音楽生活

私のギター(1970年製)

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独断のサザンの曲ガイド

独断のビートルズの曲ガイド

蔵レコード目録

コラム

  1. いったい音楽のジャンルとは何なんだ!!
  2. ギターを弾きたい
  3. ジャズとクラシック
  4. ジャズとは何か
  5. クラシックとは何か
  6. ポピュラーソング
  7. 民 謡
  8. 映画 音楽
  9. サザンオールスターズ
  10. ビートルズ
  11. 新人の発掘
  12. 無料の音楽は我々を豊かにするか
  13. 演歌とその仲間
  14. 使い捨てにしないヒット曲
  15. 歌は世につれ世は歌につれ
  16. インターネットラジオ・ミュージック編
  17. イージーリスニングのすばらしさ
  18. 童謡と愛唱歌
  19. ナマの音楽への復帰

いったい音楽のジャンルとは何なんだ!!目次へ

いつも疑問に思うのは、音楽のジャンルに固執する人が多いことだ。時と場所、雰囲気によって、あらゆる種類の音楽が楽しめたらすばらしい。

問題なのは、実際のさまざまな音楽にふれる機会がないことだろう。結局自分の知っている範囲の音楽で判断をすることになる。

だがインターネットの時代は、あらゆる種類の音楽を試聴することを可能にしてくれた。まだ音質的には、十分とはいえないだろうが、気に入れば、改めて購入すればよい。

Netscape では、無料で、この試聴が楽しめる。ここにアクセスして、下にある、Radio@Netscape Plus をさらに ダウンロードすれば、知られているほとんどの音楽、自然の音、本の朗読、漫才などが楽しめる。ただし英語であり、日本の歌謡曲や J-pop は紹介されていない。ぜひこのサイトで、ありとあらゆるタイプの音楽を味わってもらいたい。自分の聴いていた音楽の範囲がいかにせまかったか思い知らされるだろう。

そ れから、「新しい曲」「古い曲」って何だろう?古い曲を聞いていけないのか?懐メロがさげすまれた時代があった。バカ言っちゃいけない。コンビニ弁当では ないのだ。今では世代が代わり、まったく古い曲も若い世代には新曲になる。新しいリズムの開発も一通り済んでいるし、ビートルズを上回るような天才が近い 将来現れることはないだろうから、「古くさいメロディ・リズム・ハーモニー」なんていうものは存在しない。あるのはバリエーションだけである。

この私の考え方にぴったり合ったサイト→外部リンクTAKE 6 small music world

ギターを弾きたい 目次へ 

残念ながら、あまりに日常が忙しくて、ギターを弾く暇がないのです。これは悲しむべきことですが、もう少し生活を規則正しくすれば解決できると思うのですが。

ギターを買ったのは大学1年の時。それから30年が経過しました。ギギター初歩の教科書ターそのものは写真のように立派に存在します。当時のフォークブームのおかげで、フォーク・クルセーダーズの「」などのコード進行ぐらいは何とかこなせます。また、ビートルズの 歌の中で、比較的単純なものは、弾き語りのまねはできます。そうなんです。F,C,D,D#B,  ぐらいのコードなら何とか鳴らせ るのです。 夢は「カルカッシ教則本」をマスターすることです。でも残念ながら、その前の段階にあります。また、映画「ディア・ハンター」のテーマ曲をみんなの前で弾いてみせることです。

1999年5月

  ギターを弾く時間がなくとも、音楽を愛する心は変わりません。自分で演奏できなくとも、人の演奏はどうしても聴いておきたい。音楽ジャンルは問いません。 映画と同じことを言うようですが、音楽にも「二種類」しかないのです。つまり、「心に残るミュージック」と「カス」だけ。暫定的に世間で言うように、「ク ラシック」「アメリカやヨーロッパのポップス」「ジャズ」「日本やその他のアジア諸国の歌謡曲」の四種類に分けてはおきますが、それらの違いは聞く時の気 分の違いによるものです。なんと言ってもいいものはいいとしか言いようがないのですから。

ジャズとクラシック 目次へ 

モーツァルト・ディベルトメント集音 楽の中で、この二つの分野になぜか惹かれるのです。全く対極的なものなのに、時間によって、季節によって、感情の状態によって、ジャズを聴きたくなった り、クラシックを聴きたくなったりするのです。精神的に覚醒させたいときはクラシックを、逆に精神を眠りにつかせたいときはジャズを聴きます。クラシック はその整理され、論理的な重層的な構成の中で頭の中が組織化され、筋道だった考えの準備ができるのです。午前中の太陽あふれる中がもっとも適した時間で しょうか。その中でモーツァルトが最も自分にあっていると思います。これに対 し、ジャズはそのリズムと、不意の曲想の展開は、多くは即興演奏から生まれるものであり、決まり切った規則に縛られた精神をいったんバラバラにしてくれる わけです。両者は常に綱引きをしており、どちらかだけが一方的に偏っても良くないと思います。

