(2015年9月)

Lake Victoria

目次

PAGE 1

東アフリカへ

ナイロビ→アルーシャ

PAGE 2

タンザニア西と東

ムワンザダル・エス・サラーム

PAGE 3

もうひとつのタンザニア

ザンジバル=ストーンタウン

ザンジバル=北部海岸とプリズン島

記 録

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タンザニア西と東 

内陸と海岸部:  タンザニアの国土は比較的平坦であるが、内陸部、つまりヴィクトリア湖周辺と、海岸部、つまり首都のダル・エス・サラームなどのインド洋に面した地域とでは大きな違いがある。

今回は、ナイロビの影響が大きく、比較的裕福な高原都市アルーシャから出発し、ヴィクトリア湖南岸にあるタンザニア第2の都市ムワンザに向かった。ヴィクトリア湖はケニア、タンザニア、ウガンダの3か国が向かい合う国際的な湖で、アフリカの「ヘソ」ともいえる。

内陸性の気候で、住民もコンゴ方面から移り住んできた人が多い。さらに秘境といえるタンガニーカ湖にも行きたかったが(リビングストンとスタンレーの会見場所である)交通の便が悪く(ダル・エス・サラームまで鉄道が通ってはいるのだが…)、今回はあきらめざるを得なかった。

ムワンザからサバンナの平原を東へ突っ切るとインド洋に出るわけだが、当然のことながら、ダル・エス・サラーム、ザンジバル島などは蒸し暑い海洋性気候である。そしてその文化は、内陸とはまったく異なっている。なぜならポルトガル→アラビア→ドイツ→イギリスと、この地域を支配した国々があり、特にアラビア人による言語、文化、そして奴隷貿易の歴史があるからだ。

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観察日記(4)

交通事情: 公共交通といっても、鉄道は存在しないも同じだ。ケニアでもタンザニアでも、鉄道は貨物が主で、旅客を運ぶにはあまりにも本数が少ない(たとえば週2回とか)、あるいは不定期である。

たとえばネパールなどと比べて、道路の整備は両国とも格段に良くなっている。高速道路こそないが、また都市の渋滞は世界どこでも同じだが、都市間を結ぶ道路は穴ぼこは少なく、舗装の度合いは100%に近づいているのではないだろうか。それも穴のあきやすい簡易舗装ではないようだ。

このため鉄道が発達する前に、バス路線網がしっかり出来上がってしまった。中長距離バスは各都市間を頻繁に行き来しているし、相当な田舎でもダラダラ(乗合ミニバス)などといろいろ名前はあるものの、非常に(住民にとっても)安く利用できるようになっている。

ただし、車両の整備具合には感心しない。古いうえにこの国土で酷使されているから、タイヤもエンジンも悲鳴を上げている。実際私の乗ったバスも、14時間のところが30時間かかり、後部タイヤ部分の不調をはじめとして、さらにオーバーヒートを2,3回起こしている。タンザニアでは2015年現在、長距離バスは夜間走行することができない。信じられない話だが、事故が多すぎて、収拾がつかなくなったためだという。

一方、自家用車は、99%近くが中古の日本車であり、時には新車のランドクルーザーが大いばりで走っていたりする。もっとも、彼らはトヨタ、ホンダ、ニッサンの名前を知っていても、それが日本という国で生産されたということを知っている一般人は少ない。タクシーの運転手でさえ知らない人がいた。

塗装を変えることなく輸入されるのだから、「・・・幼稚園」とか「・・・大阪営業所」などと大書された車が走り回っているのを見るのは奇異な感じがする。カーナビ付きも日本語表示だから、まるで役に立たない。日本車の割合が少ないバスと異なり、自家用車のほうは燃費、耐久性ともに優位に立っている。

困るのが大型トラックだ。これらはインド製が多いが、わずかな上り坂で極端にスピードが落ち、交通渋滞が引き起こされる。これには過積載も原因らしく、重量測定装置のある検問所が多数設置されている。

