わたしの本箱

コメント集(15)

  1. 前ページ
  2. 日常生活の冒険
  3. 風の流れに添って
  4. 陰翳礼讃
  5. 歴史の中の日本
  6. 匠の時代第2巻
  7. 額田大王
  8. 毛沢東語録
  9. 匠の時代第3巻
  10. 変 身
  11. こんなにおもしろい民俗学
  12. 伊豆の踊子
  13. 坊ちゃん
  14. 言語帝国主義とは何か
  15. 吾輩は猫である
  16. 雪国
  17. 愛をめぐる随想
  18. 満漢全席
  19. 外国語としての日本語
  20. 食品の裏側
  21. 次ページ

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ここより2006年

日常生活の冒険 * 大江健三郎 * 新潮文庫 * 2006/01/15

日常生活の冒険アメリカの作家、ジョン・アーヴィングの「ガープの世界」を彷彿とさせる小説。といっても内容的に似ているというのではなく、主人公のハチャメチャな「冒険」ととんでもない泥沼の中にのめり込んでいくあたりが似ているというだけだ。

冒険というものは、大きな事を成し遂げたり、高い山や極地に出かけるだけではない。日常の中にも冒険はいくらでも転がっている。本人が冒険を作り出すことができればの話だが。そのためには、エネルギーにあふれ「自分でものを考える」人間でなければいけない。

ところが、自分でものを考えるということは必然的に「反社会的」となる。しかも前例がないことは、何か既成のモラルによって律せられることもないから、本人の熱情、好奇心、好意、敵意のおもむくままに暴走することは大いにあり得ることだ。

筆者は作家志望の高校生で、スエズ動乱に志願兵として出国しようという熱気の中で、ある少年、斎木犀吉と知り合った。その後彼が死ぬまで、間をおいて3回の出会いがあるのだが、まわりを傷つけ引っかき回すやっかいな存在ながら、そのたびに主人公は生気を、インスピレーションを彼から貰うのだった。

犀吉は筆者の祖父と気が合い、活動の援助まで受ける。2度目の再会の時には、新しい妻を貰い、落ち着くかに見えたが豪勢さに弱い彼は、演劇の世界での成功を夢見る金持ちの新しい女になびいて、最初の妻とは離婚してしまう。

だが、二度目の結婚生活は犀吉にとっては後悔の連続であった。新しい演劇を求めて二人でヨーロッパ旅行に出かけるが、2度目の妻の妊娠によって二人の関係は完全に破綻する。流産するために彼女が歩道に飛び降りた後、犀吉は新しいイタリア女とともに日本にやってくるが、交通事故はこの女の気を狂わし、再び欧州に舞い戻る。

しばらくたって筆者のもとに届いた手紙には、犀吉がアフリカのある町で首吊り自殺をしたということが書いてあった。冒険に冒険を重ねたが、すべてむなしい結果に終わったといってもいいだろう。でも最初の妻がいうには、きっと身代わりをおいて新しい自由を得るために打った芝居ではないか、きっと犀吉は今でも世界のどこかを放浪しているのだという。

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風の流れに添って * 秋山ちえ子 * 講談社 * 2006/01/18

風の流れに添ってラジオ生活57年の後、87歳を迎えた秋山ちえ子の思い出の書。戦後、婦人のための時間に、取材活動を活発に行い、さまざまな話題を取り上げて多くの話題を提供してきた。その内容は天才的なひらめきによる強力な主張というのではなく、地道な活動と落ち着いた観察によって得られた、息の長い「談話」であった。

最初の部分は自分の人間ドックでの検査結果の紹介から始まる。87歳で当然痛んでいるところは別にして、どこにも悪いところはなく、ただこれまでのように好奇心だけで気軽に海外に飛び出すような気力はなくなってきたことが語られる。これが長年TBSでやってきた番組から引退した理由である。

もちろんこの年令になれば、当然の事ながら友人や知り合いは多くが他界し、その思い出が紹介される。障害者のためのコンサートや奨学生を送る国際的な活動を中心として活躍してきた。テレビへの出演はかなり前にやめ、そのあとはずっとラジオ一本で通してきた。

テレビによって多くの人々がじっくりものを考えなくなり洗脳される時代に、ラジオの地味ながら世間の隅々まで浸透して行く力の中に、彼女のような存在があった。このようなラジオ人たちは、数は多くないが同じような感性を持った人々とのネットワークがあり、新たにその人々についての紹介もまた本にするというから楽しみである。

