(1999年)

雨にかすむ西湖

H O M E > 体験編 > 体験編案内 > 旅行記案内 > 上海周辺(1)

目次

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第1章 街を歩く

第2章 名所めぐり

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第3章 中国人の生活 第4章 記録

上海再訪2015年

第1章 街を歩く

なぜ上海か 上海を示す英語での Shanghai の動詞の場合の意味を知っていますか?「(麻薬を飲ませて)誘拐して(水夫にするため)船に連れ込む」という意味なのだ。アヘン戦争の時代からこの町はきな臭いにおいがたえなかった。今では中国のニューヨークになったといえる。その雑踏、混沌、怪しげな街角、それがこの都市の持つ妖しい魅力なのだ。

去年(1998年)に台北を訪れて、いよいよ次には中国大陸に足をのばそうと決めて最初に選んだのがこの町だ。西欧化が進んだ香港の街に比べて上海はまだ荒削りで、まさに開発途上の街。そして中央政府の鎮座する北京と違い、中国文化のぶっかけ汁になっているのがこの町なのだ。これからアメリカ合衆国の広さに匹敵するこの国に足を踏み入れるための入門編だといえよう。今回はこの町とその近郊に限定し、中国の最も都市化の進んでいる地域での中国人の生活習慣と、そして中国語の使われ方を探索しに出かけたのだ。

上海の朝 一面濃い靄に覆われて、高層ビルの上半分はどこも見えない。街には人影が少ない。上海人は夜更かしなのだ。何しろ午後11時過ぎに繁華街を歩いても小学校6年生ぐらいの男の子がうろうろしているくらいだし、若い女の子の多さは原宿と変わらないのだ。だから朝は老人天国である。街を流れる黄浦江の河口はあの長江(揚子江)の河口と一緒になって黄海に流れ出すが、その合流点までコンテナ埠頭やはしけが並び、上海港として機能している。そして租界時代のクラシックなデザインの建物が並んでいるのが「バンド」だ。ちょうど横浜の山下公園と同じようにどこまでも細長い公園になって川沿いに続いている。

その公園には平均年齢が60歳ぐらいと思われるグループがおもいおもいに太極拳に熱中している(デパートの前では店員たちがラジオ体操の代わりにやっていた)。ゆったりした音楽が聞こえてくるので何かと見にゆくと、なんと社交ダンスの練習をしている。時は午前7時半、八代亜紀の「恋歌」のメロディーが流れる中、人々は実に楽しそうに踊っている。このメロディーがダンスに合うかどうかは議論の余地があろうが、やはり中国人も生活をエンジョイすることにかけては日本人より上手のようだ。

川には橋が2本、トンネルが1本あるがいずれも車のためで、人々はオレンジ色のフェリーを使って向こう岸にわたる。行きは1元だが帰りはただ。ソウルでも台北でもそうしたように、またまたこの町一番のタワーに登る。できたばかりで、ぴかぴかだが、入場料が100元とやたら高い。この日は靄が深く、残念ながら地平線の彼方まで見通すことができなかった。河口近くの街のせいなのか、どうやらこの近辺は靄が頻繁に発生するらしい。それでも高層ビルがやたらに林立しているのが見え、かなりの部分がまだ建設中だ。この調子だと、香港にいずれ追いつくだろう。今上海では相当ホテルの数が不足しているのだ。ただ心配なのは地震である。ここは河口の街だから当然、土はヘドロである。道路工事中の溝をのぞいてみたが、まさにそうであった。そんな上にこんな高層ビルを建てても大丈夫なのかしら?

バス カルカッタの街と同じく、主要な交通機関はバスだ。トロリーバスも一部走っているし、アコーディオン型の幌でつながった、2両連結のバスもある。そしてその古めかしさも同じだ。他の国、たとえば日本で使ったバスの中古品が使われているのだろう。しょっちゅうパンクする。大きなバスの停留所で、人々が見守る中、運転手が必死になって、パンクした前輪のナットをゆるめてタイヤをはずそうとしていた。乗用車と違い、車体の重量が大きいから大変な重労働だ。でも、タイヤそのものがかなり痛んでいるので、何回でもパンクする。

バスは庶民の足。市内ならどこまで行っても1元(約15円:1999年3月現在)だが、空調設備の付いたバスはその2倍の2元。真夏には1元をよけいに出す余裕のない人々は、空調車を見送るのだろうか?バスの利用法は簡単。バスの路線番号を覚えればよい。街は通りの名前がしっかり決まっていて、路線図もわかりやすく書いてあるから手元に地図さえあれば迷うことはない。中国ではやはり人手が余っているのか、ほとんど車掌(というより切符売り)が入り口に乗っている。お釣りはくれない。

