(2005年7月) H O M E > 体験編 > 旅行記 > ずっと長崎・ちょっと広島 |
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~長崎市内(2)~オランダ坂~眼鏡橋~亀山社中跡~
長崎の街の通りの名前にはカタカナ名が実に多い。オランダ語から出たものもあれば、中国語関連もある。グラバー邸や大浦天主堂のある丘から、谷間の市電の線を隔てた丘には出島方面に下るオランダ坂がある。途中、孔子廟や西洋風建築の保存地区、古い歴史のある学校などを過ぎ、その道は山肌に忠実にうねっている。車は通れることは通れるが、次第に狭くなってゆく。 途中にある脇道の階段は幅が60センチもない。好奇心を起こしてその階段を下ってゆくといつの間にかオランダ坂は行方不明になり、民家がひしめき合う迷路のような階段の連続になってしまった。だがどんどん降りていけば最後には電車通りには出られるはずだ。 ここはまるでベネチアを思い出させる。車の絶対通れない道。そこの曲がり角を曲がると突然予期しない風景が目に飛び込む変化に富んだ街歩き。長崎弁ではぶらぶら歩くことを「さるく」というそうだが、スリリングな散歩が可能な日本でも数少ない街である。 最後に出たのは中華街周辺。福建通りの横にある中国風の公園で疲れた足を冷やしていると、日蓮大上人」の地震の予言を伝える子供連れの女性が二人近づいてきた。しばらく彼女らと(友好的な雰囲気で)議論をして立ち上がると、もう6時近かった。 市電の通る道路には中島川という名の川が平行して走っている。非常にたくさんの橋が架かっているがたいていが古く石造りだ。その中にあの有名な眼鏡橋がある。何かの団体の人がロウソクの入った紙コップを橋の周囲や欄干に置いている。何かが始まるようだ。川からどんどん山手に登って行くと突然お寺の建ち並ぶ通りに出た。寺町である。 こうなれば、亀山社中も近い。だが、道がどれもきわめて狭いうえに曲がりくねっているものだから、入り口がわからない。ようやく無数の階段の一つに「龍馬通り」と書いてあるのを発見。市役所ではなく、この近隣の同好会有志が手製の看板を作って階段のいくつかの場所に設置しているのだ。説明文はみな手書きである。 あと300メートル・・・あと50メートルという看板に励まされながら日が暮れても止まない炎熱の中を登って行く。「亀山社中跡」といっても石の標識があるだけだったが、それでもここに龍馬たちが出入りしていたのだ。市街地からここまで往復するのはずいぶん大変だったことだろう。 すぐ横に、大男だった龍馬の履いていたブーツをかたどった青銅製のモニュメントがある。これはまだ知名度からすれば今ひとつだが、もうじき多くの人が訪れるようになるだろう。なかなかユ-モラスだから・・・しかも港を背景にした構図が素晴らしい。 山を下ると日はとっぷり暮れ、先ほど通った眼鏡橋の前には大勢の人々が集まっていた。今から二十数年前に長崎では梅雨のあける直前の大水害があり、これらの橋の多くが流され大勢の死者が出た。今回のキャンドルサービスはこのためだったのである。近くのお寺の和尚さんがスピーチをして、読経をあげていた。 眼鏡橋ちかくの店で皿うどん(かたいそば)を食べて、この日の観光は終わり。ホテルに戻れば、サウナが待っているが、日中にかいた汗の方がはるかに多かった。むしろ冷水で体を冷やしたい気分だ。 |