ジャズとは何か 目次へ 

と 聞かれても答えられません。ジャズの CDは100枚以上持っており、著名といわれているものはたいてい聞きましたが、ジャズをどう説明したらいいか未だにわからないのです。苦し紛れに言え ば、「音楽を崩したもの、でもなおかつ音楽であるもの」と言えばいいのでしょうか?リズムとか、楽器とか、さまざまな音楽理論があるようですが、何か「い のち」みたいなのが入っているのがジャズなのです。

ただ、「崩したもの」というからには多くが即興であることは察しが付くで しょう。(即興ではなく、クラシックのように楽譜に忠実に演奏するジャズマンもいるのですが)だから何が次に起こるか察しが付かず、秩序とかルールはあま り期待しない方がいいのです。でも演奏には途方もない才能がいりそうだと感じられるでしょう。なぜなら「崩した」音は一つ間違えば「雑音」になってしまう からです。だから、ジャズマンの寿命は才能的にも、生物学的にもきわめて短く、苦闘の連続か、狂人みたいな人が多いのです。

か なり前ですが、「ジャズは死んだか」(オンブックス・音楽の友社)という本を買いました。アメリカ南部の黒人の演奏から発展したジャズはビッグバンドや バップなど、さまざまな方面に枝分かれしながら、ニューヨークを中心に1960,70年代に最盛期を迎えました。それで「死んだか?」という質問ですが、 私は「むろん、死んだ」と答えます。その理由は明快。才能を使い尽くしたからです。進化の大爆発によって恐竜が生まれ、そして滅びたように、後が続かなく なったからです。その意味ではクラシックも「死んで」います。

でも「死んだ」からといってその芸術が終わりだということには なりません。ルネサンスの芸術も「死に」ました。でも絵は美術館へ行けばみれるし、複製もある程度可能であり、音楽も録音というものがあります。幸い、 ジャズの時代は録音もかなり優秀に行うことができました。ただ「記録」あるのみです。

死んでいようと生きていようと、いいものはいいのです。芸術は「爆発だ」と言っていたどこかの画家の主張とは違って、進化や発展というものはないと思います。むしろ地域的な孤立や断絶のほうがユニークなアイディアを生み出すものです。

Milestones最 高のジャズ音楽家といえば、マイルス・ディビスでしょう。ただ、彼個人が素晴らしかっただけでなく、彼の編成した楽団のうち、ジョン・コルトレーンや、 レッド・がーランドの参加した時代が何と言っても最高の魅力を持っています。マイルスはすぐれたリーダーでしたから、それぞれの特長を遺憾なく発揮したの です。

たとえば、アルバム「マイルストーンズ」では、その各人の最高の演奏が集約されていると言えます。もちろん、この3人は単独でも十分素晴らしいのですが、人間が社会的動物であることを彷彿させるのが、一緒に演奏したときです。

相手の見事な演奏を聴いて、次に自分の番になったとき、それを上回る、あるいはその乗りに合わせて演奏してゆく、つまり即興演奏が基本であるジャズの特色を遺憾なく発揮した作品となります。

即興の醍醐味が、相手の演奏を聴いて、互いに演奏効果を高めてゆくというこの形態を遺憾なく発揮したとき、最高のジャズ作品が残るのです。この3人はいずれも他界してしまいましたが、これを上回る演奏を聴きたいならば、あと1000年ぐらい待たなければならないでしょう。

クラシックとは何か 目次へ 

た いていの人々はクラシックと聞くと、学校の音楽の授業を思い出し、退屈、興味が持てない、理解できないという反応を示します。また一方では自分の世界だけ に閉じこもって曲に没頭し、みんなで楽しむという音楽の本質をすっかり忘れ去っている人もいます。また一方では、教養として身につけ、世間体のためだけに 聞いたり演奏会にゆく人もいます。

渚のアデリーヌどうもクラシックの置かれている状態が、日本では余りよい方向に向かっていないようです。 いずれも極端であり、「音を楽しむ」ということがすっかり棚上げされているようです。これはおそらく、舶来のありがたい音楽で、高尚で、権威があって、と いう明治時代以来の変な偏見が未だに人々の頭から離れないからではないでしょうか。

クラシックについて、最も大切なことを人々は忘れています。つまりクラシックにも、「傑作」と「クズ」があるということ。当たり前のことなのに、誰も本気になって考えようとしません。また曲そのものだけでなく、演奏にも大変な上手下手があること。CD で素晴らしい演奏を聴いた後、ある有名オーケストラ(名前は控えます)を聞きに行ったときの、あきれるほどの「響き」のなさ。また、ブームに乗ってだか知らないが、日本の童謡をオペラ風に歌ってみせる嫌らしさ。