タクシー 基本料金は10元で、その範囲で使えば安いものだ。タクシーに使われている車両は日本製ではなく、なぜか90%までフォルクスワーゲンのパサートなのである。元々は優れた車なのであるが、いかんせん上海の激しい交通事情の中で酷使されているためか、みな摩耗しきって加速に余り元気がない。つい最近まで白タクが横行し、観光客を食い物にしたそうだが、今ではどれもメーターを設置し、安心して乗れる。

今回タクシーには杭州と上海でそれぞれ1回ずつ乗った。上海では、蘇州からの帰りの長距離バスが、出発したときと全く違うバスターミナルに乗客を降ろし、(よくあること、運転手からは一切の説明がない)そこからの市内バスの乗り方が分からず、やむなくタクシーを利用することになった。あとで調べてみると滞在していたホテルからものすごく離れていることが分かった。そのため、高速道路を含め市内を走ったタクシー代が、蘇州までのバス代の3倍になるという結果になってしまった。

運転手は話し好きで、私が日本人だと知ると、年はいくつかとか、今までどこに旅行したかなどと、根ほり葉ほり尋ねてきた。もちろん彼自身は国内でさえ、ほとんど上海から出たこともない。降りるときに62元の料金に対し、手元に100元しかなかったので、お釣りを持っていないのではないかと危惧していたところ、案の定、彼は30元しかもっておらず、結局70元払うことになってしまった。でも彼は上海語ではなく、きれいなプートンホア(普通語)を話してくれたので、聞き取りは比較的楽で、いい勉強になった。

地下鉄 東京とほぼ人口が同じ上海では今のところ(1999年3月)一本しか地下鉄路線がない。でも南京路と淮海路という、いちばんにぎやかな繁華街を通って鉄道の駅まで通じてはいるのでとても便利だ。一律料金は今のところ3元だが、つい最近まで2元だった。1,2元はコインとお札の両方があるため、コインなら自動販売機へ、お札なら窓口で買うか、コインに取り替えてもらってから自動販売機で買うか、など全く煩雑だ。車両数が少ないせいか、余りダイヤは混んでいないが、せっかちな日本と違って「列車は前の駅を出ました」と知らせる表示板はない。でもバスとちがい、設備は新しいし、他のどの国の地下鉄にも引けを取らない。

問題なのは乗客の訓練であろう。自動改札なのだが、ちょっとコツがいるため、しょっちゅう切符を入れるときに多くの乗客が失敗している。切符を入れると別の口から出てきて、その切符を抜き取ってから今度はターンスタイルを回して中にはいる。そのため、それぞれの自動改札口には指導係がいて、大声で切符の入れ方の指導をしている始末だ。田舎の人々の流入が激しいから、この仕事は当分続くことだろう。

もっと時間がかかりそうなのは乗客のマナーである。混雑した時間帯で、大勢の乗客が地下鉄の扉が開くやいなや、降りようとする人々には目もくれず、いきなり中につっこもうとする。滞在したホテルが街の中心にある「人民広場」であったため、これは一層ひどいものだった。日本でも「降りる人が先」という原則の守られ方は都市によってずいぶん差があるようだが、上海ではそのような原則はまったく通用しないのだ。

トイレ トイレほど世界の文化の違いがよく現れるものはない。完全無菌無臭で手術室のようなトイレから、ウンコを落としたとたん豚が食ってしまうものに至るまで、実に様々だ。今回杭州で見たトイレは実に合理的である。5つほどの個室を貫く溝は幅30センチ、深さ20センチぐらいで、「上流」から時々大量の水が流される。「下流」に所々落としてある「かたまり」はそのとき一斉に押し流される。見ていて実に気持ちがいい。「河口」から巨大な穴に吸い込まれる。また、清潔なトイレは決まって有料である。だが金を取ると同時にティッシュをくれるところもある。

舗道で
 はじめて香港やニューヨークへ行ったとき、歩行者の信号無視に感心し、日本に帰って早速実行したりしたものだが、上海ではさらに輪をかけた無法ぶりだ。というよりは信号そのものが少ないのである。免許を持っている車でさえ赤になっても遠慮なく交差点につっこんでくる。バイクは自転車と同じである。つまり隙間さえあればどこでも入ってくる。

しかし極めつけなのは歩行者であり、たとえ高齢者であっても、信号のない車の行き来の激しい交差点を縫うようにわたって行かなければならない。また、赤信号であっても右折は許されるから、車が来ないと思いこんでのんびり歩くこともできないのだ。これでは相当交通事故が激増していると思われるが、一方車のほうも加速の悪い、のろのろ運転なので、スピード関係の事故は少ないようだ。あるとすれば、人と車の接触事故だろう。舗道はこの町では一応完備しており、いったん車道から抜け出れば、かなり安心して歩ける。