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陰翳礼讃 * 谷崎潤一郎 * 中公文庫 * 2006/02/08

フランスでは日本の作家のうち、谷崎が最も人気があり、その中で最もよく読まれているのが、この本だという。永井荷風に絶賛された著者は、やはり日本古来のもつすばらしさをつとめて自分の小説に書いたのだ。この本は小説ではなく、評論集である。

陰翳礼讃

日本の文化は、もともと薄暗い中で花開いた。明治以降、西洋の文明を必死になって取り入れる過程で、何でも明るく照らすのがよいという風潮のために、陰翳のもつ良さがすっかり忘れ去れてしまったようだ。

懶惰の説

西欧人は活発で清潔好き、東洋人はものぐさで不潔だと言われたりする。だが、だからといって西洋文明だけを礼讃する必要はない。われわれの生活の中のゆっくりした部分、物事のしみじみとした部分、せかせかしない部分もなかなか良い点を持っているのだから。

恋愛及び色情

文学における西洋の恋愛は、肯定的にとらえられ白日の下に晒される。一方日本では、それは隠微な影がつきまとう。たしかに平安時代には女性崇拝的な風潮があったようだが、江戸時代には日本のじめじめした気候のせいもあって淡泊に流れ、恋愛をれっきとした題材として取り上げるのを避ける傾向にあった。だが明治以降急速に日本でも西洋式の恋愛観が広がりつつある。

客ぎらい

作者は年を取ったこともあって、訪問客が来るのはあまり好きではない。自分の創作活動も来客によって中断され、調子が元に戻るのに大変な時間とエネルギーが必要になる。気兼ねなく自宅で自由に振る舞いたいものだ。

旅のいろいろ

名の知れた観光地は避ける。誰も知らない田舎に素晴らしいところを見つけて、それを秘密にしておく。なぜならそれが世間に伝わると観光客がどっと押し寄せて、その良さは跡形もなく消えてしまうからだ。スピードアップ、洋式の流行、みな旅の情緒を台無しにしてしまう。

厠(かわや)のいろいろ

日本式の大便所は、臭くないもの、中が真っ暗で自分の落とした便がまったく見えないもの、野グソをするようなさわやかな雰囲気のものなどいろいろな種類があるものだ。

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歴史の中の日本 * 司馬遼太郎 * 中央公論社 * 2006/02/15

数多くの歴史小説を書いた著者が、珍しく私的なエッセイを書いている。自分の妻のこと、いくつかの作品を書いたきっかけについて、社会や政治の情勢についての感想、何人かの歴史的人物についてのメモ、歴史的なものの見方など、52編の多岐に渡っている。

日露戦争については、陸軍参謀本部に編纂による記録がある。だがこれはまさに「記録」そのものであって、出来事がいつ起こったのかについては実に詳細に載っているが、一体どのようにして、何のため、そしてどんな結果を招いたかについては何もふれられていない。

著者はこれはまったく「歴史」ではないという。そこには書いた人間の存在がまったくないのだ。古本屋も本の価値はよくわかっていて、この記録は二束三文である。歴史とは価値判断であり、一つのものの見方である。それがなければ読む価値はないのだ。

著者はそのことを常に心がけて歴史小説を書いてきた。これは「歴史+小説」なのだが、常に書いた人間の視点を失わないようにしようとする姿勢が全編を貫いている。それは坂本龍馬の話にせよ、日露戦争に参加した軍人の話にせよ同様である。

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匠(たくみ)の時代 第2巻 * 内橋克人 * 講談社文庫 * 2006/02/24

このシリーズの内、今回の巻ではセイコーの時計と、シャープ・カシオの電卓を扱っている。いずれも戦後のめざましい技術革新の間に生まれた製品である。戦争直後の荒廃の仲で、日本の産業はもう駄目だと思った人もいたが、実はそうではなかった。

セイコーの会社は、戦争中は空爆を避けるために、その工場を東京都内から、地方各地に疎開していたのだが、おかげで終戦後まもなく操業を開始することができた。特に諏訪湖の湖畔にできた工場では、東京の本社に買い上げてもらうために必死になって製品の質を向上させた。

そのおかげで制度は見る見るまして、ついにはそれまで世界一だったスイスの時計工業を追い越すまでになってしまったのだ。彼らが開いていたコンテストに参加して、いつの間にか上位を独占するようになってしまった。さらに東京オリンピックの計時担当になってからは、水晶(クォーツ)時計が脚光を浴びてきた。