ク ラシックも他の音楽の形式と同じくこれだけの優劣があるのです。大切なことは、それを自分の耳で聞いてみて、一つ一つ判定してゆくことです。いくらモー ツァルトやバッハが素晴らしいといっても、失敗作は間違いなくあるのです。でも誰も余りそれを明言してくれません。ベートーベンにおいては特に優れたもの とそうでないものとの落差が激しいと思います。

こうやって少しずつ聞き比べてゆくと、「良いもの」が浮かび上がってくるし、たとえそれが「エリーゼのために」のように大衆受けしていようとなかろうと、気に入ったものが増えてゆくにつれ、クラシック音楽も捨てたものではないなと思えてくるのです。

ク ラシックの音楽後世の綿密さ、複雑さ、全体構造の優れた点などが理由でクラシックが好きな人もいるようですが、やはり原点は、メロディラインの美しさ、リ ズムのおもしろさ、和音の調和であり、それらは作った人や演奏する人の感情や才能によるのだということを忘れなければいいのです。

ポピュラーソング 目次へ 

世 の中には大衆的なものをいわゆる芸術的なものと区別する人がいます。はっきり境界線があれば、それも問題ないのでしょうが、残念ながら、その間には訳の分 からない無人地帯が横たわっています。ジャズやクラシックが普遍的な人間性を象徴し、ポピュラーソングは時代を反映した、その特定の場所、時間、流行、感 情を象徴するもの・・・と定義できれば世話はありません。

確かに大衆に親しみやすいように、メロディラインを重点に置いた、 単純な構成と、ストレートなメッセージがポピュラーには共通していますが、その限られた時代だけの流行にとどまらず、もっと隔たった時間の流れでも生き 返ってくることがあるのが、これらの歌の特長です。これは「歌」をどのように扱うかの違いが、国民によって違ってくる場合もあります。

ザ・ピーナッツ日 本では「ナツメロ」は、多くの場合オリジナルで歌った歌手のものであり、現代の歌手がそれを歌っても定着することは希です。どうも大量生産という物質界の 常識が、歌の「生産と使い捨て」にも続いているみたいなのです。ところが韓国では、いい歌は、まるで親から子供へ遺産が受け継がれるように、若い歌手に よって、「スタンダード曲」という形で伝わってゆくわけです。いい歌は前の代の歌手をしのぐような新しいレコーディングがされてもいいのではないでしょう か。

ポピュラーソングの最大の特徴は、その曲の出来不出来にかかわらず、自分の生きた時代の記憶と密接に結びついていること ではないでしょうか。だから、最近になって似たり寄ったりの曲が出てきても、それをたとえば青春まっただ中に聞いて口ずさめば、それが生涯忘れられない曲 になるものです。その点で、芸術作品とは違い、質の善し悪しより、時代背景が大切だと言えます。

だから、今の私には1980年代、90年代以降におけるポピュラーミュージックには気に入ったものが余りありません。それは今言った時代背景の記憶が結び ついてこないからです。逆に相当の駄作でも失恋のような劇的なできごとと時間的に一致しておれば、懐かしくいつまでも覚えているものなのです。

民謡 目次へ 

な ぜ今民謡かというでしょうが、れっきとした今風の言葉で言えば、ワールド・ミュージックなのです。国民には本来的に根付いたリズム感はメロディラインとい うものがあり、アメリカのウエスタンやステファン・フォスターの歌曲、フランスの昔からのシャンソン、イタリアの昔からのカンツオーネもみな民謡から発し ました。インドに行ったときに買ったテープには、当時のもっとも有名な国民歌手の歌が入っています。友人がミャンマー(ビルマ)に行ったときのテープも聴きましたが、その国民に愛される曲は誰にでも何か訴える力を持っているものです。

日 本民謡では、なぜか沖縄のもの悲しいメロディと津軽三味線のジャズ的な曲の流れがすばらしい。本州の田植え歌から発した民謡は、農作業が肉体に染みついて いないためにちょっと取っつきにくいですが、漁師の歌う、大漁節のリズム感には共感するところがあります。そして演歌。演歌は日本民謡です。演歌のマイ ナーながら、しかも単調な感じの歌が日本人の心にしみるのはその雨の多い気候のせいでしょうか。または絶えず虐げられた女たちの怨歌なのでしょうか。朝鮮 にも演歌に似たものがあります。東アジア人としての精神構造の類似が似たような曲想を作るのでしょう。

八代亜紀が 特によい。中国でも台湾でも耳にした彼女の歌は、東アジア人に共鳴するものを持っています。高倉健主演の映画「駅STATION」というのがあり、その中 で北海道のうらぶれた飲み屋で、女将が気に入って繰り返し聞くのが「舟歌」なのです。「さかなはあぶったほうがよい・・・女は無口なほうがよい・・・」 と、現実にはあり得ないことが夢想として語られるところに良さがあります。さらに新沼謙治とちあきなおみがいます。この二人については、歌の雰囲気が性格 的に合うということで、異論も多いと思いますが。