せっかちに歩いている人は少ない。それどころか、雑踏を後目に舗道のど真ん中に立ち止まって動かない人もいる。思うに、これは田舎から出てきた人々で、誰もいない農道の真ん中と勘違いしているのだ。そのせいもあって路上に唾を吐く人も多い。所々に見かける立て看板の標語には「唾を吐くな」と明示されているのだが。もっとも、唾を吐いているのと思ったら、ひまわりやカボチャの種のからを吐き捨てている場合が多かったが。これも時代がたって、たいていの人が都市生活に慣れれば自然と解消することだろう。ほかの外国の街を歩いていても気が付いたことだが、日本とちがって人々は対向して歩いてくる人の目を見つめたりしない。なぜ日本では相手をじろじろ見るのだろう。

食べ物 海外旅行は街の大衆食堂で訳の分からないものと注文して食べてみる冒険が最大の魅力の一つだ。高級料理を頼む必要は全くない。そんなものは日本でも優れたコックがいるし、東京なら探せば中国のどんな中国料理でも食べられる。それに「貧富の差」の項で言ったように、最高級料理なら日本でも中国でも為替相場抜きで価格に大差はないのだ。

これに対し、一般の人々の食事は簡素だ。ただ、間食が多い。露店で売っている、ゆでトウモロコシ、鳥の足の串焼き、肉パイ、そして菓子パンが主なものだが、カップ麺は列車の車内や待合室では必ず誰かが食べている。また中国版の弁当はふつう「快餐」と呼ばれ、5元とか10元分とか指定した上で、スチロールの入れ物に、ご飯と、値段に応じていくつかの入れ物から好きなおかずを選んで詰めてもらう。ご飯の上に無造作に汁の着いたおかずをのせるだけだから、いわばぶっかけ汁みたいになり、持ち運べないが、なかなかうまい。そばにあるテーブルに座って食べる。

南京西路から奥に入ったところで「黄河路」というところがあり、そこには個人レストランがひしめいている。その中で入り口が凝っていない、ガラス越しに中が見えるカジュアルな店に入った。メニューを見せてもらったが、料理の名前を勉強してなかったので、読み方も分からず、ほとんど当てずっぽで、酒の肴になりそうなものと粥とビールを注文した。何が出てくるかとびくびくしていたら生の?直径1.5センチぐらいの小さな貝が4,50個入った冷菜だった。とろみが付いているからいっぺんゆでたのかもしれないが、何となく生々しい。でも香港でも似たようなものを食べたことがあるから、同じ調子で全部平らげた。あとで別の場所でも見たが、貝を皿に山盛りにしてひとつひとつ楊子かなんかでほじくり出しながら食べる人が結構いるのだ。

もう一つのお粥には参った。最後まで食べられるか自信がなかった。なぜか?とてもいやな味のする香草が入っていたからだ。名前は分からない。中国パセリかもしれない。金属臭い、つまり水道の錆の混じった水の香りに似たものなのだ。これはもうごめん被りたい。絶対好きになりそうもない。2日後にセルフサービスのスープの中にもこれが入っていたが、どうも粥やスープにこれを入れることが広く行われているらしい。合計46元となかなか高かったが、この通りでは安い部類にはいるかもしれない。それにウエイトレス(この店の娘?)がとても愛想良かったので、90点!

一番良かったところは「人民広場」の前にある、泊まっていた「揚子飯店」を左に出てすぐの十字路を右に50メートルほど行ったところにある「新華・・・」である。家庭的な店で、おばあさんと、その孫娘と兄、もう一人の女の子の4人でやっている。コックは兄なのだが、実に味付けが上手だ。夕方何となくぶらぶらと夕食を食べるところを探していたところ、孫娘が中から出てきて食べろと言う。窓ガラスを見るとスープ、魚料理、肉炒め、野菜炒めの4品コースで32元とある。これにビールを足して標準的な晩餐だ。スープはどんぶり一杯の卵を散らしたもの。魚はおそらく淡水魚だが白身が決して生臭くなく、上にあんがかけてある。肉は細かく刻んだ豚肉だと思うが、からめたソースが実にうまかった。そして野菜は今3月には中国の畑を黄色い花で埋め尽くしている菜の花!熱い油で炒めた菜の花はしんなりしてどんな高級野菜にもまさる。

孫娘が私に興味を持ってどこの国から来たのか、なんできたのか根ほり葉ほり尋ねる。聞き取れないところはメモ用紙に書いてもらって、(その字もへたくそで判読に苦労したが)何とか返事をした。こんなにおいしい店なのに場所が裏通りにあるため目立たないのだ。上海に行ったら、ぜひ行ってあげてください!4人とすっかり仲良くなって店を出た。100点!