水晶の振動を利用した時計は、普通の日常生活ではとにかく正確無比なのである。あとはそれをどれだけ小型化、薄型にできるかだった。社員の驚くべき根気強さが、勝利を勝ち取った。

計算機の世界は、かつては非常に原始的な装置を用い、場所をとり、部品数が多く、信頼性が余りなく、とにかく高価だった。八百屋の店先でも使えるようにという(当時としては)突拍子もない夢を抱いた社員がシャープの社内にいたおかげで、研究員が一丸となって目標に邁進した。

真空管から、トランジスター、そしてICそして集積回路がますます発達を遂げるにつれて、値段は下がり、大きさも小さくなっていった。シャープの作った電卓によって、危うく会社が消滅するところだったカシオはこれに対抗して研究を進めてゆく。この2社の激烈な競争は、開発に一層拍車をかけた。

現在では正確な時計が百円ショップで買える。電卓も同様で、その技術から生まれた液晶テレビ、そしてパソコンが激烈な販売競争に入っている。ただ、もはやかつてのような「研究競争」は影を潜めたのではないか。

なるほど終戦から20年ほどは研究と工夫がすぐに製品に形をとって現れる幸福な時代だった。現在は個人の創意工夫による発明よりも大組織による研究開発が主流である。そして新製品が出ても直ちにほかの会社にまねされるから、自分たちだけの独自の製品が支配できる期間は非常に短い。

あとは、体力消耗の安売り競争が市場を席巻し、最初に作った会社は元が取れなくなって撤退する例が出ている。技術も芸術と同じく「ルネッサンス」の時期があり、その時期を通り過ぎると、興奮、感動、新鮮さは失われる。まさにその点で匠の時代はもう2度と戻らない。

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額田大王(ぬかだのおおきみ) * 井上靖 * 新潮文庫 * 2006/03/21

額田大王大化改新以後、中大兄(なかのおおえ)皇子と藤原鎌足が中心になって弟の大海人(おおあま)皇子も協力して、中央集権体制づくりが進んでいた。当時宮廷にいた、巫女だったのが額田王であり、その美しさに最初に惹かれたのが大海人皇子であった。

自分の職業柄、男を愛してはいけないと自分に言い聞かせていたが、彼女は女の子を産む。だが、中大兄皇子も彼女に惹かれて、弟に自分に譲るように要求した。彼女は二人の男を持つことになってしまったが、それを忘れるため、自由になるために自分の仕事にいそしんだ。

都は難波に移り、さらに大和に戻り、あの有名な「にきたつの・・・」が歌われた朝鮮半島への出兵は、負け戦となった。だが、中大兄皇子は、天智天皇として即位し、近江に都を移した。額田王は正式な后ではないが、宮廷の一員としてついていった。

だが、まもなく天智天皇は崩御し、自分の娘の夫である大友皇子は、吉野に移った大海人皇子の挑戦を受けて壬申の乱が始まる。大海人皇子が天武天皇となったあとは、華やかだった生活とも別れを告げ、娘も早死にした。

この小説は、歌人としての額田王と、恋人としての額田王といずれもが魅力的に描かれている。しかも、作者は小説家であるから、その細部は想像によって書かれているのであるが、全体の大筋は歴史の流れに添っており、大化改新から壬申の乱に至る期間について、読者に大いに好奇心を引き起こさせる。

額田王の生まれも没年もわからない。壬申の乱以後どのような生活を送ったかもわからない。彼女の生き様は万葉集に残された歌から想像するしかない。いずれにせよ、彼女が宮廷の身分に関係なく生き、大勢の后たちの嫉妬や競争からはずれた、「いい女」だったことには間違いないようだ。

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毛沢東語録 * 毛沢東・竹内実訳 * 角川文庫 * 2006/04/05

毛沢東が、対日戦争を経て、国民党と戦い、共産主義政権を作り上げるまでのつらい道のりの合間に語った言葉を集めたものだ。もちろん其の中心はマルクス主義の考えから発してはいるのではあるが、ソ連方式では当てはまらない事情が中国にはあるため、そこのところを独自に考え出して語っているのである。

文化大革命の時は、紅衛兵たちが、この語録を手にして町を練り歩いたものだが、本来は中堅幹部に向けて書かれたものなのだ。だからそれを読むと、組織が巨大化、複雑化するにつれて世界のどこでも共通に起こる問題、たとえば傲慢、腐敗、怠慢、使い込みなどにやはり毛沢東は注意を促さなければならなかったことがわかる。

