生活が痛いほどよくわかる。(一晩中乗って、腰が痛くなったのは事実だ)イタリアでのローマ、ミラノ、フィレンツェ、ベニス間は何と言っても列車が快適だ。日本の鉄道感覚に似ているから。

旅行記を読むと、自動車、バイク、自転車、そして何とリヤカーで行く人々がいる。体力と根性に応じてこれらを使い分けるのもいいだろう。ただ、これらは一つだけ欠点がある。それは「ころがり」ながら進むという点だ。

コロの発明はピラミッドの建設をはじめとして文明に大変な進歩をもたらしたと言われている。だがそれは平らにならされた平面における話であって、地球上がすべてローラーによって手入れされているわけではない。

この間サイクリングに行ってこのことをいやと言うほど思い知らされた。走りやすい林道だと思っていって見たら、梅雨の豪雨で道路が崩壊し、あまりに土砂崩れがひどいので、修理は放置され、辺り一面大岩とがれきの山なのだ。マウンテンバイクだが、とても乗って進める状態ではなかった。

日本の峠でこの状態だから、アフガニスタンやパラグアイやウガンダではどのようなことになっているか容易に想像できる。

パリ・ダカールラリーのように力任せで金をかければ、どんなひどいところでも走れるかもしれない。だが実際問題として地球の表面には移動の楽なところというのはむしろ例外に属するのだ。だからかつてのアマゾンやアフリカ奥地やベトナムの森林地帯の探検に川をボートでさかのぼる手法が使われたのは当然だといえる。

船、ボートというのは最も気持ちのいいエネルギー消費の少ない交通手段だ。ディズニーランドの見せ物の大部分がボートライドによっているのはそのせいだ。かつて穀物や大きな重量物のために運河を掘ったのもそのせいだ。移動手段は手こぎでもよいし、帆船の利用も可能。

ここで注目に値するのは日本の発明になる、「櫓」である。決してスピードが速いわけではないが、ローマの奴隷が漕ぐガレー船を連想させる、西洋式のオールと違い、実に力のいらない、それでいて流体力学の原理を見事に利用した推進方法があるのだ。だが日本にもこれが操れる人々が激減してしまった。

だがどうしても陸上を移動するというのならほかの方法を考えなければなるまい。ある生物学者の書いた本に、なぜ動物は「車輪」を進化させなかったかについて述べている。一つには、回転部分を血管で連結することができなかったこと。そしてもう一つは過酷な地球上の地形である。

考えてみれば人間が「歩く」ということは何と不格好な行為である事よ。一方の棒を「杖」にしてもう一方の棒を浮かせ、少し先に「着地」する。今度は反対側を「杖」にする・・・だがこの方法が遅いかもしれないが急な山もがれき地帯も泥沼も進めるようにしてくれたのだからおもしろい。

四つ足の動物ならその上さらにスピードが加わる。二本足のわれわれはスピードは犠牲になったが、とりあえず地球上の大部分を訪れることができるようになった。結局この地表は歩くしかなさそうだ。

こうして考えてみると、すっかり自動車に頼り切り、ちょっとしたところでも自らの足で歩かなくなった最近のライフスタイルの変化は、進化によってせっかく積み上げた蓄積を全く無にしているように思えてならない。

ノートル・ダムいずれにせよサハラ砂漠もアマゾンのジャングルも歩くに限る。もしゆとりがあれば動物に頼ることもできようが。馬、牛、ロバ、ラバ、ラクダ、ゾウはいずれも弱い人間の足の代わりになってくれる。人間が乗れるほどの大型動物は余り多くない。将来的には鯨やイルカも可能になるかもしれないが。

雪上と氷上は何とかなる。スキー、スノーボード、そり、スケートが発明されているからだ。いずれにおいても人類の長年に渡る優れた工夫がこれらの地域の移動を可能にしている。北極圏も高山地帯もこれらのおかげで生活が成り立つのだ。

最後に残った方法は「鳥」になること。人間の筋力と体重では、自らの力で羽ばたくことは不可能だが、昼の大気の流れには「上昇気流」というものがある。これを利用する方法が最近発明されている。ハンググライダーとパラグライダーである。ちょっとした山塊を周回するだけならこれで十分やれるという。実に素晴らしいものを発明してくれたものだ。

旅は「移動」である。巨大な構造物やシステムに頼らず、文明の利器などと言う「力任せ」の助けを借りずにしてはじめてその醍醐味が味わえる。

2000年7月初稿

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訪れた国々
北アメリカ カナダ、アメリカ合衆国 
アフリカ  エジプト、ケニア、タンザニア
ヨーロッパ  イギリス、フランス、ベルギー、スペイン、ポルトガル、イタリア、バチカン
ユーラシア中部  ロシア、トルコ、インド、ネパール
ユーラシア東部  中国、台湾、韓国、マレーシア、タイ、香港、シンガポール

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© 西田茂博 NISHIDA shigehiro

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