その1(2023年11月)

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大宇陀(紀行文)→大和郡山矢田寺・松尾寺正暦寺・帯解寺

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外部リンク元明天皇が710年、外部リンク平城京を造営して以来、奈良の町は、都市計画、荒廃、神社仏閣の成立と衰退、近代都市への変身、と目まぐるしく変わってきた。1000年以上にわたるこの変化の集積が現在の奈良である。その痕跡は、街角に、路地に、人の訪れないひっそりした山間部に発見することができる。

それらを目撃したければ、歩くしかない。時速4,5キロのスピードなら、周囲のものをあまり見逃すこともなく捕まえることができよう。しかも、巨大な京都の町と比べ、奈良はずっとこじんまりしている。今回(2023年11月8日~12日)の歩きは2020年2021年2022年4月2022年11月に次ぐ、第5回目のものである。

外部リンク大 宇 陀 2023/11/08

フェリーで名古屋港に到着した後、奈良盆地へは近鉄大阪線で向かったが、その途中駅に「榛原駅」がある。日暮れまでの時間を有効に利用すべく、この駅に下車してバスに乗り下車地で荷物を置いて徒歩で寺に向かう。山中にある大宇陀地区の一周コースである。

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5回目の奈良訪問であっても、フェリーにはこたえられない。映画の上映、真夜中でも利用できる浴場、(予算が許せば)バイキング料理、そしてただ大海原を見つめるだけ、これらが22時間の間に満喫できる。名古屋から奈良までは新幹線でも、関西本線でも、近鉄線でもお好み次第。
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名古屋に到着したのが午前10時半で、奈良県に近鉄線で入ると午後2時頃になった。榛原駅で下車する。駅前には大宇陀の観光案内所があった。みんなこの駅を経由してゆく。バスで終点の道の駅「宇陀路大宇陀」に到着。ここが徒歩コースの出発点だ。道の駅は地元の人々でにぎわっている。もしかしたら大宇陀地区の中心ともいえるかもしれない。
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道の駅の前に橋がかかっている。季節柄、菊が満開だ。これは大輪ではなく小さなたくさんの花をつけた品種だ。
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松山地区」は戦国時代から続く城下町。すぐに大宇陀のメインストリートに入り、「まちかどラボ」という観光案内所があり、この街の伝統的建造物を紹介している。
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格子に差し込む日光が奥行きのある和室にアクセントを添えている。
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格子の美しい商家。草木模様の布が懸けられている。
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この街は薬でも有名であった。この薬屋「薬の館」の看板(左上)の形が面白い。
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道しるべ。左側の面には「京・大阪」とある。側溝の上をまたいでいるのが珍しい。
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松山西口関門」。これで城下町である松山地区を抜け、「宇陀川」を渡って山の方に向かう。
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急に山林に入った。急な石段が続く。
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臨済宗「徳源寺」に住職はいない。それどころか雨戸も閉まっていた。あきらめて帰ろうとすると急に(管理の?)女性が現れて、雨戸をあけて説明をしてくれるという。
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織田信長の次男である信雄とそれに続く人々の4代にわたる墓所があり、本堂の中に位牌や仏像が雑然と並び、天井には雨漏りのあとがあった。そしてこの襖絵は狩野派の作品だというが色が褪めて判然としなかった。だがカメラで撮影してみると、何らかの輪郭がこのようにはっきりと浮き出てきた。
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本堂を出ると「布袋(ホテイ)」さんが鎮座している。
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ちょっと変わった形の「六地蔵」。この上に墓所があるのだが、がけ崩れのために通行止め。
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徳源寺から今度は南下すると、「阿紀神社」がある。天照大御神が伊勢に移される前に置かれていたというから、相当古い神社だ。
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それに何といっても綱吉の時代には能が盛んだった。
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ちょうど1か月前に、ここで「阿紀能」が行われていたのだ。
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この「高天原(タカマガハラ)」と書いてある立札のうしろの森林は旧阿紀神社であり、ここで伊勢に移る前の天照大御神を祀っていた。立札には「パワースポット」とも書いてある。実際に中に足を踏み入れてみた・・・
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この立て看板の写真は人々が日本書紀に記された「薬狩り」、つまり薬用植物を採集しているさまを画家たちが描いたもの。本物は「大宇陀万葉公園(=かぎろひの丘)」で見ることができる。
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この時期は奈良盆地ではどこの柿も鈴なりだ。サイズは小ぶりである。誰も採集しないらしい。一方スーパーでは大きいものが売られ、人々はわざわざ金を出して買い求めている。
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「阿騎野人麻呂公園(アキノヒトマロ)」内にある柿本人麻呂の騎馬像。初め遠くから聖徳太子かと思った。「東の野の炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」(692年)
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コースも最終段階に入った。道の駅のすぐ裏山にあるのが「大願寺」。先の織田4代とかかわりがある。中の紅葉が真っ盛りだ。
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 コントラストが弱いのでよく見えないが、これは「仏足」。
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 こちらは比較的新しく(1843年)、青面金剛像の庚申さんであるが、かわいい子供のような姿なので、俗に「おちゃめ庚申」と呼ばれている。
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 こんな太くてまっすぐ上に伸びた松の木を見たことがない。