というわけで、その内容の大部分は、人間として自分を律しなければならないことが中心に書かれている。革命の仕事をうまく成し遂げたのはいいが、みんなから尊敬されると増長してしまって、すっかり自分が親分になった気になる連中がまるでモグラたたきの時のように生まれてきたに違いない。

マルクス主義、そしてそこから形成された毛沢東思想の内容はともかく、現実の人間たちは今までと、そしてこれからも変わりなく「本性」に基づいて行動するのだ。毛沢東は他の偉大なる政治家と同じく、自分の国に一種の理想社会を実現させようとしたが、それは短命に終わり、結局のところ大衆の有象無象に巻き込まれてしまったのだった。

現代の中国がすさまじい経済成長を遂げ、大都市には高層ビルが建ち、人々は金銭だけが生きがいになっているのを見たら、毛沢東は肝をつぶすだろうか?いやそんなことはあるまい。彼はもうよくわかっていたはずである。こんなに細々と部下たちに指示しなければならなかったくらいだから。

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匠の時代・第3巻 * 内橋克人 * 講談社文庫 * 2006/04/19

匠の時代第3巻今回は、JR民営か以前の国鉄内部における、技術者たちの姿を描く。誰でも最近では、民営化という愚かしいキャッチフレーズに惑わされて、国で行っている事業はすべて民間が受け持つ方がいいと思いこまされている。

だが、実際の姿は、素人の想像を超えている。特に国鉄のような大きな組織なると、第2次世界大戦よりも前、さらに明治時代に構想された計画が目白押しなのだ。そしてそれらは歴代の技術者たちに受け継がれ、われわれの目の前に実現している。

飛行機は、飛行場を作ってもらい、自動車は高速道路をそれぞれ国におんぶしてその体制を整えた。だが、鉄道はすべて内部の技術者たちが自分たちで考え、実験を重ねてようやく日の目を見た。営業の赤字のことがマスコミで騒がれると、両端から掘り進んでもわずか2,3センチしかずれないほどの技術を誇る青函トンネルは「無駄だ」の大合唱となった。

東海道線が飽和状態になって、新たな鉄道を造ろうというとき、誰も大きな技術の進歩を予見した人はいなかった。高度経済成長のまっただ中、一方の列車のブレーキが発電をして他方の列車の動力源になるほどの「省エネシステム」を発案しても変人だとバカにされるだけだった。

蒸気機関車の運転は、それこそ機関士の名人芸である。坂にさしかかるとき、坂を下るとき、加速、減速、これらはみな片手に持つシャベルのさじ加減次第なのだ。機械化が現代のように徹底的に進む前には、技術開発とはまったく別の、「技(わざ)」が生きていた時代でもあった。

現代の若い人々の間の「理科離れ」は、このような歴史を少しも知らないことにも原因があるのではないか。これから開発すべき技術を夢から現実に変えることができた幸福な時代、それが「匠の時代」でもあったのだ。

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Kie Verwandlung 変身 * Franz Kafka フランツ・カフカ * 高梁義孝・訳 * 新潮文庫 * 2006/04/24

変身両親と妹と4人暮らしのグレゴールは、年老いて金も乏しい両親や、まだ年のいかない妹を養うために、外交セールスマンとして各地を旅行して歩いていた。久しぶりに実家にかえって自分の部屋で休養した日の翌朝、彼は自分が巨大で醜い虫になってしまっているのを発見する。

一体自分がこんなことになってしまったのはなぜなのかまったくわからない。その日からグレゴールは家族のお荷物になる。最初のうち両親は恐怖のあまり身動きすらできなかった。ようやく聡明で優しい妹が、いろいろと世話を焼いてくれるようになった。

自分の部屋に閉じこめられていたが、いろいろな食べ物を持ってきてもらっていくつかを試食して見もした。お手伝いが暇をもらってしまったので、妹が何や茅と面倒を見てくれるようになった。

一家の大黒柱を失った家族は、それぞれ内職や外の仕事を探し、何とかして生計を立てようとする。グレーゴールは次第に虫都市の生活になれていったが、家族はそうはならない。母親の前にぬっと姿を現しただけで、叫び声を揚げられ、父親からリンゴを投げつけられた。リンゴは身体に突き刺さり、埋もれてしまい腐りだした。