旧イギリスの植民地なので、左側通行で日本人にはなじみやすいが、都市部に多数作られたラウンド・アバウトが、どうもアフリカには合わないようだ。混乱にたまりかねて、ナイロビでは信号機付きのラウンド・アバウトができている。

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ムワンザへーヴィクトリア湖のほとり 

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翌日の早朝6時にホテル前のターミナルから「ムワンザ」行に乗って出発。サバンナの荒野の中を約12時間、800キロほど西にいったところにある、タンザニア第2の都市だ。大型バスで、快適な車両だが、エアコンはない。トイレはドライブインで済ませることもあるが、人口の少ない地域に入ると、写真のように荒野の真ん中で済ませる。女性は長いスカートをはいていて、しゃがんでおこなう。慣れたものだ。

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カスピ海に次ぐ広さの湖、ヴィクトリア湖はアフリカの「へそ」である。今回はこんなに奥地にまでやってきたのだ。その広い湖の南岸に位置するのがムワンザである。港があり、その南に大きな半島が突き出ている。港周辺を歩き回ると、真っ黒な塊を積み上げた場所に出た。炭屋さんだ。こんなに需要があるのだ。湖の魚、テラピアを売る屋台もある。

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ムワンザ駅。ここはタンザニアでも珍しい鉄道(TRC)の、首都ダル・エス・サラームからの終着駅なのだ。ただし、週2回の旅客便しかない。老朽化しているから、ふつうのタンザニア人ならバスを選ぶ。それでもこの日は切符を買う人の列ができていた。たぶん、近隣の駅に住んでいる人なのだろう。

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このボロボロの鉄道車両にカメラを向けると、機関士が照れくさそうに笑っていた。この国では”鉄道ファン”などいないのだろう。

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鉄道線路沿いに歩いていくと、湖岸に出た。澄み渡る青空、よく耕された畑、青く広がる湖。ここは市街地から南へ行ったところ。ここら辺は島が多い。

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漁船の横で、若者が湖の水でジーパンを洗濯していた。でもこの湖は「住血吸虫」がいるので、泳げない。

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真上を見上げると、ココヤシの木がいっぱい実をつけている。ここで買ってきた食料を出して一休み。本当は「サーア・ナネ島」国立公園に行きたかったが、思わぬハプニングで行きそびれてしまった。

saa nane というのは直訳すると「2時」、変な名前の島だ。ただしこれはスワヒリ・タイムの表現なので、普通の時刻に直すと6を足して、(午前)8時のこと。道に迷っているところに、うしろからスイカ売りの少年がやってきて、話しかけるものだから、「サーア・ナネはどこだ?」と尋ねた。その少年は、これを時刻のことと勘違いして、「もう遅いから、間に合わないよ」などとトンチンカンなことをいう。

”・・・の島(kishiwa cha... )”だといわなかったことから少年は誤解したらしい。とにかくこっちの方向へ行けば桟橋があるから、間に合わないけど行ってみな、ということで別れた。こちらは訳もわからず、結果的にはサーア・ナネ島行の乗り場とは反対方向へ歩いてしまったというわけだ。スワヒリ語学力不足のお粗末でした。

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再び港に戻る。ここには「ビスマルク・ロック」とよばれる奇岩の連なりがあり、浜辺は公園になっていて、結婚披露パーティが行われていた。ここからの夕日の眺めは抜群だ。わざわざ日没時に駆けつけた。タンザニアはイギリスの植民地になる前はドイツ領だった。だからあの有名な”鉄血宰相”ビスマルクの名がついたのか?

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今にも落ちそうな大岩。湖の周辺だけでなく、ムワンザに近づく100キロぐらい手前から、こんな形の岩が地中からあちこちで飛び出しているのは、何か地質学上の理由があるのか?調べてもわからない。誰か教えてくれ!