夜の世界 出発の前の晩に、松坂慶子主演の「上海バンスキング」を見た。日中戦争前夜に上海に流れ着いた日本からのジャズマンが戦争に翻弄されて、ある者は戦死し、ある者は麻薬に冒されて終わる物語である。終わり方は悲惨であるが、ジャズ全盛時代の上海の描写はみものである。若き松坂慶子もこのときは目の覚めるほど美しい。¥ 海岸通りの「和平飯店」というホテルで老人グループがジャズの生演奏をやっているというので、徒歩20分、南京東路を下って聞きに行った。演奏はさすがくたびれた老人のバンドのせいで、ジャズの持つスリリングな感覚は求めるべくもないが、これも前の晩にみた映画の演奏があまりにも威勢が良すぎたせいだろう。このバー「爵士(=ジャズ)・・・」は1930年代の昔のままで、内装は素晴らしい。

帰り道は同じ南京東路を通り、午後10時を回っていた。客引きが多い。日本語で「きれいな女がいるよ」。これを2日間で10回は聞かされた。彼らはさすがプロでどんなに現地人のふりをしようとも、すぐに日本人だと分かってしまう。「いらない」とか「不要(プーヤオ)」などといっても引き下がる相手ではない。そんなことばは観光ツアーの添乗員が教えた決まり文句にすぎないからだ。ところが、「マンダヤオミン(死ぬほど忙しいんだ)」とか「ウオトングペンヨウ(友だちを待っているんだ)」と言ってやると客引きは一瞬たじろぐ。まさか中国語で言い返されるとは思わなかったし、自分が目を付けたのが日本人じゃなかったのかと思うらしい。これで彼らはみな退散した。中には中国語で「どこから来た」と尋ねてくる奴もいたが、「リーベンレン(日本人だ)」と答えると腹を立てて立ち去っていったものだ。

百貨店の中でうろうろしていると、若い男が近づいてきて、これまた流ちょうな日本語で話しかけてくる。自分はあるホテルのコーヒーショップで働いているから、ぜひ飲みに来てくれ、という。ここまでならいい、そのあと付け加えて、(たぶん副業として)マッサージしてくれる女の子をすごく安くできる手づるがあるからどうだ、と聞いてくる。いらないと言うと、今何をしたいのかと聞くので、酒を買おうとしていると答えると、売場まで連れていってくれて、あれやこれやと説明してくれる。そのところを大いに利用させてもらう。そのあと、「どうです、コーヒーショップで話でもしませんか」ときた。あとの段取りは分かっている。上海は暴力バーが多い。珈琲一杯で「上海」が動詞形に早変わりしかねないのだ。

向こうから乳飲み子を抱いた女が近づいてくる。上手な日本語で「今百円持っています。元に替えてくれませんか」と尋ねてくる。子供連れが一番、相手を油断させる。率を計算して7元を相手に「先に」渡した私が馬鹿でした。女はとっさに百円硬貨を幼児の口の中につっこんで、「飲んじゃった」とのたまる。新手の小銭取得法である。ここで返せと騒いでもしょうがないので、「再見」と言ってその場を立ち去ろうとすると、なぜか女が「あと5元」と叫ぶ。そのまま振り切ってしまったが、あとでどうして7+5=12元なのかわかった。ある繁華街を歩いていたときのこと、日本のあの「百円ショップ」があったのだ。その看板曰く、「百祥、つまり12元で何でも買えます」と中国語で書いてあったのである。一般の中国人は常に¥100=12元だと思っているらしい。

こんな風に描くと上海は怪しい人間がうろうろしているところだと思うかもしれないが、私がホテルに早めに戻っておとなしく寝ていれば、こんなことは起こらないのである。

第2章 名所めぐり 

上海駅 まだ高速道路が発達していない中国では鉄道が最も確実な輸送機関である。この巨大都市上海の駅がどんなものか実に興味があった。ここを起点として、北京、西安、南京、広州など、中国の主要都市とつながり、西にある国境の果てまでつながっているのだから、 中国の人の流れの縮図だといえる。

行ってみてびっくり。駅前広場は人に埋め尽くされ、一大政治集会が開かれているみたいだった。とても待合室に収容できる人数ではない。これを見て一番に思い出したのはカルカッタの中央駅である。長距離列車を待つ人々のなかには地べたに寝る者、物売りにつきまとわれている者、呆然と立ちすくむ者、足先がライ病にかっかって腐り、骨がむき出しになっている者、それらが渾然一体となって、駅前広場に群がっているのだ。