民謡が世界中に存在し、それは人類の誇る「多様性」の一つの現れです。アメリカのヒットしたハリウッド映画だけが世界中を席巻するようなことは、音楽の世界にあっては欲しくないものです。

映画音楽 目次へ 

今 ではさほど心に残る音楽を作る映画は見あたりませんでしたが、昔は音楽が映画の物語を圧倒してしまうものもありました。内容はもちろんのこと、音楽もすば らしいのはなんと言ってもチャップリンの作品でしょう。「モダン・タイムズ」の最後に流れる曲や、「ライムライト」をはじめとして、サイレント時代の映画 の片隅に流れる音楽にも記憶に残るようなものがたくさんあります。

でもやはり、映画音楽は物語から離れて一人歩きしてもらっ ては困るわけで、たとえば「太陽がいっぱい」の曲が流れてきたら、恋人の女が、ヨットのスクリューにからみついた網の中の死体を見て悲鳴をあげるところが ありありと浮かんでくるようなのが最高なのです。「男はつらいよ」だって、葛飾区の江戸川河畔が出てきてほしいものです。

残念ながら、「男と女」という映画では音楽はスタンダードのようになったが、内容は全く覚えていません。「白い恋人たち」もそうで、これは冬季オリンピックの記録映画だから、大会の風景だけしか浮かんでこないのは無理もありませんが。

サザンオールスターズ 目次へ 

な ぜサザンが好きかというと、ビートルズの直系のような気がするからです。「あれ、あのサウンドはどこかで聴いたことがある!」と思ってしまうのが彼の音楽 です。でも決してサルまねではありません。サウンドの良さはそのままにすっかり自分の音楽にしてしまう。独創性の点から行けば現代日本で最高の音楽家だと いえるでしょう。

だから、サザンを「日本のビートルズ」と呼んで差し支えないと思います。これまでビートルズの音楽をまねようと、日本でも海外でもさまざまなグループが出 現しました。「タイガース」「スパイダース」「テンプターズ」「ブルーコメッツ」など、昭和25年前後に生まれた人にとっては懐かしい名前です。中には、 「ずーとるび」などというグループも活躍しました。

それぞれに思い出のある曲を残し、善戦しましたが、どうしてもビートルズの才気、ユーモア、即興的な爆発の点で及びませんでした。ですが、サザンの場合には、歌詞の点でも、サウンドの点でも、そして社会的な面でも、特に際だったものがあると思われるのです。

神奈川県・江ノ島今のところ全部で13のアルバムがあり、独断のコメントをつけてみました。そのほかにシングルやベストがいっぱい出ていますが、順番に聞いてゆくと、若い頃から中年へ移ってゆくのが音楽の中に現れていてとても興味深い。私が一番好きなのは「いとしのエリー」ではなく、「 C調言葉にご用心」です。この曲を聴くと湘南海岸が、目の前に浮かんできてしまいます。

し かし何と言ってもサザンのおもしろさはその歌詞にあります。耳で聞く前に、その歌詞カードを丹念に読むと、愛の歌に混じって痛烈な社会批評が多いのに驚か されます。「ミス・ブランニュ・ーディ」(人気者で行こう)などブランドものを追いかける、個性のない女の子たちのことを歌っていたり、「汚れた台所」 (さくら)では腐敗したサラリーマン生活や組織が早口で語られます。この歌詞を音楽に載せて歌うと、ただ詩を読んだのとは全く違う世界が現れてくるのだか ら驚きです。

茅ヶ崎ライブ2000 年8月20日には茅ヶ崎市の野球場で行われたコンサートに行って来ました。小さな球場が2万8千人以上の観客でひしめく中、30曲以上、4時間近くの熱演 でした。その間ファン達はみな立ったままです。4時間電車の中で立っていたらぶっ倒れたでしょうが、ここでは熱狂してそれどころではないのです。桑田君の ステージ上での踊りやポーズは決してかっこいいわけではないのですが、全く気取りが無く、いわゆるブリッコ的なところが皆無なのが彼の魅力の一つでしょ う。

自分で作曲し、演奏し、歌い、グループを率いてこれだけのことができるのは全く驚きです。コンサートの最初は、茅ヶ崎で コンサートを開催できた記念に、湘南の海にちなむ曲を多数演奏し、中盤になってヘヴィーな曲を、そして後半には最近のアルバムからや、ヒットした曲を演奏 し、最後近くになって、やはり「いとしのエリー」を歌いました。

午後5時過ぎから開始し、9時まで、そのころには暑く照りつ けていた太陽がすっかり沈み涼しい夜風が流れて花火が曲の合間にアクセントをつけていました。外野席だったので、6人は豆粒のようにしか見えず、大スク リーンを通してしかその姿を見られませんでしたが、いい想い出になりました。