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ホテル近くのパブで夕食をとる。1日目は、湖に生息する巨大魚のアラを”おつまみ”にだしてもらった。そばの地元の人が食べていたので、あれと同じのをくれと頼んだだけだ。「ゴンゴロー」と呼ばれ、ひどく脂っこい。だが、日本でマグロのアラを食べなれているから、けっこういける。

2日目には写真にあるような定食。山盛りライスは細くて長いタイプのコメ。おかずはまたまた湖の魚。例のナイル・パーチかもしれない。スープは初めて味わう香辛料を含んだ、おそらくこの魚のだし汁だろう。そしてビールはケニア、タンザニアでは誰でも知っている TUSKER 。

なおムワンザはまだ電力事情がよくないため、このパブでは、自家発電でようやくテーブルを照らしている状態であるが、それがかえって雰囲気を盛り上げているかもしれない。

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2泊目の早朝6時に首都ダル・エス・サラーム行のバスに乗車。ただし、私が乗る予定のバスはキャンセルされたと言われ、バス・ターミナルの中をあちこち、たらいまわしにされた挙句、別の名前のバスに乗ることになった。これがくせものだった・・・

今度はたっぷり1000キロあるので、到着は夜8時過ぎだな…と思っていた。荒野の中を走る一本道。タンザニアの北半分はキリマンジャロとメルー山を除いて、特に標高の高いところはないので、まばらに灌木が生え、風景はかなり単調だ。

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長距離バスのトイレ休憩は頻繁ではない。3時間に一度ぐらい。トイレの近い人にはこたえる。今度のは黄色いバス。前回は横2・3列の超窮屈バス。今度は横2・2列で、快適。国土を西から南東へ突っ切って、インド洋沿岸に向かうのだ。

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出発して3時間ほどして、異常事態!うしろのタイヤがゴトゴト異音を発し始めたのだ。車掌が何を言っているかわからない。通路を隔てて左横にいた青年は英語がうまく、彼の説明によると、点検修理のため、100キロほど戻るのだという。なんでこんな整備不良の車でこの距離を走ろうとしたのか?

驚くべき事実が明らかになった。私が切符を買ったバス会社は、実は存在しない幽霊会社で、別の会社が急遽1台のオンボロバスを仕立てて、われわれ”被害者”を載せて出発したというわけだ。その日の朝刊には、その会社の社長が逮捕されたとの記事があった。こんなことはタンザニアでは日常茶飯事らしい。

結局バスは、予定時刻をどんどん遅れ、途中今度はオーバーヒートまで起して、首都ダルの手前10キロのところに来たときには翌日の正午だった。実に30時間もバスに缶詰め!!。そしてまたエンジンが不調になったので、堪忍袋の緒が切れた。

バスを降り、近くにいたおにいさんのバイク・タクシーに飛び乗ると一気に都心に入ったのだ。このバイク・タクシーは普通のタクシーより安いが、運転手はヘルメットをかぶっていても、お客さんは何もない。私の重いリュックは、運転手が自分のハンドルの上にあぶなかっしく置いて突っ走る。

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観察日記(5)
食生活(1): バスに乗っていると、当然食事の休憩があるが、人々の食べるものといえば、ポテトチップスとジュースぐらい。バスには物売りが押し寄せて、中には図々しく車内まで入ってきて売る者もいるので、食べ物に困らないが、実に粗末なものを食べている。

平均寿命というのは医者の数より、日々食べているものに大きく関与していると思うが、その点こんな食事では長生きできないことがわかる。パンやお菓子も、輸入された高いものでなく国産の場合、乾燥しきったパサパサのものが多い。

マーケットには野菜果物が満載されているのだから、普段の食事はバランスが取れていると思いたいが、どうしてもイモ類が中心で、空腹を紛らわすためにあぶっこいもの、つまり揚げ物をたくさん食べるようだ。

