その2(2018年3月28日)

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�今回は赤い線の部分

第1回目遠征第2回目遠征→第3回目遠征

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遠野は不思議なところ。柳田邦夫の「遠野物語」、井上ひさしの「新・遠野物語」を読んで、えらく興味を惹かれてしまった。ごく普通の田舎なのに、300メートル歩くと、何らかの石碑、名所、得体のしれない場所があちこちに散らばっている。そんなわけで3回に分けて遠野に遠征し、自転車と徒歩を組み合わせて、合計42か所の訪問を試みた。非常に多くの興味深い場所があり、それを整理したサイト、「外部リンク遠野物語・現在進行形」を参考にするとよい。なお、今回のコースは遠野市観光協会の外部リンクサイクリングマップを参考にさせてもらった。

遠野42か所

<1日目17か所> 道の駅・遠野風の丘➡羽黒岩➡續石➡南部曲り家千葉家➡綾織の水車➡(南へ戻る)➡光明寺の綾織➡駒形神社➡猿が石さくらロード➡愛宕橋➡(南へ)➡卯子酉様(ウネトリサマ)➡愛宕神社➡五百羅漢➡程洞(ホドホラ)コンセイサマ➡(北へ戻る)➡愛宕橋➡(法華題目の碑)➡多賀神社➡鍋倉城跡➡遠野駅➡(北へ)➡サムトの婆(ババ)➡清心尼公碑(セイシンニコウヒ)➡太郎カッパ➡阿曽沼公歴代碑➡村兵稲荷➡道の駅・遠野風の丘

<2日目16か所> 道の駅・遠野風の丘➡横田城➡飢饉の碑➡松崎観音堂➡母也明神➡遠野ふるさと村➡妻の神の石碑群➡福泉寺➡助力の家➡西教寺➡伝承園➡常堅寺➡安部宅跡➡カッパ淵➡(北東へ)➡小鳥瀬川➡山崎のコンセイサマ➡(戻る)➡大槌街道跡➡道の駅・遠野風の丘

<3日目10か所> 道の駅・遠野風の丘➡(国道340号線北東へ)➡山口の水車➡(Uターン)➡ダンノハナ➡佐々木喜善の生家➡デンデラ野➡たかむろ水光園➡早池峰古道跡➡キツネの関所➡遠野郷八幡宮➡さすらい地蔵➡法華題目の碑➡道の駅・遠野風の丘