生計を助けるために、家の部屋の一部を下宿人に貸すことになった。だが妹がみんなの前でバイオリンを披露している間、うっかりみんなの前に姿を現したグレゴールのために家の中は大騒ぎとなる。

しばらく前から何も食べず、今度の騒ぎで疲労困憊したグレゴールは、部屋に戻ると衰弱して息を引き取った。翌朝死体が発見された。家族はこの虫がグレゴールだとは思っていなかった、と言うよりは思いたくなかった。

久しぶりに晴れた日だった。3人はもうずっとしたことのない家族そろっての散歩のために外に出たのだった。「虫」の存在は現実にぜったあってはならないこと、でももしそれが起こってしまったら、この家族のように混乱と忍耐の中に過ごさなければならない。でも実際の生活ではこんな「変身」は日常茶飯事に起こっているはずだ。

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図解雑学 こんなに面白い民俗学 * 八木透・政岡伸洋 * ナツメ社 * 2006/05/1

こんなにおもしろい民俗学今となっては、少子化と高齢者の死去により、かつての豊かだった日本のさまざまな風俗習慣、祭り、しきたり、まじないといった無数の蓄積がいちどきに消滅しようとしている。

民俗学者が収集した生活のあらゆる面にわたる記録は、テレビがなければ生活はこんなにも豊かに膨れ上がるものだということを痛感させられる。これに引き替え現代生活は何と貧しいのだろう!我等の生活からテレビやその他の「エンターテインメント」を除いたら、なにも残るに値しないものではないか?

本書は学問としての民俗学とは何かから説き起こし、その大部分を図解を加えて生活の中の多数の興味深い事実を紹介している。失われた昔の生活を懐かしむ中高年者はもちろんのこと、決して体験することのない若い人にもかつてはこんな文化が日本に存在していたことを知ってもらいたいものだ。

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伊豆の踊子 * 川端康成 * 新潮文庫 * 2006/05/10

4編の短編を含む。なお、吉永小百合主演の「伊豆の踊り子」は「温泉宿」の中の子供好きで病のために寂しく死んで行く若い女のエピソードが挿入されていることを発見した。

「伊豆の踊り子」:東京の旧制高校の男子生徒が、伊豆の山中を旅するうちに、伊豆大島へ向かう旅芸人一座と親しくなる。その中のまだ幼さの残った薫にほのかな恋心を抱く。だが、書生と踊り子の恋は成就する見込みはなく、下田の町で二人は別れる。青春の甘酸っぱい想い出を残して、二人はそれぞれの人生に旅立つことになる。

「温泉宿」:ここで働く女たちの中には、女中の仕事に徹する者もいれば、ほとんど娼婦といっていい者もいる。夏の観光シーズンに姿を現し、客の数が減るといなくなり、来年又再びふらりとやってくる女もいる。病に冒され、若くして息を引き取り人知れず早朝に埋葬される者もいた。男も女も入ってくるお湯の中で今日も人生のドラマが展開する。

「抒情歌」:女である語り手はかつての恋人を深く愛したが、裏切られその男は結婚した。だがやがて男は死ぬ。一人残った語り手は小さいときから未来を予測する力があることで評判だったのに、恋人の死を予測できなかった。嘆きつつ、自分が死んで野の花になれたらどんなにいいだろうと思っている。

「禽獣」:独身で動物好きの男は、小鳥や犬を飼い、そこに孤独を慰めている。だが彼の身勝手のために多くの生き物が死んで行く。でもそれは彼が家庭を得られなかった代償としてどうしても必要なものだったのだ。

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坊ちゃん * 夏目漱石 * 岩波文庫 * 2006/05/15 * 青空文庫(再)2011/07/14

「坊ちゃん」の呼び名は、主人公をこよなく愛してくれた生まれ育った家に長らくいた下女、清(きよ)がいつもそう読んでいたからだ。父親の死後、兄と別れ遺産の一部を物理学校での勉強に使った坊ちゃんは住み慣れた東京を離れ、四国のある町に中学校教師として赴任する。

その町は、毎日「温泉」通ったとか、その温泉が上等・中等・下等のレベルがあって、それぞれのサービスの話もあること、汽車が通っていたことから、間違いなくこれは「道後温泉」のことであり、松山であることはすぐにわかる。今や、松山市は坊ちゃんなくしては観光が成り立たない。

しかしこの街に住む人々のほとんどは、坊ちゃんにとって良い印象を与えることはない。わずか1ヶ月でやめて東京に戻るのだから。同じ数学教師である山嵐とは最初はいくつかの行き違いがあったものの、最後には協力して、周囲の教師による陰謀に戦った。