もっと重大なことは、基本的な栄養知識が欠けていることだろう。人々はコーラが大好きだ。甘いジュースを好んで飲む。常温保存できる牛乳は決して高くない。バナナもトマトもリンゴもある。だが加工食品と、アメリカ生まれの毒水のほうが好まれているようだ。バスの窓から見ると、あの赤い商標が国中に蔓延している。これから所得が上がると肥満者、糖尿が増えるような気がしてならない。

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ダル・エス・サラーム:内陸からインド洋へ

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インド洋の湿気が入り込む港町でもあるダルは、蒸し暑さと直射日光で耐え難い。高原都市アルーシャと湖畔の町ムワンザの後では、なおさらだった。その暑さの中、ホテルを探して下町をさ迷い歩く。このとおり車は縦列ではなく、横列駐車で、その横を歩行者はすり抜けなければならない。歩道は穴だらけ、というより工事のやりかけで放置してあるというべきか。ただし、ナイロビのような治安の悪さの不安はあまり感じられない。
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ここも交差点はイギリス式のラウンド・アバウトが中心で、真ん中に時計塔が立っているのが特徴。大通りは、まるで動けない大渋滞が1日中続く。さいわい上品なホテルが見つかって、部屋も大変広く、レストランまで気が利いているので、30時間の疲れは吹っ飛んだ。しかも冷えたビールを売る店も見つけた。さすが首都である。もっとも正式な首都は内陸部にあるドドマなのだそうだが・・・

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泊まっているホテルから公園を挟んで西へわずか500メートルもいかないうち、典型的下町のカリアコー Kariakoo に達する。にぎやかな商店街の集まりで、かつては治安が悪かったらしいが、だいぶ改善されたらしい。真ん中に四角形のアフリカ式デパートが鎮座している。こここそ本物の”アフリカのにぎわい”が実感できるところ!

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そのデパートの入り口。中はたいして人がいないが、周辺の賑わいはものすごい。

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果物を満載した露店。狭い小路にこのような店がひしめく。

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頭に載せて物を運ぶ。アフリカ大陸でもユーラシア大陸でも。

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一泊したのち、いよいよザンジバル島に渡るフェリーの乗り場に近づいた。海岸通りを歩くと、正面に「聖ヨセフ大聖堂」の尖塔が見えてきた。その向かいに切符売り場があるはずだ。どこからともなく男が現れて、ひしめく切符売り場の裏口を開けて中に入れてくれる。外国人料金を払う人は優先扱いなのだ。首尾よく切符を買って構内に入ると、男にチップを渡す。彼にとってはこれが生活をかけた仕事なのだ。

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観察日記(6)
食生活(2):地元の市場を回って気づくことは、意外と熱帯性のものが少なく、普通の温帯の食材が多いことだ。確かにバナナやマンゴー、パッションフルーツなどはあるが、ニンジン、ジャガイモ、トウモロコシなど、が目につく。

トマトもアフリカ大陸にすっかり定着した。しかし生で食べようとすると顔をしかめた。彼らはトマトは煮て食べる種類しかなじみがないらしい。トウモロコシは、実が小さく甘みがなく、何か脂っこいソースでも加えないと食べられない。

青菜、つまり緑の野菜が少ない。イモを主体に食べ、葉緑素が不足しているのではないだろうか。コーヒーなど輸出品の作物を作るのもいいが、もっと自国民のための多様な食料を生産すべきではないだろうか。

伝統的な食生活を植民地になるまで営んできたが、独立後には外国の食材や料理法が流入して、食生活が混乱に陥り、「タンザニア料理」「ケニア料理」というような、体質、風土、土壌に適したレシピがまだ確立されていないのだ。

ケニア人の平均寿命は61歳、タンザニア人の平均寿命は63歳である(WHO 2013年)。町は若者であふれ、子供たちは元気いっぱいだが、その陰に新生児と幼児の死亡率が非常に高いことがあげられる。そして、食生活全般の改善が必要なことが緊急の課題である。

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