ここは上海市内とは明らかに違った世界である。つまり中国各地の田舎から離合集散してきた者たちの世界である。ここに中国の広大な世界が映し出されているのだ。あらゆる民族、文化を持った者たちがここを起点に集まり散って行く。経済の自由化が進む前はこれほどではなかったろう。しかしトウ小平に始まる政策の転換から事情は変わった。食い詰めた農村の人々が続々と大都市に集まるようになってきたのだ。

切符を求める窓口にできた列も尋常ではない。のんびり窓口に向かって目的地を告げても、他の人がひょいとお札をつっこんで先に切符を買おうとする。「順番を作って待つ」という原則はここでは通用しない。ただすばしっこいものだけが優先権を得るのだ。しかも2千、3千キロも先の地に至る長距離列車は乗客が多すぎてパンク寸前なのだ。いや、上海駅そのものはすでにパンクしている。中国大陸を横断するときは、外国人旅行者にとって切符を手に入れることは至難の業だ。駅全景を写真に収めるために、近くのビルの4階まであがってみた。人々が真っ黒なかたまりに見える。それほどまでに大きな群衆だったのだ。

豫園周辺にて 上海ははじめ小さな漁村として出発し、植民地時代には開港して租界地として出発し、現在のような経済都市に成長した。だから香港と肩を並べるビジネスの一大中心地であるから、港を中心として、高層ビルが所狭しと並んでおり、さらにどんどん建設中である。しかし昔からの中国の庶民たちが住んでいた地域があり、それはいわば上海の浅草にあたる。そのような下町で代表的なのが一大中国式庭園の「豫園」を中心とする界隈だ。

林立するビルの谷間になりつつあるが、そこは平屋かせいぜい2階建ての民家がひしめき、3人手をつないで歩けばいっぱいになるような細い路地が迷路のように入り組んでいる。上を向くと洗濯物が満艦飾だ。ちょうどこれと同じような光景がイタリアのナポリの写真にもあったが、日本で言えばかつての下町、佃(つくだ)あたりと同じく、子供たちの叫び声と老人たちの談笑が聞こえる、活気に満ちた場所である。他の国と違うのは、そのような住宅地域は小さく「小区」に分かれていて、入り口には、夜間外部の者が入らないように金網の門が設けられていることだ。たぶん門限はあるのだろうが、これでだいぶ犯罪防止に役立っているようだ。

豫園の商店街 商店街はと言えば、これはもう、市民のエネルギーの宝庫である。路上からは食べ物屋の料理のにおいが漂いだし、物売りの叫び声に満ちあふれるところはほかのアジアの街と変わらない。わずか20年ほど前には紅衛兵が毛沢東語録を手にこの町を闊歩していたなんてとても信じられない。豫園はこの地域の中央に位置し、門前町や城下町のようにこれを核にして発展した。だから豫園の入り口付近が一番にぎやかだ。ある店の前には黒山の人だかり。何だろうと近寄ってみると、中国人の「寅サン」が大声を張り上げて、次々と出される骨董品の口上を述べている。声の調子も、聞き手の反応も日本と全く同じで笑ってしまう。

ここで名物のショーロンポーを食べる。いわば一口サイズの水餃子だがこれが16個入りで8元、酢をつけて食べる。実にうまい。横浜の中華街でこれを食べようとしたら、冷凍のため解凍するのに時間がかかると言われた!ここでは大勢の人が列を作って待ち、蒸籠からだしたてのあつあつを立ったままほう張る。まわりにある露店では飾りもの、特にきれいな石を磨いたもの、メンコ、そして昔懐かしい切り絵などが並んでいる。まさに昭和20年代までの浅草の雰囲気なのである。

この界隈には2回も訪れた。1回目には一人で、2回目には近所に住む、定年退職したおじいさんとである。この人は日中文化交流に関係していたということで日本語がうまい。海岸通りでボオッとしていたら、商売でも客引きでもなく、ただ親切でこの地域の案内をしてくれた。これは今の世知辛い上海ではきわめて異例のことだそうである。

豫園は上海を訪れた観光客なら必ず行く一大名所であり、入り口に通じるジグザグの橋の上ではガイドたちが自分たちの連れた客が人混みの中に迷ってしまわないように必死になって声を張り上げ、旗を振り回している。ここではやはり日本人が主流だが、英語以外にドイツ語やフランス語の話し声がしきりに聞こえたのはかつての植民地時代の名残だろうか?