最初の下宿の親父は、自分の商売である骨董品を売ることしか考えない、校長は、思っていることとはまったく別のことを口にする狸だし、教頭は、いつも赤シャツを着て女っぽい口の効き方をしていながら、陰謀を巡らす男であった。野だいこは赤シャツのあとを追ってばかりいる。

校内での最大の被害者は、「うらなり」先生だった。自分の婚約者である、通称マドンナは赤シャツに奪われてしまい、挙げ句の果てに九州に転任させられる。マドンナは憧れのひとではなく、婚約者の暮らし向きが悪くなると、乗り換えてしまう変節女である。

生徒たちは、新任の先生を始終監視している。団子屋に行っても、天麩羅屋に行っても、温泉に行っても翌日には自分の行動が黒板に書き出される。寄宿生のいたずらがあっても誰も自分がしたのだと素直に申し出るものがいない。みんな知らんぷりをして、すきあらばこちらの非をついてくるのが大好きだ。

こんな風土に、坊ちゃんはうんざりし、早く東京に帰って清と一緒に暮らしたくなるのは無理もない。この話は若者が、社会に出た最初の段階で世間の無慈悲、無理解、そして薄汚い利得追求に出くわしてひどい目に遭う物語だ。普通の人はここでまわりに「順応」していく。だが、坊ちゃんはよい意味では筋を通し、悪い意味では無鉄砲であまのじゃくを通す。

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言語帝国主義とは何か 2006/05/28

言語帝国主義とは何かアメリカによる超大国の事態が、ますます世界中における英語の重要度を高め、この勢いによって他の言語は大小を問わず危機にさらされている。単なるホテルや銀行でのコミュニケーション言語にとどまるのならば、問題はないが、言語は権力であり文化である。

今でも次々と弱小言語はこの地球から姿を消し、無数の貴重な文化遺産が永久に日の目を見ることはなく、代わりににマクドナルドやディズニーのような粗悪な文化がはびこることになっている。画一化はだいたい手段を奪うという意味で人類の生存能力そのものを低下させている。

本書では日本、韓国、フランスなどの言語学者がシンポジュウームを開きそれぞれの立場から小言語、大言語の実状や今後の動向を報告してもらっている。言語帝国主義の類型としては戦前の日本語、植民地時代のフランス語や英語を取り上げ、国家の統一のために国内では同化政策を、海外では被征服民への命令言語としての押しつけの状況を語る。

一方、カリブ海のクレオール語、アルジェリアのベルベル語、ジプシーたちの使うロマニ語、イヌイットの言語、カタルーニャ語と朝鮮語などは、小言語の例である。これらの言語を話す人々の経済的政治的力によって、その盛衰が分かれている。特にカタルーニャ語の場合、バルセロナを中心とする繁栄はマドリッドの中央政府に対して自治政府を作るほどに至っている。

結局のところ言語は権力であり、これが現在の英語の蔓延をもっとも雄弁に説明している。ということはアメリカの国力が低下すれば、相対的に他の言語の勢力が増すということになるかもしれない。

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吾輩は猫である * 夏目漱石 * 新潮文庫 * 2006/06/01 (再)2011/06/22

猫を主人公にすると、いつも茶の間にうろうろしているだけあって、人間生活の思わぬ面まで目撃してしまうものだ。名前のないこの猫は、英語教師、苦沙弥先生の家にもらわれた。先生の奥さん、三人のまだ幼い女の子、そして下女が住む家に同居することになった。

先生の家には学生時代の友だちがしょっちゅうやってくる。それぞれ一癖も二癖もある弁舌家ばかりだから、議論が止むことがない。ある時は自分の教え子と金持ちの娘との縁談が持ち上がり、ある時は隣の敷地にある学校の悪ガキどもとの戦いが繰り広げられたりする。

苦沙弥先生は仕事のない時は書斎に引きこもり、胃弱に悩む、多くの人から馬鹿にされる存在だが、やって来る友人との会話の中に、日本の社会についての鋭い批判があちこちに見える。一見どうしようもないことを述べ立てる連中に見えるが、どうしてなかなか忙しさのために余計なことを考えることのできない俗人にはちょっと思いつかないことが次々と俎上に上がるのだ。特に迷亭の語り口が冴える。