ビートルズ 目次へ 

The Beatlesい まになって考えると、20世紀の真ん中から20年間ほどは、人類の歴史の中でも一つのルネッサンスではなかったかと思えます。あのヨーロッパの本物のル ネッサンスには及びませんが、日本の江戸時代の文政年間のように、短い期間に才能ある人々があらゆる分野で爆発的に生まれることが歴史の中にはしばしば見 受けられるようです。

1960年代はそのような時期であり、音楽の世界での彼らの業績は今さら繰り返す必要もないでしょう が、荒削りな初期、実験的な音楽によって新しい境地を探った中期、じっくり聞けるよい音楽を作るようになった後期、いずれをとっても記憶に残る音楽を作っ てくれました。彼らの残した14枚のアルバムと、シングル集や海賊版は、必ず手に入れておきたいものです。

解散後には各自が それぞれのソロ活動をしましたが、残念ながらどんなに頑張ってもグループ結成時代を上回るものは現れませんでした。確かに佳曲は多く残っていますが、その 緊張度や全体の統一性についてはとても及ばないのです。ここにグループ内における特別な創造過程があったことをうかがわせます。

彼らの音楽も素晴らしいが、同時に歌詞も独創性のあるものが特に中期以後たくさん現れ、それだけで立派に「詩集」として通用します。歌詞のおもしろさを入れないとせっかくのビートルズの音楽も75パーセントしか味わっていないことになるでしょう。

新人の発掘 目次へ

元ちとせ今までの才能ある歌手や演奏者を楽しむのもよいが、これから現れる若い世代の中に、また魅力的なひとが時々出現することを無視するわけにはいくまい。

プロダクションに訓練され、ただ単調なフレーズを繰り返すだけで、その音楽は頭痛を引き起こすだけで、ファッションモデルになった方がいい新人が多い中で、ラジオを聴いていると、ふと光る若者がいるのだ。

その音楽は、大衆嗜好に合わせた、いわゆる音楽のファストフードであってはいけない。伝統的な音楽形式をきちんとクリアできる上で、新たな魅力を加えた、つまりそのイントロを聴いただけですぐにその人の作品、演奏だとわかるものでなければならないのだ。

夏川りみそんな難しい注文を付けたら、世の中で聴く価値のある新人はいなくなってしまうのではないかと心配する向きもあるが、そんなことはない。ここに紹介する二人はその好例だ。

一 人は、元(はじめ)ちとせ。「ワダツミの木」で有名になっている。沖縄の民謡歌手である。その歌い方は実に独特だが、きかせる魅力を備えている。もう一人 は夏川りみで、彼女の沖縄出身だが、すでに地味な歌でその澄んだ声を披露していたが、森山良子の作詞による、「涙(ナダ)そうそう」という歌で、一躍有名 になった。

二人が南の島の出身だったのはたまたま偶然だ。両者とも、もう一度聴きたくなる不思議な魅力を備えている。その理由は、歌の中に味があるからだ。味があるということは、歌詞ならその内容が、まるで映画で見ているように、すぐに脳裏に思い浮かぶということだ。

追記;自慢だが、二人の CD がそれぞれ出てから、すぐに買った。ヒットチャートや人々の話題に上るずっと以前に!!ラジオで紹介されたとたんに、ピンときたので、メモしておきレコー ド屋に駆け込んだのだ。「ワダツミの木」の場合、行った店は大きかったけれど、店長はじめ誰も知らず、ただ一人バイトの男の子だけが知っていた。

無料の音楽は我々を豊かにするか 目次へ

コンピューター技術により、ネット上から音楽が全く無料とまでは言わないまでも格安で手にはいるようになった。音楽用 CD-ROM の登場で、どんどんコピーが作られるようになった。

だが、何かつまらない。自分の聴きたい曲が、あまりにも簡単に手にはいると、気に入った曲を次から次へと聴くことになり、細部への注意がおざなりになり、アーティストの与えてくれる最も大切なもの、「感動」が確実に薄まっていくのだ。

それは音楽のバックグラウンドミュージック化とも無縁ではないと思う。人々の生活に浸透し、身近なものになるのは結構なことだが、その反面、氾らんした「良い音楽」がせっかくの価値を発揮できずにいるようだ。

やはり「期待」や「待望」が体験をより豊かにするのではないだろうか。昔から言われている。真に身につけたいものに関しては「自腹を切れ」と。

価格が高くてなかなか手に入らない。それでも少しづつお金を貯めてやっと手に入れたときのうれしさ、モトを取りたいという願いも手伝って、それはその音楽の持っている良さをより引き出してくれるかもしれない。

誰でもが音楽を大量に享受できる未来世界にはそれがない。一つには曲があまりに大量生産されることにも原因があるのだろう。

演歌とその仲間 目次へ

演歌の人気はこの数年の間どんどん下がっているという。もちろんその理由は若者向けの音楽のほうが、PR作戦が巧みだからだ。商業主義の波は世界中の「弱小」音楽を総なめにする。