ここの庭園は典型的な中国式である。真ん中に池を配し、東屋を設け、穴だらけな奇妙な形をした岩を置く。この岩は何かたとえば動物の頭を象徴しているそうだ。全体が数多くの区画に塀によって隔てられていて、塀の通り道をくぐり抜けると、突然全くちがったデザインの風景が出現する仕掛けである。このあと蘇州に行ってさまざまな庭園を見たが、みなこの形式であった。

上海の魅力は高層ビルにあるのではない。確かに高層ビルの数だけ言えば、新宿の高層ビル街がいくつもあるわけだが、本当にアットホームな気になってしまうのはこれらの庶民地域なのだ。ただ、東京の浅草、パリのモンマルトル、の例を思い出せば悲観的にならざるを得ない。ここにも「再開発」の波は押し寄せているのだ。実際、昔ながらの下町情緒あふれていた部分は、画一的な店舗の建設による「モール」化の建築が進んでいた。エネルギー浪費型であるアメリカ文明の、すべてを規格化し、露店を排除し、無菌清潔環境を作ろうとする押しつけがましい力が今上海にもおそってきているのだ。ある意味では今回の旅行では「間に合った」といえるだろう。10年後では豫園地域もクリーブランドと同じになっているかもしれない。

大世界大世界にて 浅草には「花屋敷」という遊園地があり、これも20年前まではとても楽しいところだった。今、文明国では都市の娯楽施設と言えば、ゲーセンか、無菌清潔なディズニーランドタイプのどちらかになってしまったが、この上海の遊園地は街の真ん中にある、ビルの中に組み込まれた、戦前を思わせる一大娯楽場である。ローマのコロシアムのような形をしていて、真ん中に曲芸の舞台と観客席があり、まわりをドーナツのような形で建物が取り囲む。20元の入場料で見せ物、映画、演劇がみな見放題なのである。入り口を通り抜けるとまず「歪んだ鏡」のコーナーがある。ここでは自分の姿が樽のように太ったり、鉛筆のように細くなっているを見て、中学生ぐらいの女の子たちが笑い転げている。そのあと、射的、自動車のぶつけっこなどの昔懐かしい遊園地の遊び道具がそろっているが、実はそれだけではないのだ。

上海には伝統的な曲芸があって、ここでも見せ物の一部として綱渡り、玉乗り、梯子乗り、何段にも重ねたお盆を頭の上でバランスを取って支えるなど、とても人間業とは思えない非常にレベルの高い技を披露してくれる。ここにも舞台が設けられていて、入園者は誰でもいつでも自由にみられるのだ。その技には本当に感心してしまう。ここで中心になっているのはコンピューターではなく、途方もない訓練を積んだ「人間」なのである。しみの付いた、ややみすぼらしい衣装をまとってはいるものの、小学生ぐらいの子供から、中年のおじさんに至るまで、かわるがわる各自の特技を熱演している。「瓶」を頭にのせてぐるぐる回して見せた少年の頭は、瓶のあたる部分だけ、練習のせいで禿げているのであった。屋外で、夕暮れの寒さが身にしみるまで、観客も熱心に見ているのだ。

建物の内部にはいるとB級映画を上映している部屋もあれば、伝統的な演劇を上演している舞台もある。どれも無料で自由に見て回れる。日本の学校の「文化祭」の雰囲気だ。でもその衣装といい、キャストの優秀さといい、日本では絶対に実現できない。なぜならば、「人件費」がかかりすぎるからである。歌舞伎のように国家の助成があってはじめて日本では伝統芸能が成立する。ところがここ中国ではまだ、今のところはコスト面でも成り立つのだ。

鼻の上に花瓶をのせるもう一つの舞台、つまりすごくスタイルのいい美女が6人、衣装を取り替えひっかえ登場する、中国舞踊とモダンダンスを結合させたようなものに私は釘付けになった。単にこの踊り子たちが美しいというだけではない、ラインダンスの系統を引いていると思われるが、実にユニークで楽しいダンスなのだ。また踊りのうまさにかけては、テレビで放映されないのが不思議なくらいだ。観客も正直で、圧倒的に男性が多く、幕間に歌手が歌を歌い始めると、ぞろぞろ出ていってしまうが、再び彼女らの登場となると、またぞろぞろと客席に戻ってくるのだった。

かつては日本でも至る所に遊園地があり、人々を楽しませた。それがいつしか多くは消滅し、生き残ったところはジェットコースターをはじめとする機械本位の遊びに取って代わってしまった。この「大世界」は戦前から続いている。共産主義の世の中では数少ない娯楽の一つだったのだろう。今、ケンタッキーやマクドナルドの店の目立つようになって、このような「芸」を中心とする施設も存続が危うくなろうとしている。これも「間に合った」と言える。

南京路と淮海路 「南京路」は街の中央を東西に走るオーソドックスな雰囲気を持ち、日本で言えば銀座にあたる。香港をのぞけば、ここが中国の都市でも最大級の商店街であるに違いない。かなり工事中のところが多く、もう一本の地下鉄の開通のあとにはずいぶん変わるだろう。この通りにデパートが集中し、高級店がある点では銀座とそっくりだ。