中にはバイオリンを買うまでにいかに苦労したかというような冗長な話も所々混じるが、この物語には筋がないのだとあきらめて最後までつきあってみるのもよい。この本は中学生もよく読むといわれるが、漢文の素養がないとわかりにくいところも多いし、そもそも十分に世の中のことを経験したあとで、この本を読み直すと、若いときに読んだときよりもずっと得るものが多いような気がする。猫は最後に客の残したビールを飲んでしたたか酔い、水の入った瓶に落ちて死んでゆくが、もう駄目だとわかったときの潔さがよい。

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雪国 * 川端康成 * 新潮文庫 * 2006/06/07

島村は、親の財産で生きる無為徒食の中年男。妻も子供もいるのだが、好き勝手に温泉を泊まり歩き、芸者たちと遊ぶことができる。今回は清水トンネルをくぐって新潟県の温泉町にやってきた。

列車の中で、葉子という謎の女性に出会う。彼女は自分の許嫁でもないのに病気末期の男を必死に看病していた。その美しい声が島村の心に染みついて離れない。温泉に着くと葉子と暮らす駒子という女性と知り合いになる。

彼女は芸者ではなく宴会の手伝いなどしていたが、島村とは気が合い、駒子は次第に島村の中にのめり込んでいく。だが、島村は誰にも束縛されない。長逗留をする前に、駒子の前から姿を消した。

だが、再び島村は駒この前に姿を現す。駒子は病気の男の薬代を出すために芸者になっていた。忙しい宴席の合間に駒子は島村の部屋に帰ってきた。まるでそこが心の故郷であるように。

だが、島村の立場は、この二人の間の恋愛を決して結実させることはない。温泉場は、実世界とは遊離した世界なのだ。駒子もその事は重々承知しているが、島村と別れることはできないのだ。

病気の男は死ぬ。自分の許嫁でありながら、駒子は彼の死に目に会いに行こうともしない。そのかわり葉子が最後までその男の面倒を見たのだ。そしてそのあと葉子は毎日のように彼への墓参を欠かさない。

だが、こんな状態が一体いつまで続くのだろうか。気持ちを変えようと島村は近隣の町へ「縮(ちぢみ)」の見学にいって帰ってくると、葉子も見に行っている公民館に火がついて燃えさかっているのだった・・・

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愛をめぐる随想 L'amour , c'est beaucoup plus que l'amour * シャルドンヌ Jacques Chardonne * 神西 清・訳 * 新潮文庫 * 2006/06/17

原題は「愛、それは愛をはるかに上回るもの」という。前6章からなっており、はじめは個人的な感情を中心に述べているが、次第に社会性、人間関係の幅を広げて6章に至る。

それぞれが短く、50語程度だから、その時に思いつきによって書かれている。愛といっても、情人や、道ならぬ愛や、決して成就しない愛や、いきずりの愛ではなく、しっかりと地についた夫婦の愛を中心に述べている。

又、先に進むにつれ、単純で簡素な生活を称える文が多くなる。やはり著者にとっても消費や収入の増大にばかり目が行く世間の流れに嫌気がさしているのだろう。彼の筆致はまるでのどかな田園の流れのようである。

長さといえば、ちょうどショーペンハウエルの「女について」を思い出させる。内容的にはほとんど正反対だと言ってよい。まるで人間は女についても何と多様な見方ができるものなのだろう!

この文庫本の初版は昭和28年に出ている。戦後間もないころ、これからの人生が唯一の希望であった当時の若い人たちは、これを熱心に読んだのだろうか?

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満漢全席 * 南條竹則 * 集英社文庫 * 2006/06/21

満漢全席中華料理小説というサブタイトルがある。食べ物だけに話を絞った、こんなジャンルがあってもよいではないか。このタイプの古典としては、ブリアー・サバラン著の「美味礼讃」(岩波文庫)がある。

主人公の作家が文学作品コンクールで賞金を得て、知人友人を引き連れて、中国杭州の西湖のホテルで1日がかりの中華料理による大宴会を開く。

そこではありとあらゆる中華料理が披露され、中には熊の手とか、鹿のペニスといった珍味も混じっている。いつも平凡な食生活をしている人も時にはこんな冒険をしてみたいこともあろう。

他にも短編が含まれている。舞台は神田、お茶の水、本郷あたりであり、ほぼ同じ登場人物であるが、餃子やら、老酒やら、餅(ピン)やら、中国料理をテーマにしており、主人公が悪夢にさいなまされたり、不思議な体験をする。怪奇小説というよりは、なにかアラビアン・ナイトに似ている。