ここから先は長文で写真なしです。

2023年11月8日

今日は大宇陀(オオウダ)へ向かう。 名古屋から近鉄に乗って「大和八木(ヤマトヤギ)」へ向かう途中、六つ手前の「榛原(ハイバラ)」という駅で下車。そこから奈良交通バス1系統で20分ほどそこが大宇陀である。 これは宇陀市の一部であるが、古民家がたくさん並んでいて、そこが1つの魅力になっている。

バスの終点は道の駅「宇陀路大宇陀」というところで、その地元の野菜や生産物がたくさん売られている。 着いたのは午後の2時過ぎなので、ちょうど人々が大勢出入りしている時だった。 この道の駅にはコインロッカーがないので、仕方なく大きな荷物を道案内の看板の裏に隠す。ここから北東へ向かって、さらに北へ向かってルートが続いている。

まちづくりセンター」というのがまず目に入って、そこには何軒もの民家が保存されている。さらにその通りを前に進むと同じように保存された民家が次から次と目に入る。いずれも格子を生かした造りである。 シンプルで綺麗だ!小さな店には奈良漬けも売っている。これは奈良の中心部で売られているのとは違った味だろう。

民家の並ぶ通りが北の方へまっすぐと伸びていく。 3時をまわってもうすでに人の流れは途絶えていたが、建物美しさはどこまでも続いていた。 この大宇陀というのは薬でも有名だ。 大きな薬屋さんがあり、宇陀市大宇陀歴史文化館「薬の館」というのがあって、それがちょうど町の中心部にあたり、立派な建物となっている。 途中で方向を西へと変えると「松山西口観音」を経て町はずれにやってくる。

一番西の端にあるのが北西にあるのが「徳源寺」だ。 松山織田藩二代藩主、織田高長が父織田信雄(ノブカツ)の菩提を捉うため、弔うために開いた寺だ。 織田公墓所があって、織田信長の次男であった、信雄も埋葬されている。。行ってみるとお寺はボロボロで、しかも雨戸が閉められていたのだが、何ということか、その管理人らしき女性がちょうど外出から帰ってきたところだったのだ。

彼女はすぐに雨戸を開けて中を見せてくれて。 私はそこでお参りをしたり、彼女の丁寧な説明を聞くことができた。 徳源寺はもはや住職のいない廃寺であり、信徒はいない。 そして、修復のためのお金もないまま、優れた絵画や優れた仏像なども放置されていて荒れるがままである。 しかも宇陀市はこのお寺に対してほとんど関心を抱いていないので、これからも雨漏りを直すこともできないと言っていた。 墓所はがけ崩れのため、近づくことができない。

この徳源寺を中心にして、この町の発展の話も聞いたし、ここでは水銀が取れて、その水銀を材料にした顔料や様々な工芸の発達も起こっていた。能舞台も作られ、大勢の観客が訪れたという。 今回丁寧な説明を受けたことは実に幸運であった。

この後、南に向かい、「阿紀(アキ)神社」にやってきた。 天照大御神を伊勢に祀る前にまずここで祀られたという。しかも。 ここではかつて綱吉の時代に大規模な能の公演が行われたといい。 ポスターによれば今年もその能の舞台が10月に行われたという。

この後「かぎろひの丘」つまり日本全国にどこにでもあるような万葉公園の1つを通り抜け、「柿本の人麻呂」の銅像が建つ公園を抜けて「大願寺」に立ち寄り帰ってきた。 全体としては7キロから8キロぐらいで2時間半ぐらいかかったが、もう11月に入っているから5時ともなるともうほとんど真っ暗になっていた。

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