ただ、この南京路から南西方向よりに平行してある「淮海路」のほうが若々しい感じを持っている。何となく渋谷に似ている。こちらはできたばかりのホテル、スーパー、そして若者が喜びそうなブランドものの専門店が数多く出店しているからである。だが所詮、これらの通りは普通の庶民の手の届くような商品はほとんど売っていない。休日にウインドーショッピングを楽しむだけである。

ファーストフード店*マクドナルド(麦当労)やケンタッキーはこの町の街角にあちこち出ている。そしてその混み具合といったら!ラーメンや炒め物のような一般的な中華風の食べ物に比べれば、かなり割高であるにもかかわらず、若者でいつも満員だ。いつも思うが、韓国、台湾、そして中国、ではどうしてこのような画一的な、栄養的にも偏った食べ物に人気が集まるのだろう。結局人々の食生活は最低レベルに落ち込まない限り、ファッションなどの心理面に強く支配されていることが分かる。そして食べ物そのものより、「西欧風の場」が重要視されているのだ。暗く、すすけた安食堂より、明るい照明のもとで友だちや恋人と談笑できるこれらのアメリカ風の店が上海の若者にとってもきわめて魅力的に写るらしい。

なお、コンビニエンスストアはほとんど絶無だ。たった一軒だけセブンイレブンにそのデザインを似せた店を見かけたが、依然としてまだ上海では「パパママストア」か上野のアメヤ横町にあるような店が主流である。コンビニが普及するためにはジュースやビールを冷やす冷蔵ケースが必要だが、これらは中心街でないと見あたらない。まず電力事情を改善するのが先決なわけだ。ただ幸いなことに「チンタオ(青島)ビール」は冷えていなくとも、さほどまずくないよ!

上海博物館 どの大都市を訪れてもできるだけ博物館や美術館を訪れるようにしているが、今回はおかげで中国の歴史や人物についての興味が大いに増した。外国人がたくさん訪れる博物館では各国語の解説を用意しているが、ここもちゃんと日本語での解説機が用意されてあった。ただ漫然と品物を見て回っても何も残らない。きれいだと思って撮影してもそれを見返すことは滅多にない。でもその由来や特徴を少しでも知るとずいぶん違うのだ。

借りた解説機械は中にたぶんICが内蔵されているのだろう。電話番号のように番号を押すとそれに関する解説が2,30秒程度流れるようになっている。すべての展示品について解説があるわけではないが、主要なものについては展示品の入ったガラスに番号が貼り付けてあって、それを自分の機械にプッシュして入力するのである。中国独特の装飾の多い模様の中にも普段なら全く気づかない、いろいろなモチーフが隠されているものだ。また印鑑は中国では一つの独立した芸術として発展してきたが、その持ち主の性格まで教えてくれて実におもしろい。

同じぐらいの国土を持つ中国とアメリカ合衆国と比較すると、その歴史の長さと豊かさには極端な違いがあり、それが博物館の収集物にも反映されている。台湾の故旧博物院や、ソウルの国立博物館もそうだったが、あらかじめ予備知識があると、いかに歴史の奥深さがあるか思い知らされる。また日本との関係もいかに古くから存在したかもよく分かる。

杭州 中国滞在の一日を南に約200キロ下った杭州への日帰り旅行に使った。200キロというと東京と静岡以上の距離であり、高速道路はないので、鉄道を利用することになる。幸い「観光」列車というのがあり、途中1回停車するだけの快速なので、わずか2時間で着いてしまった。切符を買うのはさぞ大変と思ったら、比較的近距離であり、週日ということもあって、すんなり買えてしまった。全席指定。

車内の様子は「人手の多さ」の項でも述べたが、とにかく快適そのもの。平均時速100キロを超えるスピードで、菜の花の黄色がどこまでも広がる平野を突っ走る。車内放送が始まるときの音楽がなんと「早春賦」のメロディ!この曲をどこから見つけてきたのだろう。車窓を見ながら「春は名のみの・・・」とつい歌ってしまいたくなる。人々は寝るか、カボチャかなんかの種をぼりぼりかじるかして時を過ごす。

西湖の中国式庭園杭州というのは「西湖」という美しい湖で有名だ。残念ながら霧雨けぶる天気であったのだが、それなりの雰囲気を楽しめた。杭州駅は工事中でその手前の東杭州駅に降りる。まず帰りの切符を買っておかねばならない。湖までは6キロほど離れており、ここでペダルでこぐ人力三輪車に乗る。やせた男で、絶えず軽い咳をしている。カルカッタでも乗ったが、ここでもかなりの車夫が駅前で待ち受けている。でも客の奪い合いのような生臭いトラブルはない。実は普通のタクシーに乗るよりもかなり割高なのだが、途中の町の様子をゆっくり見るためにも、行きだけは1時間をかけても、こちらを選んだのだ(残念ながら杭州は近代的な町並みであったが)。車夫は久々の長距離客だということで、料金を受け取るときはとてもうれしそうだった。