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外国語としての日本語 * 佐々木瑞枝 * 講談社現代新書1200 * 2006/06/26

  1. 日本語の音はここが違う
  2. 動詞はどう教えるか
  3. 動詞のさまざまな形
  4. 形容詞と受け身
  5. 待遇表現の指導
  6. 言葉を覚える、文章を書く
  7. 言葉にできないものを教える

外国語としての日本語普通の人は、自分が生まれたときから話してきた母語をごく自然なものと考え、その構造や特色にほとんど注意を払わない。ところが、いざ英語などの外国語などを学ぶときは、学習効率を上げるために、文法を習いその用語でその言語を客観的にとらえる方が、上達が早いことを知る。

母語にしても世界の言語から見れば、一つのまとまったシステムであり、他の言語を話す人々から見ればやはり文法を基礎にしてみた方が、理解が早い。ところが日本語ではそのための努力が今まで不足していた。

と言うよりは文学偏重主義によって、言葉としての日本語の本質について研究する人々がほとんどいなかったのだ。そのせいで日本での「国文法」は旧態依然であり、それを習得したとしても外国人に説明もできずまったく無駄な体系となっている場合が少なくなかった。

しかし、日本語を学習する外国人が増えるにつれ、世界中のどんな人々に説明しても通用する「文法論」が必要になった。日本語教育の第1人者である作者は、新しく研究が進んでいる、「国語」ではなく「日本語」の文法についての簡潔な解説をしてくれている。

それによれば、われわれが「無意識」のもとに使っていた言葉遣い、例えば「言って、食べて、書いて、」などのような「テ形」の複雑な活用をはっきりとわかる形で示すことができる。これによって、われわれがロシア語とかアラビア語とか、他の言語がなんと複雑かと慨嘆する前に、自国語もそれに劣らず学習が難しいことを身にしみてわかることになる。

この本に述べてあるのは日本語文法とその教授法についてのごく一部であるが、全体像をつかむには理想の一冊だ。1994年に最初の版が出てからもロングセラーとして多くの人々の注目を浴びたのもうなずける。

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食品の裏側ーみんな大好きな食品添加物 * 安部 司 * 東洋経済新報社 * 2006/06/28

食品の裏側この本の著者は以前、ベテランの食品添加物のセールスマン、そしてコンサルタントだった。ある日我が家の食卓に、自分の工夫で作った肉団子を娘が食べるのを見て、作る人間も同じく消費者だということに気づき、会社を辞めて食品添加物についての「情報公開」を追求するようになったのだという。

世の中に、添加物の毒性について書かれた本はたくさんあるけれども、まずなんと言っても消費者に、その実態がきちんと知らされていない。食品業界は、安売り競争に勝ち抜くために、ありとあらゆる薬品を食べ物に入れて売れる商品を作り上げようとする。しかしそのことを消費者は知らないだけでなく、安ければよい、見栄えが良いという程度の判断力で買い物をしている。

毎日をコンビニ弁当だけで過ごすか、無添加無農薬だけで食事をするかは、それぞれのライフスタイルが決めることだ。大部分の人々はその中間に位置し、ある時は自分で作ったり、ある時は総菜を買ってきたりするわけだが、その判断のための正しい表示がなされていなければいけないのだ。

添加物の中には、毒性がまだはっきりわかっていない者もおおく、動物実験だけでは人間にどういう影響があるかはわからない。だがそれ以外にも、添加物は「モラル・ハザード」を引き起こす。つまり作るのが面倒、忙しくて手間を掛けたくない、という気持ちに迎合した「便利な」食品が次々と出てきて、消費者はそれが正しい方向だと勝手に思いこんでいることだ。

さらに小さな子供は「アミノ酸等」「たんぱく加水分解物」などの強力なうまみにすっかり鳴らされて、本来のもっと弱い味を物足りなく感じるようになる。まさにこれは「洗脳」ならぬ「洗舌」であろう。手作りより加工食品を愛する人間ができあがる。

そして「モラル・ハザード」の極めつけは、食品添加物入りの食品を造っている工場の従業員自身の「俺は食べないよ」という言葉だろう。人々の食生活は本当にひどいところまで来ている。だがそれを止めるものは何もない。少数の気付いた人だけが本来の食事を取り戻すだろうが、大部分の人々はこれからも朝から30から40種類以上の添加物を胃袋に流し込むのである。

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