演歌の特徴は、地方の民謡から発展して、特に都市生活を営む人々の日常生活の中に生まれる喜び、悲しみ、怒りその他を直接的に歌にしたものであり、最も「うた」に近いものといえる。

だからもちろんたくさんのヒット曲があるが、曲そのものが愛される場合も多く、「川の流れのように」のように、次々と歌手や世代が違っても歌い継がれるものも多い。

そ こで気づいたのだが、その意味でどこの国にも「演歌」が存在することだ。フランスでは「シャンソン」であり、イタリアでは「カンツォーネ」であり、アメリ カでは、ちょっと選択に困ったが、どうも「カントリー」ではないみたいだ。ではアメリカにおける「演歌」、いや「艶歌」は何か?と言われると、これは 「ジャズ・ボーカル」ではないかと思う。

決して国内的には大流行することはなくても、何十年もたってから聞いて最初に聞いたときの情景がすぐに思い浮かぶような曲、商業的にあまり成功しそうもない曲、でもうらぶれた酒場に行けば必ず聞きたくなるような曲がいつまでもあってもいいではないか?

使い捨てにしないヒット曲 目次へ_

毎年無数の曲が作曲され、歌手たちによって歌われる。だがその多くはその場限りでまるでトイレットペーパーのように捨てられ、忘れ去れてしまう。その曲がどんなによくてもそれを歌った歌手が落ちぶれてしまうと同時にそれは人々の心から忘れられる。

だから作曲家たちは新たに曲を生産しなければならない。だがどんなものでもそうだが大量生産は粗悪品を産む。ましてや音楽のメロディはわずか2,3オクターブの音程の間に含まれる音を用いて作るのだから作りすぎは似たような曲を次々と生じてしまう。

人々の心に、それもそれぞれの個人的体験と結びついた曲があり、懐メロとよばれようがとにかく長く記憶されるべき曲はたくさんある。新しくデビューした歌手は、むやみに新曲をひっさげるより、このように過去において深くインパクトを与えた曲を選んで歌うべきである。

そしてかつて歌った歌手とは違った「解釈」で披露し新人だが才能があることを世間に知らしめるべきだ。最初にオリジナルを歌った歌手を乗り越えた、と思われたときその歌手はやっと一本立ちをしたと認められる。曲は大切にされ世代や時代を超えて生き残っていくのだ。

ビートルズナンバー、韓国の歌謡曲、フランスのシャンソン、そして何よりもクラシックの世界では、ある曲について数多くの演奏者、歌手が挑戦し、その腕を競う。コンクールでは「課題曲」を設定して競われるが、これが音楽全体でもっと盛んになるべきだ。

歌は世につれ、世は歌につれ 目次へ_

ザ・ ピーナツの「手編みの靴下」などを聞くと、人々に受け入れられる歌詞もずいぶん変化してきていることがわかる。だいたいにおいて今であれば「靴下がないな ら、あそこの店にいいもの売ってるわ」といわれるのがおちだ。携帯電話の普及は男女の別れのつれなさや切なさを奪った。

編んでくれと頼もうなら「何いってんだよう、アホか、てめぇ」と最近流行の女子高生の言葉でやり返されるだけだろう。しかし今から40年前には人々はそれを聞いて自分の生活体験と一致させていたのだ。そうでなければ当時この曲がヒットするはずはない。

流行歌の歌詞を作る人たちは、世間の人々の感じ方や考え方に実に敏感だ。歌詞と人々は二人三脚なのだ。だからそれぞれの男女関係も世相を反映して変わってく るからそれが忠実に歌詞に反映される。そうなると21世紀のにほんの歌の歌詞の特徴は相手に対する話しかけよりも独白調が多いのに気づく。

五輪真弓の歌詞をそのデビューの頃と比較するとおもしろい。彼女の最初のアルバム「少女」の歌詞を見ると、まだ若かった彼女の日常の気持ちがあふれんばかり になっているのがわかる。「少女」「なわとび」「雨」などの歌詞はほとばしる思いと才気で字余りになってしまっているが、それは歌全体を破綻させるどころ かむしろ引き立てているのだ。

それは言葉のうしろにある気持ちが強く働いているからだろう。それもだんだん時がたって歌作り が成熟してくると、もちろん技術的にはすぐれた歌が生まれてはくるが、それをうしろからプッシュする力強さや緊張感はむしろ薄れてくる。そしてそれは21世紀の世相と無関係ではない。

よく言われるように、悲しい別れや強烈な孤独があって初めて歌が誕生する。飽食の生活では眠くなるだけで内面のほとばしりが生まれるはずはないのだ。その点では今は名曲の生まれることの少ない不幸な時代だといえる。

歌というのは人生の反映であってほしい。<歌=歌詞+音楽>であるから、詩、小説、映画と共通するところがある。それが2~5分の間に歌手の表現力のありったけをこめて凝集されているのだ。