周囲約18キロの湖を一周する最も良い方法は?歩くには遠すぎる。翌日は蘇州にもゆくのだから。それは貸し自転車なのだ。あるホテルでは、保証金300元をおいていけば、1時間単位で貸してくれる。人力三輪車でそこへ連れていってもらったのだ。「自転車」の項でも述べたように、特に貸し自転車はガタガタの代物。まずペダルがまっすぐでなく、楕円軌道を描いて回転するので、効率がすこぶる悪い。でも広い湖岸に沿う道を走り出すと実に爽快な気分になった。大勢の観光客が歩いているところを、外国人である私がすいすいと追い越して行くと、何か地元の人間になったような気がする。

自転車で出発 孤山という丘の庭園に入ったり、すてきな柳がたれる橋を渡ったり、梅の花の咲く中を歩いたり、大きなお寺の中を散策したり、時々小雨が振る天気にも関わらず、湖を一周を楽しんだ。本当は遊覧船で真ん中にある島巡りをしたかったのだが、視界が500メートルぐらいではどうしようもないとあきらめた。有名な観光地だが物売りがしつこくよってくることもない。インドやタイに行ったあとではやや拍子抜けだが、ここは実に静かな雰囲気を楽しめるところなのだ。

蘇州 翌日は上海から80キロぐらいしか離れていない、運河で有名な蘇州を訪れる。この程度の距離だし、南京へ通じる高速道路を通るから早いだろうと思い、高速バスを選んだ。が、蘇州のICを降りたあと渋滞でびくとも動かず、1時間30分以上かかってしまった。確実な時間で行きたければ、中国では鉄道に限るようだ。おまけに出発の時のバス・ターミナルと帰ってきたバス・ターミナルが違うのである。「タクシー」の項で述べたようにひどく遠いところにおろされてしまった。高速バスの料金は鉄道よりやや高いが、快適だし、行きの時は一人一人にミネラルウオーターを配ってくれるサービスさえあった。切符を買うときに、むこうで勝手に3元上乗せして、傷害保険に入らされるのである。それほど事故が多いのかしら?

臨門高速道路は日本と構造や看板の表示方法や色まで全く同じで、舗装の仕方も、韓国や台湾と比べて格段に上等である。だから高速度でとばしても振動が少ない。さて蘇州のターミナルからはまた同じく人力三輪車に乗って貸し自転車屋のある地域まで行く。今度は大した距離ではないが、いざ目的地で降りようとすると、名所を一つ一つ連れてゆくから、まだ降りるなと車夫が言う。これがまたしつこく、土産物屋に連れて行かれてはかなわないので、言葉巧みに(この語学力ではとても巧みとは言えないが)断って、ある庭園の中に逃げ込んだ。「ピエトンウオ!(俺を待つなよ)」と言い残して。

北寺塔この町は「太湖」という大きな湖につながる網の目のような運河と点在する庭園が素晴らしい。もっとも、庭園に関してはすでに豫園で満喫したので、程々にして、もっぱら運河とそこを行き交うはしけなどを眺めて楽しんだ。実は10キロほど先にある昔の橋を見ようと苦労してボロ自転車をこいだのだが、途中で道を間違ってしまい、(全く知らぬところで迷うのは実に恐ろしい)だいぶ時間を損してしまった。あまりスピードを出したので、タイヤがリムからはずれかかってしまい、(もしパンクしたら、店までひいて帰るのか!)いつ自転車が壊れるかヒヤヒヤしながら市内を回った。

怖いことは続くもので、最後に「北寺塔」という7階建てのお寺の塔に登ったところ、観光客がまわりにおらず、6階から最後の階段にかかろうとしたら、ジュースを売っている腕っ節の強そうなお兄さんがふたり、とうせんぼして、あと1元払わないと7階にはのぼれないとのたまわる。最初の入り口で5元払ったのに、周りに人がいないときに、一人旅の者を狙って、私設料金所を勝手に造るものだから、腹が立って、「プーヤオ(じゃあ結構だ)」と言い捨てて、6階から下に戻ってやった。彼らはせっかくの収入を無くして悔しがっていることだろう。

帰りは冒険にも路線もろくに知らずにバスに乗ってみた。この日はどうもついて無かったらしく、バスは変な方向に曲がって、だいぶ遠くへ連れて行かれてしまった。でも駅の方向へとぼとぼ歩くうち、古びた民家の間にすてきな運河と出会い、観光客の目に触れることのない、ひなびた「中国のベニス」の雰囲気を味わうことができたのである。

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