ずっと長崎・ちょっと広島

(2005年7月)

龍馬のぶーつ

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~長崎から広島へ~

長崎から広島へ。約430キロの間を移動する。月曜日の朝7時に出発すると、途中1時間ほど下関でぶらぶらした以外は列車に乗りっぱなしで午後6時半に広島駅に到着した。行きとの大きな違いは長崎から鳥栖までは本来の長崎本線経由で、また博多から小倉までは鹿児島本線ではなく、ローカル線である福北ゆたか線(博多ー桂川ー直方ー黒崎)を経由したことだ。

この路線はかつての筑邦炭鉱地帯を通っており、鹿児島本線が海岸ちかくを通のに対し、こちらは小高い丘の点在する平野を通過する。かつては炭坑でにぎわったであろうこの路線は今や博多と北九州の間のベッドタウン、そして鹿児島本線のバイパスとなっているようだ。時間的には殆どどちらでも変わらない。

こちらは特急や急行が通っていないので、単線であるにもかかわらず優等列車通過による待ち合わせがほとんどなくスムーズに走行できるためだろう。工業地帯ではないから鹿児島本線沿いのような重苦しさはない。むしろ鬱蒼とした茂みを持つ丘を通り抜けたりしたしてなかなか変化に富んでいる。一瞬、谷間で水泳している少年たちの姿が見えた。プールでなく、川でそれも冷たい水をたたえた淵で泳げるなんてなんて幸せな子供たちだろう!

下関ー門司間はJR西日本とJR九州の境界線であり、新幹線が別に通っているというわけで間を通る普通列車の本数は少ない。しかも送電方式が違うので、ライトも冷房もいったん切れる。下関では広島へ乗り換えなしの普通列車を待つために一時間ほど駅前をぶらぶらした。

いざ乗ろうとして行き先の表示を見てびっくり。「広」としか書いていない。はじめボロ列車のせいで「島」の字が取れてしまったのかと思った。だがそうではないのだ。「広(ひろ)」とは広島の先、呉線の駅のひとつの名前で、広島はちゃんと通る。鉄道ファンなら常識的なことなのだろうが、気づくまで冷や汗をかいた。

山口県は読みにくい駅名が多い。厚狭(あさ)、埴生(はぶ)、幡生(はぶ)、嘉川(かがわ)、厚東(ことう)、通津(つづ)島田(しまた・・・しまだではない)などえんえんとつづく。途中瀬戸内海の島々が飛び込んでくる。京阪神工業地帯からまだ遠く、水深が浅いだけあって海の色が非常に明るい。縄文の時代からこんなのどかな風景が続いてきたのだ。

ローカル列車はいまや老人と高校生のための交通機関だ。その高校生の数が減って、老人人口もピークを迎えた後は地方の活力もすっかりなくなり、本数は大きく減らされることであろう。車社会が続く限り都市間を結ぶ列車でない限り隅に追いやられ、地方の画一化はいっそう進む。

尾道通過。この町は小津監督の「東京物語」、林芙美子の「風琴と魚の町」の舞台であり、なかなか味わいがある。駅の山側には大きなお寺(千光寺)があったはずだ。そして海は瀬戸内の恵みにあふれている漁港がある。

福山を過ぎると乗客が急激に増えてきた。時間的にも午後5時を過ぎているせいもあろう。宮島口を過ぎるともう完全に広島市内だ。宮島口はJR線の他、市電も平行して走っているのである。横川駅も市電の路線の終着駅の一つになっている。背後に中国山地を見て、列車は広島駅に滑り込んだ。

~広島での短い滞在~

広島も市電が走っている。ただ長崎や高知とは違い、市の面積が大きく、道路も広いので、こまめに動き回るには少々不足であろう。そのためか、県庁前からは新交通方式の「アストラムライン」というのが北の方角へ地下を走っている。

それでもすべての繁華街や重要施設には路線が行き渡っているから通勤には便利この上ない。原爆が投下されたときも2,3日後には運行を開始したという。非常時には頼りになる交通機関なのだ。

広島駅から市電に乗って5つ目ほどの胡町(えびすちょう)下車。ここから南下すると、広島の歓楽街、薬研堀(やげんぼり)に達する。この界隈は、日本全国の標準と比較してもかなりどぎついところだ。「SMショー」やら、かなり過激な看板が延々と続く。