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これは農道沿いに作られた、ゴミの集積所であるが、周りとしっくりくるデザインになっている。ここは前回訪れた、「村兵稲荷」や「太郎カッパ」に沿う道で撮影した。まだ3月なので田んぼも畑も、耕されていない。
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これから「横田城跡」に向かうため、山道を登っていく。森林のふちを小川が流れているが、雪解けのためか水量は豊富で、流れは速い。人工的なものが何も加わらない、本当に自然な流れである。
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前回訪れた遠野領主、「阿曽沼公」が作った、「猿ケ石川」と「護摩(ゴマ)堂山」に挟まれた”山城”が13世紀ごろ、あったのだという。山道を20分ほど登っていく。山城のあとに今、こんな薬師堂がたっている。そばの彼岸桜と山桜も有名である。
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山を下りて少し行ったところに「飢饉の碑」がある。1757年にこの碑が建てられる前に、この地域の人口の3分の1である4300人が餓死した。
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さらに少し先に「松崎観音堂」がある。その右手にある碑(写真では見えない)は、かつて人々に橋板として使われていた石が、実は古い供養碑だった。洗い清めて再建したところが、人々の病気がたちどころに治ったという。
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観音の姿が、お堂の壁に張られている。頭にも7人の観音がついていることに注目。
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「母也(ボナリ)明神」が丘の上にある。ボナリとは巫女のことだそうで、巫女の娘夫婦が洪水を防ぐための人柱になったのを祀ったもの。
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一連の見学場所が比較的狭い地域に固まっていたが、ここから一気に北に上がり、遠野駅から測ると12キロ離れた山中に「外部リンク遠野ふるさと村」がある。古民家を移築して、一つの村にしている。染物、味噌づくりなど、体験コースもいろいろある。
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その村内にある、典型的な南部曲がり家。前回の「千葉家」のが当分見られないので、ここで詳しく見学できる。
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曲がり家の内部。土間では、今でも火を燃やして天井に煤をつけている。タール成分で木材を長持ちさせるためだ。
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直線的ですっきりしたデザイン。農業生活の機能性が追及されている、優れた設計だ。
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馬も飼われ、雰囲気を盛り上げている。
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今来た道を引き返し、南に向かって、「猿ケ石川」の支流である 「小烏瀬(コガラセ )川」にかかる「福泉寺橋」を目指す。その途中に4つほど見どころがある。この地点では、北の方角に、まだたくさんの雪をいただいた、「早池峰山」がよく見渡せる。
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「妻の神の石碑群」とは長い名前だ。この道の先の山奥には”賽の河原”があり、子供を亡くした母親がそこで会えるという。したがって、この石碑のある場所が、この世とあの世との境だったので、数多くの石碑が建てられた。
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「福泉寺」は遠野では、ずば抜けて立派なお寺である。この中国風の門に始まり、山道を登っていくと、途中に度肝を抜かれるような見どころが待っている。西国三十三番観音霊場である。
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寺内にある、京都にあるような見事な庭園。
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五重塔もある。コンセイサマのある土地柄とはちょっと雰囲気が違うようだ。
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振付師、「角助の墓」。遠野の「鹿子(シシ)踊り」のもとを作った「駒木鹿子(シシ)」の発案者である。
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「西教寺」は道から外れ、住宅の中に入り込んだところにあったので、見つけるのに苦労した。ここの「光明殿」に収められている仏画、「光明本」は親鸞の直筆だそうだ。門の表札には「真宗大谷派」と書いてある。
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福泉寺橋を渡ってサイクリングロード沿いに西へ少し進むと、おそらく遠野で最も観光客の集まる「外部リンク伝承園」に着く。昔の街道にあった石碑だけを写したが、その後ろにいろいろな施設が並んでいるのだが、観光客が多いので、園内見学はまたの機会にする。
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「蓮峰山・常堅寺」。”教育発祥の地”である。ここまでの道沿いには、キリンビールと契約栽培をしたホップ畑が広がっている。
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「常堅寺」の境内を通って池のようなものが見えてくるが、これは「安倍(阿部)屋敷跡」である。1050年ごろ、この辺りに勢力を張った豪族。
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さて、その横にあるのが、あの有名な「カッパ淵」。”カッパ捕獲許可証”をもらうと、ここでカッパ釣りができる。
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「かっぱぶち橋」より手前が、「カッパ淵」となる。昼間は観光客が多く行き来するが、夜だと薄気味悪くて、カッパの濡れた手で首を絞められるかもしれない。
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「猿ケ石川」の支流、 「小烏瀬(コガラセ)川」。国道340号線と右岸は、しばらく西に並行している。カッパ伝説の中心地。
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 国道340号線をさらにさかのぼると、バス停「山崎」のところで左に折れる道があった。これが「山崎の金勢(コンセイ)サマ」への登り道だ。 「小烏瀬(コガラセ)川」を「ウンマン橋」で渡ると、ますます道が狭くなる。途中には、丸っこい変な岩が点在している。いったいどこまで行くのかと心配になると、ところどころに雪が残っているのがわかる。社殿が見えてきたところで、やっと終点。豊作や子授けの神様である、コンセイサマは、たくさんあるが、遠野では昭和47年に発見された、これが最大だという。(遠野物語第16話)
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 高さは1.5メートルある。それは社殿の中にある。一方、この写真のコンセイサマは社殿の左の屋外にチン座している。寒いのに縮こまっていないのが立派だ。
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 国道340号線を引き返し、 「小烏瀬(コガラセ)川」ともう一つの川(それは次回行く予定の山口の水車のある川?)との合流点近くに、かつて旅人でにぎわった、「大槌街道」と「小国街道」の分岐点がある。この近くには「オシラサマ」が祀られている。さて、もう夕方近くだ。今日は16か所を訪れた。市街地の東部にある、ラドンで有名な「踊鹿(オドロカ)温泉・天の湯」に入るとしよう。

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