2004年10月初稿2009年4月追加

インターネットラジオ・ミュージック編 目次へ_

日本のFM放送を聞くのもいいが、ブロードバンドの時代には、インターネットの世界でもラジオ放送が花盛り。ひとつ気に入った放送局を見つけてみよう。ただし、パソコンに「良質」のスピーカーを接続することを忘れずに。

rfimusique rfi musique 、開いたページの左上に三段に並んだ灰色の帯があり、direct と書いてある。この一番下の段が音楽番組の場所である。(実に目立たない!)これをクリックすると、フランスのポピュラー音楽中心のプログラムが聞ける。時報ごとにニュースもやる。また、musique のタブをクリックすると最新音楽情報が満載されている。このページはこの フランス語で書かれているが、音楽のかけっぱなしであれば別に読め なくとも問題ないだろう。

ロシアにも魅力的な音楽局がある。その名は Radio Channel 101 という。ロシア曲専門と、欧米のポピュラー曲、ダンス曲、ディスコ曲の4つにわかれている親切さ。英語版があるのでロシア語がわからなくても大丈夫。

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イージーリスニング(ムード音楽)のすばらしさ

渚のアデリーヌ(2)か つて、さまざまな名曲がでるたび、どんなものでもオリジナルこそすばらしいのだと思いこんできた。だが年を重ねるにつれ必ずしもそうではないことがわかっ てきた。いわゆるカバーというものがあり、新しく歌ったり演奏したりする人の作品には、オリジナルを乗り越えようという意気込みが感じられる曲も少なくな い。

特にジャズの世界では、別のジャンルの曲を生かした上で自分なりの解釈(インタープリテーション)が身上であるから、中にはまったく別の音楽ではないかと思わせられる作品も数多く出てきた。その中には驚くべきオリジナリティを備えた曲もある。

日 本には「イージー・リスニング」または「ムード音楽」というジャンルがある。誰が名前を付けたのか、何かムードに酔わせられるような気もするし独立した音 楽の分野ではなさそうな響きがある。「イージー」にはなんか楽な、いい加減なという意味合いもある。これが誤解のもとだ。ところがどっこいこのタイプの音 楽の創始者たちは実にオリジナリティに富んでいるのだ。

ここにこの世界での4人の代表選手を挙げてみよう。ポール・モーリア、レーモン・ルフェーブル、ミシェル・ルグラン、フランク・プゥルセルといずれもフランスで活躍した人々であるが、まず第一にどんな音楽の分野についても実に深い感覚と素養を持っているのだ。

ビー トルズの曲もクラシックもラテンもどんなタイプの音楽でも取り入れて自分の音楽にしてしまう。おそらく「はだざわり」ならぬ「みみざわり」がいいことが 「ムード」や「イージー」という言葉のもとになったのだと思われる。なるほどこれらの音楽は仕事をしながら聴いていてもじゃまにならない。BGMとしての 特徴を備えている。

出ているアルバムを調べるには→外部リンクTAKE 6 small music world

だ が、それはボリュームを絞って聞いている場合のことであって、いったんスピーカーの前で聞くと本格的な音楽を目指していることがわかる。確かにオリジナル のビートルズの曲は片手間に聴くことを許さない。音楽の中に没入するか真剣勝負を挑むような気迫がある。だがこちらの曲も新しい世界を創造している。

だ が一日の中には何かに集中したい時間もあれば、もっとリラックスしたひとときもある。それまでそのようなときに適した音楽がなかった。単にさまざまな音楽 のミックスではなく、(二つ以上のタイプを融合させる試みは今まで何度もなされてきた)独自の雰囲気を作り出すのに成功したといえよう。

残念ながらロックやジャズと同じくその最盛期(1960,70年代)は去り、そもそも後継者がいない。残されたレコードを大切の発掘して繰り返し聞くしか方法はなさそうだ。21世紀は文化的にはどんな方面でも不毛の時代のようである。

2004年11月初稿

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童謡と愛唱歌

さまざまな歌のうち、童謡と愛唱歌は、その歌手の才能や感性をはっきり示してしまうものだなとつくづく思う。というのもこれらの歌には恋の歌は少ないか、まれにしかお目にかからない。

多くの歌手は、特に流行歌手は恋の感情を歌にのせるのは慣れている。場合によっては自分の実体験をそのまま思い浮かべてもいいわけだ。ところが、童謡などともなると、日常生活の些細なことがらが題材になり、これを聞く人にうまく伝えなければならない。

音程とリズムがしっかりしていて、安定した歌を聴かせるのは、プロとしては当然である。ところが、その先歌詞以外で「感情を込める」「感情を聞き手に伝える」までできないとなると、それはアマチュアだと言ってよい。