そのど真ん中にカプセルホテルがある。3軒あるが、いずれもマッサージやサウナと同時経営をしていて、それらのサービスを併用するとホテル代の割引がある。ただしいったん中にはいると、外の世界とは裏腹に快適で静かな部屋が並んでいる。

これが安ホテルのシングルだと隣の部屋との壁が薄すぎてまるぎこえということになるが、ことカプセルとなるとその点は安心だ。中で立つことができない点だけを我慢すれば、清潔度、静粛度、温度、湿度、浴場やサウナなど、あらゆる点で合格である。

まわりで広島風お好み焼きの店を探す。バーやスナックは数限りなくあれど、なかなか気に入った店がない。この時刻なのにまったくお客がいないのも困るし、一軒大変繁盛している店があったが、満員で入ることができなかった。お好み焼きは量産できないのが欠点だ。一人あたりの調理時間が大変長いのである。

3人の中年サラリーマン風の男が客として入っているごく小さい店を見つける。これなら待たされることもない。マスターは50歳までバーテンダーをやってそのあとは足を洗いお好み焼き屋で20年。子供は独立し妻は死んだのでマイペースで店をやっているという。焼きうどん入りのお好み焼きを注文。

この界隈も全国の他の場所と同じく、景気が良くない。客引きがしつこい。このマスターは、札幌のススキノから仙台の国分町、その他新潟、金沢と殆どの盛り場を転々としたそうだが、女の子の質(特に話術)も落ちておもしろくなくなったと言っていた。

~広島平和記念公園~

広島原爆ドーム
原爆ドーム。電車の停留所の目の前にある。
広島平和公園
平和公園内。手前のモニュメントと原爆ドームの間には川が流れている。
広島市電
広島市電。最新式の低床車両。
広島城天守閣
広島城天守閣。平和公園に比べて人影もまばら。

広島では平和祈念ではなく平和記念である。長崎とは呼び名が違う。朝、いったん荷物を駅のロッカーに入れたあと、胡町と同じ路線をさらに進むと、原爆ドーム前に出る。ここは県庁や市民球場からはすぐの所。左手に原爆ドームが見えている。最近保存のための工事をしたそうだ。忌まわしい記憶を早く消したいという市民もいたが、この記録を永遠に人類に伝えることが決まって、世界遺産となったのだ。

元安川を挟んで対岸が平和記念公園になっている。モニュメントが多数配置され、その奥に資料館が置かれている。ここの原爆慰霊碑の「安らかに眠ってください過ちは繰り返しませぬから」という文字は、たまたまこの日の午後11時頃、愚かな男によってノミとハンマーで傷つけられた。

この言葉には政治的なメッセージは少しもないはずなのに、何を勘違いしたのか世の中にはこれを政治的な主張ととり、このように暴力的な方法で当たり散らす者が跡を絶たない。モニュメントにペンキをかけたり、千羽鶴を燃やしたり、いずれも姑息な方法で実行している。

今回の事件でも「過ち」を戦前の政府の政策の過ちととったらしい。彼にとっては「人類の過ち」と理解することができなかったのであろう。もっとも世間の多くの人々が政府の過ちと思っていたかもしれない。中には「アメリカの過ち」とか「帝国主義の過ち」と思っていた人もいるかもしれない。

核兵器は未だに世界の中で外交の道具として用いられている。だから広島も長崎も隙さえあれば政治の道具として利用される危険に常にさらされている。だが共にこれらの平和施設は政治宣伝の場ではなく、実際にあった惨禍を淡々と正確に歪めることなく伝えることが使命なのである。

広島平和記念資料館外部リンクは非常に広い。しかも長崎と同じく戦前の様子、爆弾投下の日、その直後の惨状、放射線被害の内容に渡っているだけでなく、さらに国際間での核兵器の扱いについてはいっそう詳しく扱っている。

最近どこの博物館や美術館でもやっているように、ここでも音声ガイドを実施している。300円を払うと首掛け式の受信機を渡され、全部で56種類の解説資料を聴くことができる。その中の19項目は、実際の惨状を述べた被爆者の体験を女優の吉永小百合が吹き込んだものだ。

資料館の北隣には国立広島原爆死没者追悼平和祈念館外部リンクがある。ここでも長崎と同じく水の流れを主体にした造りで、さらに死没者の検索や、原爆資料の閲覧の施設も備えている。モニュメントは長崎では直線的な設計なのに対し、広島では焼け野原になった市街地のパノラマ写真を配した円形の追悼空間を作っている。

~帰途につく~まとめ~

帰り際に少し時間があったので、広島城に寄ってみる。県庁の北側にあり、堀も完備しており、城門は原爆で焼けてしまったが、昔の通りに忠実に再現されている。 しかしこの周辺の主役は何といっても平和公園である。こちらは人影もまばら。

帰りは大垣発23時19分の「ムーンライトながら」に間に合うため、広島発15時23分に乗らなければならない。短い滞在ではあったが、長崎と広島と両方を見ることができた。

両都市とも、自分たちにかかってきた惨禍を忠実に記録し、それを後世に伝えることを第一目的としているようであった。もちろんこの大事件についてはどうしても政治的なきな臭さが漂うが、それらを極力避けて、できるだけ多くの人々に原爆の悲惨さを伝えておきたいという姿勢が見られる。

ここの点が最も重要であって、もしも原水爆禁止運動が政治の道具として、あるいは特定のイデオロギーの宣伝のために利用されてしまったのであれば、核廃絶への道は閉ざされてしまうことになる。そうでなくとも現代は1945年と比べて少しも事態は改善していない。

現実は、核兵器禁止など、世界の政治家にとっては誰もまじめに考えるような問題とはなっていない。にもかかわらず長崎と広島のすべきことは、絶えず世界中に1945年に起こったことが紛れもない事実であることを伝え続けることであろう。

最近の調査によれば、いざというときには核兵器の使用もやむを得ないと答えた人々のアメリカでの割合は日本の3倍以上にのぼっている。これはひとえにアメリカ人が原爆投下の事実もその悲惨さも何も知らされていないことにある。

投下した当時はアメリカ占領軍は「プレスコード」といって、厳重な報道管制をしいた。ナチスをはるかに上回る自分たちの非戦闘員に対する残虐行為を隠すためであるが、現代では原爆の実態をアメリカ国内で知らせようとしても、さまざまな妨害があって実現しないでいる。

無知な人間では、政治家たちの暴虐を防ぐことはできない。まずは本当の姿を知らなければいけない。ナチのユダヤ人強制収容所と同じく、広島と長崎も世界中の人々が一人残らず訪れるべき場所なのである。

今私は、「広島原爆資料館」と聞けば、すぐにあの建物を思い起こすことができる。それまでは遠い国の出来事だったが、今ではあのおぞましい出来事は現実感を持って思い起こすことができる。そして、この出来事は決して風化させてはならないと思う。これを忘れることは、「加害者」を許すことになるからだ。「加害者」が今でも世界中で人殺しを続けている以上、人類の未来にとってきちんとけじめをつけるべきだろう。

それにしても不思議に思うことがある。「原爆許すまじ」とは言うが、「アメリカ許すまじ」とは誰もいわない。日本人というのは何とお人好しというか、愚かなのだろう?それとも忘れっぽいのか?判断力がないのか?そもそも人間なのか?

それにしてもアメリカ合衆国というのは何とひどい国だろう。大統領から、末端の科学者まで力を合わせて「マンハッタン計画」を完成させた。彼らの宗教からすれば死後、永遠の劫火で燃やされることが確実な罪である。もちろん今頃彼らは苦しみうめいていることだろう。そうでなければやりきれない。

映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ Dances with Wolves 」などでわかるように開拓初期のアメリカ人がインディアンの頭の皮をはぎ、女子供を虐殺した史実があり、ナチスの強制収容所で殺したユダヤ人の髪の毛を使って服を作ったことと同列のことが行われたことを、きちんと誰でもが知らなければいけない。このような残虐性をたどっていけば、自然に広島・長崎の原爆投下に行き着くのである。

アメリカでは原爆は戦争を早く終わらせるのに効果的だったと宣伝している。彼らは永久に自らの行為を理解することはない。それなのに、日本人の大部分はは忘れるままに任せている。何かアメリカに恩でもあるのだろうか?百年、二百年かかってもいいから、アメリカの主要都市を原爆投下で更地にしようと思っている人はいないのだろうか?実に不思議である。きっとどこかにいると思うが。

2005年7月8月追加

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