つまり機械的に正確な音楽を聴かせることは練習次第で、技術の問題としてある程度まで達成することはできるのだが、人を感動させるとなるとそこにもう一つの要素がなければならない。やかましい伴奏やバックコーラスによって自分の歌の足りない点を隠すことができる場合ならともかく、ほとんど独唱に近い形で歌うとなると、その人の力量がみな出てしまう。

愛唱歌の中に、「夏の思い出」という歌があるが、「夏が来ると思い出す・・・静かな尾瀬、遠い空」という流れの中に、聞く人が、「ああ、山や森の風景が浮かんで来るなあ、なつかしいなあ・・・」という気持ちを思い起こさせるような歌い方をできる歌手は一体何人いるだろうか。

ある若い女性歌手の歌で聴いてみた。なるほど、テレビのショーによく出ただけあって、実にしっかりした歌い方をしている。技術的にはほとんど問題ないようだ。だが、今ひとつ情景が伝わってこないのだ。声の質は明らかに澄んで、透明度が高い。それはそれでその歌手の長所なのだが、ふるさとの眺めや、子供の頃遊んだ遊戯の楽しさがいっしょに入ってこない。

これを確実に伝えてくれる歌手とは一体どこが違うのだろうか。わずかな声のかげりか?われわれの感情の波長とぴったり合わせてくれるからか?意図的に音程をずらしているのかもしれない。いずれにせよ、同じ歌の「歌い比べ」を聴いてみると「歌う」ということの本質が見えてくるかもしれない。

2006年1月初稿

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ナマの音楽への復帰

エジソンはえらい物を発明してくれた。彼のおかげで音楽の様相は一変したのだから。それまではすべて”ナマ”で聴くしかなかった音楽というものが、突然再生と保管が可能になったのだから。これで一部の人々にしか楽しむことのできなかったものが万人にいきわたるようになった。

それ以来、蝋管(ろうかん)、SP盤、LP盤、磁気テープ、カセットテープ、CDと長足の進歩を遂げてきた音響産業は、インターネットの時代に達し、その気になれば誰でも気軽に音楽をダウンロードできるようになった。かつてはマニアにしかえられなかった最高の音が、普通の人でも聞けるようになったのだ。

われわれの夢であった、いつでもどこでもどんな音楽でも望むままに聞けるという欲望は一応かなえられたといっていい。だが一方で他の分野でもそうであるように、われわれの”集中度”が落ちてしまったのではないだろうか?いつでも聞ける気軽さ、繰り返しのきく一流の演奏、プロデューサーによってえりすぐられた完璧な演奏、をわれわれは聴くことができる。

そこには、明日には枯れる運命にある花の美しさをめでる緊張感はない。死ぬ運命にあるからこそいとしい相手に抱く感情もない。これこそ機械文明の到達点がわれわれにもたらした最大の危機なのだ。人間の感性が衰えてゆく。音楽は感性を磨くはずのものだったのに、それが便利さの限度を超えたとたん、衰弱の道をたどり始めたのだ。

コンサートの復権が必要になった。なるほどジャズや往年の名歌手の演奏は二度と見ることはできない。だが、若い人々によって受け継がれていくことは可能だ。現にクラシック界はそうしている。ビートルズはもういないが、そのコピー演奏は可能だ。

実際の音楽とは、エジソン以前においては当たり前の存在だった。この体験は長い間忘れられていたのだ。録音技術の発達は一流志向へと流れた。二流以下の演奏はさげすまれ、録音される機会は少なく、そのために向上の機会さえ奪われた。

だがもうそろそろ、われわれは再びみずみずしい感性と感動を取り戻してもいいころではないか。ナマの演奏には、間違えるのではないかという息をつめるような瞬間がある。前回の演奏とは違った演奏が期待されるというひそかな楽しみがある。そして何よりもわれわれの耳にストレートにやってくる生身の人間の作る音の”攻撃”を真正面から受けとめることができるのだ。

生演奏には一流や二流の違いを超えた興奮させる何かがある。きちんと企画され、最高の演奏を聴くコンサートだけでなく、音楽を愛する人々が大勢集まって競演し、それを聴衆が聞き分けて好きな演奏者を選ぶという本当の音楽の楽しみ方を再びものにする機運が生まれているのだ。

すでにこの試みはヨーロッパでは、新しいタイプのコンサート、ラ・フォール・ジュルネ La folle journée という形で芽を出しつつある。それは今までの野外ジャズ・フェスティバルなどに似て、正式な演奏会というよりは、場末の酒場での演奏を多数集めたものに似ている。

音楽は分野を問わず、コンサート中心に戻るときが来た。これまでのCDや音声ファイルは音楽の”見本”みたいなものになる。これらはあくまでもコピーなのだ。それはちょうど絵画のどんなすばらしい複製画ができても、やはり本物の生む感動にかなわないのと同じである。音楽の方向性としてはこれが本来の姿である。技術の進歩には関係ない。

2008年2月初稿

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